第19話 その声は誰のもの(5)
「この場所は浴場でもあるけど、体育館でもあるんだよ。体を動かしたい人が集まって、みんなでああやって、スポーツしてるの。仕事が休みの日は特にすごいよ? 集まりすぎて、そこにいるだけで人の熱気で汗かくくらいなんだから」
そういうときは浴場の方もかなりの混み具合でね、順番待ちの列ができるくらいなんだよ。道すがら、ジェーンは丁寧に教えてくれた。
「春野もヒマなときは、ここに来てみると良いよ。アタシたちくらいの年代の子もいたりするから、結構話せると思うし、楽しいよ」
「はい。機会があれば是非そうしてみます」
春野は、こくんとうなずいた。
「で、お風呂はこっちね」とジェーンが誘導する方へと春野は進んでいく。
「浴場は男女で分かれてるんだけど、時間帯に決まりがあるの。今日はたしか、午後から入れるはずなんだよね」
ジェーンはとある入口近くで立ち止まって、その脇の壁にチョークで書かれている文言を眺めながら、「うん。大丈夫だ」とうなずいた。
なんて書いてあるのだろうか。彼女の背中越しにひょっこり覗いてみるけれど、春野には全く読めない難解な文字だった。
ふと見てみると、壁には他にも色々と書き込まれているようだった。あれも全部、この浴場に関することなのだろうか?
「どうしたの?」
「あの、ジェーン。あれって」
春野が壁の落書きを指差したときだった。
ぐらり、と世界が揺れた。
きゃ、と叫び声をあげジェーンに思わずしがみついた。ジェーンも突然の揺れに驚いて、思わず春野の手を強く握った。
周囲にいた人たちも、揺れを感じた途端にそれぞれ行動を止めた。歩いている者は近くの柱にしがみつき、倒れそうな物の近くにいた人は慌てたように中庭へと避難した。
建物自体もきしむような音をたてている。ぶつかりあう音、割れる音まで。まさかこの建物自体が倒れたりしないよね? 春野は強くジェーンの手を握り返して、早く揺れが収まってくれますようにと祈った。
――やがて、揺れは収まった。1分と満たないあいだの出来事だったが、春野の体感ではもっと揺れていたように思えた。
「地震だわ」
「また? やぁね、最近多くて」
髪の濡れた女性たちがそんな会話をしながら、春野たちの脇を通っていった。それを皮切りに、周囲にも喧騒が戻ってきた。何事もなくみんなはそれぞれの持ち場に戻り、行動を再開させている。
だが春野は動けなかった。伏せていた顔を恐る恐るあげて、「地震、なのですか?」と隣にいるジェーンに聞いた。彼女は辺りを見渡してもう揺れが収まったことを確認しつつ、うなずく。
「最近やたらと多いんだよね。大丈夫?」
「はい……」
本当はもう少し立ち止まっていたかったけど、ジェーンに手を引かれたのでゆっくりと歩き出した。完全に揺れが収まっていても、まだ体は余韻で震えているように感じたからだ。でも周囲の人たちにとっては、今の地震はもう「過去」のことらしい。本当に、何事もない様子だった。
道を誘導してくれていたジェーンが、不意に脇道へと逸れた。
あるいは、どこかの入り口だろうか。ドアがないからわからなかったが、人がすれ違うだけでギリギリの通路だ。ゆえに狭く、そしてだいぶ暗い道だった。何より、じっとりとした熱気が辺りに充満している。
すれ違う人たちがみんな体を濡らしているので、もしかしてお風呂が近いのだろうか。
やがて周囲が開けた場所へと変わり、ようやく辺りもわずかに明るくなった。服を脱いだ女性たちがたくさんいる。天井を見上げれば、かなり高い位置に壁画が描かれていた。
「はい、春野」
名前を呼ばれたと同時に、顔を向けるとジェーンからカゴを手渡された。「これは?」と聞いた。
「このなかに、今着てる服とか全部入れるの。あ、でも貴重品は大事に持っててね。じゃないとお風呂からあがったとき、無くなってることあるから」
