第16話 その声は誰のもの(2)
食堂に向かうと、そこには1人の女性が朝食をテーブルに並べていた。焼き上がったばかりのパンと、湯気をたてたスープ。美味しそうな香りがあたりに立ち込めていて、春野はついうっとりしてしまう。
あの女性が、お母さんだろうか。ジェーンと同じ黒の髪を簪でまとめている。彼女は春野たちに気がつくとクスクス笑った。
「おはよう、お寝坊さん」
「おはようございます、お母さん」
「ママ、おはよう。ねえ聞いて、春野ったら変なのよ」
ジェーンは早速、今朝起きたばかりにやらかした春野の失態を、お母さんに話した。いつまで揺すっても起きなくて、ようやく目が覚めたと思ったらジェーンに向かって「誰ですか」だって。
春野は顔を赤くした。何もお母さんにバラさなくたって良いのに。
お母さんはそれを聞いてまたクスクス笑う。
「春野は朝に弱いのね」
「そんなことないです。寝ぼけていただけですから。ジェーンもわざわざ言わなくて良いのに」
ついムッとしてジェーンをにらむと、彼女は「だって面白かったんだもん」とおかしそうに笑っている。
「そんなに言うなら、もうジェーンには構いませんから」
「ああ、ウソウソ! ごめんね、春野。ウソだから。からかってごめんね。赦して。ね?」
そっぽを向くと、ジェーンもまずいと思ったのか慌てて言い繕ってきた。
春野は悪くないよ、悪いのはアタシだからね、本当にごめんね。もうとにかく自分の頭のなかで思いつく限りのあらゆる謝罪の言葉を使って、ひたすら頭をさげている。
お母さんが苦笑いを浮かべて春野を見てきた。その目が「もう赦してあげなさい」って言ってる。春野はため息を1つついた。
「もう、私をからかったりしませんか?」
「しない。そりゃもう、絶対しない。約束するから」
「わかりました。なら機嫌を直します」
「ありがとう、春野。愛してる!」
ギュッと抱きしめてきて、挙げ句頬にキスまでしてきた。
彼女が離れたあと、キスされた頬に手を添えてしばらく茫然としてしまう。
こういうスキンシップさえ、当たり前のことだったのだろうか。記憶にないけど。
「さあ、仲直りもしたことだし。早く朝ご飯を食べちゃいなさい。急がないとみんなと森に行けなくなっちゃうから」
「はぁい」
お母さんの言葉にうなずいて、春野とジェーンは椅子に座る。
「いただきます」
春野が両手を合わせてそう挨拶すると、またジェーンとお母さんが春野を見てきた。
「どうかしましたか?」
視線を向けられるとちょっと居心地が悪い。さっきだって家族に向かって「誰ですか」なんて問いかけてしまったばかりだ。
また何かやらかしてしまっただろうかと、不安になって春野が彼女たちの様子を伺うと。ジェーンが一言「やっぱり、今日の春野は変だよ」と呟いた。
ジェーンとお母さんと一緒に家を出たとき、同じ敷地内にある狭い道から女の人が姿を現した。体が横に大きいから、ただでさえ狭い道幅を占領するようにやってきた彼女からは、朝に食べたパンと同じ香りがした。
彼女は今まさに森に出かけようとしている春野たちを見るなり、まず「おはよう」と挨拶してきた。
「おはようございます」
お母さんが真っ先に挨拶を返して、ジェーンも同じように朝の挨拶をした。春野はつい2人の陰に隠れてしまう。ふくよかなその女性も知らない人だった。
だが、家族は親し気に挨拶を交わしたあと、ちょっとした世間話までしている。「どこに行くの」「森まで」「ああそうか、木の実採りに行かなきゃだもんね」――。
春野はすっかり置いてけぼりにされたような気持ちで、3人を見ていた。自分が心の内で感じている不安とは裏腹に、明るい調子でテンポ良く会話を繋げる彼女たちがなんだか別世界の存在に思えた。
そのときふくよかな女性の目が、春野の目とかちあった。慌ててそらすが、女性は気にした様子もなく「春野ちゃん、おはよう」と挨拶をしてくる。
返さなければ。
「お……はよう、ございます」
目線を下に、ボソボソッと愛想のない挨拶をしてしまう。
名前を憶えられているということは、彼女もジェーンたちと同じく自分を知っている人の1人だろう。でも相変わらず春野には全く覚えがない。
春野は思わず隣にいるジェーンに「助けて」と念を送ってみた。
ジェーンは気付いてくれた。あ、と小さく声をあげたあとで。「あのね、おばさん」と、春野とふくよかな女性のあいだに割り込むようにして、声をかけた。
「今日の春野、ちょっと調子が悪いみたいなの。寝て目が覚まして記憶喪失になってたっぽくて。アタシもよくわかんないんだけどさ、朝から変なんだよ。起きるなり、アタシたち家族に向かって『誰』とか言うから。もしかしたら、おばさんのことも忘れてるかも」
ジェーンが洗いざらい事情を説明すると、ふくよかな女性は眉をひそめて気の毒そうに春野を見てきた。春野は内心、怒られやしないか怯えていた。
すると女性はその場で少し膝を折って春野と目線を合わせたかと思うと、前触れもなく手を伸ばしてきたので思わず身構えてしまう。
でも女性は春野の頭に手を置いて撫でてきた。優しく、労わるように。
「もしかしたら、何か怖い夢でも見たのかもしれないね。大丈夫だよ、春野ちゃん。ここには怖いものなんてなんっにもないから。大丈夫。記憶がなくたって直に思い出すさ。あ、そうそう。わたしんとこのパン食べてくかい? そしたらすぐにでも元気がでて、記憶も取り戻すさっ!」
「え、あ」
「おばさん、実は今朝もおばさんのとこで作ってるパン食べたんだよ」
家の窯で少し温め直したやつだけど、とジェーンが付け加えると、おばさんは「ならパンが足りないんだ」と言った。背を伸ばして、おばさんはお母さんを見る。
「帰りにまたうちに寄っといでよ。春野ちゃんのために焼いてあげるからさ」
「あら、良いの?」
「もちろんさ。だから春野ちゃん、そんなに落ち込むんじゃないよ。大丈夫、記憶なんてのはね案外コロッと戻るもんなんだから」
「すみません。なんか、ご迷惑をおかけしてしまって」
頭をさげようとすると、また頭を撫でられた。
「細かいことは気にしなさんな。あ、記憶喪失ってことはわたしのことも忘れちまってるのか。わたしはね、そこの」
おばさんは今まで自分が歩いてきた狭い道のりを指差した。
「表通りの方で旦那と一緒にパン屋やってんの。何かあったら力になるからさ」
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
お礼の言葉と共に頭をさげる。おばさんは「それじゃあね」と言って、道の奥へ歩いて行ってしまった。
良かった。悪い人じゃなさそうだ。つい、ホッと息をついてしまう。
お母さんとジェーンを見ると、彼女たちも微笑みを浮かべながら春野を見ていた。
「良かったわね、春野」
「おばさんの言う通りだよ。落ち込むことないからね。何かあったら、アタシが春野を守るから」
「ありがとうございます」
表通りにでたとき、たしかにふくよかなおばさんの言ってた通りそこにはパン屋があった。
ただ、今は誰もいなかった。カウンターの向こう側はひっそりと静まり返っていて、人の気配も感じられない。でもたった今までパンが売られていたのはたしかなようで、朝ご飯のときに嗅いだ香りと同じものが春野の鼻孔をかすめた。
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