第17話 その声は誰のもの(3)

「ここの人たちは朝早くにパンを焼き始めるから、今から休憩なんだよ」

「そうなんですか」


 さて、目的の場所は東の門だという。「ここから少し歩くけど、大丈夫?」とお母さんに聞かれて「平気です」と答えた。

 大通りに出ると、周囲は途端に活気づく。車を曳いているロバを誘導して歩く商人や、多くの食材を詰めた容れ物を頭に載せて運ぶ幼い子ども。露店の方ではカゴを片手に商品を吟味する女性や、少しでも彼女たちの目に留まるようにと店先で一生懸命に声がけをしている男性がいた。

 あるいは、あれは旅人だろうか。道端に座り込んで、骨付き肉にかぶりついている。そのおこぼれに少しでも預かろうと、野良犬や鳥たちが旅人の周りをうろついていた。

 赤く照りつける太陽の下。皆の目は生き生きと輝いていた。けれどそれらを眺めても春野はやはりピンとこなかった。少しでも自分の欠けてしまった記憶のピースに嵌まってくれれば良いのに、どれも見覚えがない。本当に自分はたったの一晩でどうしてしまったのだろう。

 ふと、ジェーンが自分を見ていることに気が付く。心配そうに見つめてくる黒い瞳に気づいて、春野は笑ってみせた。

 これ以上、家族に心配をかけるわけにもいかない。パン屋のおばさんのときは突然のことでジェーンやお母さんに全部任せてしまったけど、次からは自分でどうにかしようと思った。

 たどり着いた東門。だが、門といっても扉が備え付けられているわけではない。レンガを積み重ねてできたアーチ状のそれがどっしりと構えてあるだけの簡素なものだ。

 その下には大勢の人が集まっていた。女性と子どもばかりで、男性はいない。彼女のなかの1人が春野たちに気が付いて手を振って来た。先頭を歩くお母さんが少し速足になったので、春野たちは慌ててそのあとに続く。


「遅れてごめんなさい。わたしたちが最後かしら」

「そうよ。随分と珍しいじゃない。どうしたの?」

「春野が寝坊しちゃってね。準備に手間取ったのよ」


 声をかけてきたのは、黄金色の巻き毛をした女性だった。

 早速事情を説明したお母さんの脇から、春野はスッと前に出て、巻き毛の女性に向けて頭をさげた。


「遅くなって申し訳ありません。私が寝坊したばかりに」


 女性は驚いたように目を丸くしていた。


「あらそうなの。春野ちゃんが寝坊なんて意外だわ」

「今日は寝つきが悪かったみたい。ほら最近、地震が多いでしょ? きっとそのせいだと思うわ。昨日もけっこう揺れたじゃない」


 お母さんがさらに言い添えると、「たしかにねぇ」と女性はうなずいた。周りにいた同じ年頃の女性たちも、「そうよね。最近地震が多くて」「いきなりドカンと来るから、びっくりして飛び起きるわよね」などと会話に参加し出す。


 地震。何か引っかかるものを覚えた。どこかで最近、聞いたことがあるような。


 思わず周囲を見渡してみる。今抱いたばかりの違和感をヒントに、突発的に何か思い出せることはないだろうかと思った。

 あたりに注意深く目を配っていると、ジェーンと目があった。


「春野、どうかした? キョロキョロしちゃって」

「何か変じゃありませんか?」

「何かって?」


 ジェーンが首をかしげる。彼女の言い方にはありありと「心配」の二文字が並べられているような気がした。

 春野は慌てて微笑む。さっき自分で「もう心配をかけるのはよそう」と決めたばかりだというのに。いったい何をしているのだろうか。


「なんでもありません」

「そう? 春野、今朝からなんか変だし。もし体調悪くなることがあったら言いなさいよね」

「わかりました」


 ジェーンの言葉に深くうなずいた。


「さて、人もそろったし。そろそろ出発しますか。今日はイチジク採りに行くんだものね」


 立ち話の区切りもついたか、巻き毛さんは一度会話の輪からはずれると東門の前にいる甲冑姿の門番に声をかけに行った。

 巻き毛さんが一言告げると、すぐに門番はうなずいて道を通してくれた。彼女のあとに続いて、春野たちはぞろぞろと門から出ていく。


 件の森へは、目と鼻の先だった。門を出た道がそのまま森へと続いている。

 どれも初めて見る光景だった。なんとか記憶から呼び覚まそうとして道すがら周囲を見渡してみるが、どこを見てもピンと来るものはない。

 あるいはここに来ること自体が初めて、というのも考えられるけど……。春野は隣を歩くジェーンへと目を向けた。


「森へは何度も行っているのですか?」

「もちろん」


 でも、とジェーンは続ける。


「春野は初めてだよね」

「そうなんですね」


 なら思い出せなくて当然だと、ようやく割り切れた。


「なら、ジェーンもイチジク採りは初めてなのですね」

「アタシは違うわよ。小さい頃から何度か」


 そこでジェーンはふと会話を止めた。「どうしたのですか」と聞く言葉を言い終える前に、先を歩いていた母の背中に顔をぶつけた。鼻を抑えつつ前方へ目と向けると、先頭が立ち止まっている。どうやら目的の場所に着いたようだ。

 森の深いところまで来たのか、周りには赤い実をつけた木が生い茂っていた。あれが今回の目的である、イチジクだろうか。

 あんなに熱かった陽の光も木々のおかげで遮断されている。少しだけ涼しかった。


「みんなカゴは持ってるわね」


 ジェーンが隣で、カゴを背負い直すのがわかった。春野も自分の肩にかかった紐をそっと撫でる。家を出る前に、お母さんから渡されていたのだ。


「それじゃあ、太陽がてっぺんに昇るまで、カゴいっぱいにイチジクを摘みましょう」


 巻き毛さんの言葉を合図に、あっという間にみんなは目的の場所へ、方々に散らばっていった。


「春野、こっちよ」


 ジェーンに手を引っ張られるまま、春野は彼女のあとへとついていく。


「春野は初めてだから、まずは見ててね」


 言うなり、ジェーンはカゴを背負ったまま木の枝に腕や足をかけてスイスイと、まるで猿のようにのぼっていった。

 それから手近にある木の実を手に取り、それを陽の光にかざしたりして1つうなずくと、もぎとって、背中にあるカゴに放り込んだ。


「こんな感じ!」

「いや、教え方がちょっと」


 雑過ぎる、と言いかけて口を閉ざした。教えてもらっている立場で失礼か。

 とはいえ、雑であることに変わりはない。


 イチジク採りに参加している、他のメンバーを見渡した。周りの子たちも、我先にと次々木へ登っていって、背中のカゴをあっという間にいっぱいにしている。

 何もしていないのは春野だけだ。

 メンバーの中にはもちろん、春野よりも小さい子もいて、彼らも積極的に木に登っている。しかし一方でそうでない子たちもいるようで、そういう子たちは木の根元でカゴを持ったまま、落ちてくる木の実を待機していた。


「私は初めてで時間がかかると思うので、ジェーンが木の実を採ることに専念してください」

「それじゃあ、春野が暇になっちゃうじゃない?」


 降り注ぐ声に春野は「いいえ」と首を横に振る。


「私はあんな感じで、下でジェーンが採った木の実を自分のカゴに入れていきます。背負ってるカゴも貸してください」


 春野が指差した方向。それに気がついたジェーンの目にも小さい子たちの様子が映ったようだ。「なるほど」と納得したようにうなずく。

 彼女はすぐに背にあるカゴを肩からおろすと、下で待ち構えている春野にそれを手渡した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Anise 凪野海里 @nagiumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説