貴重品。何かあっただろうか。……あ、そういえば。
春野は頭に手を置いた。あれ、と首を傾げる。そこには自分の髪の感触があるだけだ。
そんな春野の行動がよほどおかしく映ったのか、ジェーンがクスクス笑いだした。
「どうしたの?」
「え? あ。なんでも……」
うまく説明することができず、春野は慌てて首を横に振った。なんだろう。今、頭に何か「大事な物」があったような気がしたんだけど。
気のせいか。今朝目覚めてからついさっきまで、頭に何かを載せた記憶はない。何か勘違いしているらしかった。
「ほら、早く入っちゃお」
「は、はい」
ジェーンは近くの空いてる棚にカゴを乱暴に放り込むと、勢いよく服を脱ぎだした。
泳げそうなほどの広いお風呂だ。足先をちょっと入れて、温度が大丈夫なことを確かめてから春野はゆっくりと湯に浸かった。
肩まで充分に沈ませると、体を包む温かさに思わず溜息がこぼれる。
「気持ち良いわねぇ」
隣にいたジェーンがこぼした言葉に春野も「そうですねぇ」とうなずいた。
頬に集まる熱を感じながら、白い湯気が辿りゆく先をぼんやり眺める。天井にはやはり絵が描かれていた。
ああ、何の絵なのだろう。もっとよく見てみようと、春野は目を凝らした。
うーん……。平行に吊るされた器が2つ? 秤っぽく見える。左と右の器にはそれぞれ、何かが置かれているが湯気のせいでよく見えない。
何より気になるのは、その秤の真ん中には骸骨が描かれていたことだ。目の辺りが空洞なのか、黒く塗りつぶされている。
「何見てるのぉ?」
横から、柔らかな感触があてられる。春野は「あれです」と呟きながら天井に描かれた絵を指さした。
「ああ……」
隣から、間の抜けたような声が響いた。春野は思わず隣を見る。
密着する体には、服の上からではわからなかった、彼女のふくよかな胸があたっている。若干の敗北感を覚えた。
「……ちゃんと聞いてますか?」
「うん、聞いてる聞いてる。それよりさぁ、春野ぉ。さっき、何か言いかけてたよね。地震のとき〜」
「さっき? ……ああ」
あのときか。
壁ですよ、と春野は言った。
「壁? 春野、壁見るの好きだね」
「いえ、好きとかではなく。何か色々書かれていたではないですか。全部、お風呂場の案内なのかなって思って」
「あ〜あれねぇ……」
ようやくジェーンは、春野に寄りかかっていた身を起こすと、天井に向かってゆっくりと体を伸ばした。
「あんなの、ほぼ落書きだよ」
「たとえば、どんなのが?」
「どんなの……。うーん、選挙が近ければ誰かを支持するとか。あいつには入れるな! とか。まあアタシたちには関係ない話だけどね。それから、あるいは誰かへの悪口とか」
ふと、ジェーンは真顔になった。不思議に思った春野が「どうしたのですか?」と聞くと、彼女の口角が意味深にニィッとあがった。
まるで幼い子どもが愉しい悪戯を思いついたみたいな、そういう笑顔だった。
「あとそれからね。こうも書かれてたのよ」
言うなり、彼女は「耳貸して」と言って体を寄せてきた春野に、こそこそと小さな声で喋った。
ふんふん、と真面目に聞いていた春野はやがて、ボンッと一気に頬を赤くした。だが決して逆上せたわけではない。
彼女の口がわなわな震えだした。
予想通りの反応だ。ジェーンはクスクス笑っている。
「ほ、本当にそんなことが書かれてたんですかぁっ!?」
風呂場に反響した春野の声に、近くにいた人たちが何事かと振り返る。だがそんな視線に気づかないほど、春野はひどい動揺っぷりを見せている。
初心すぎる反応にジェーンは甲高い声でゲラゲラ笑い出した。
「本当よ、本当!」
「ううう……ウソですよね? そんな……だって……。えぇ!?」
そんなの、大人同士がする会話ではないか! 自分たちにはまだ早すぎる!
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