2章 砂の国・サーブロ
第15話 その声は誰のもの(1)
誰だろうか。自分の名前を呼ぶ声がどこかから聞こえたような気がして、春野は目を覚ました。
辺りは闇に包まれていた。手を前にかざして、壁らしきものが触れないか探ってみるけれど、特に何かが触れることもない。ただ、奇妙なことに気が付いた。辺りを覆うほどの闇だというのに、何故か自分の手が見えるのだ。まさか自分の体だけが光っている? 春野は自身の手をまじまじと見つめ、それから足で何度も地面を叩いた。床なのか、むき出しの土を踏んでいるのかわからないけれど、平坦な地の上に立っているのだけはわかった。
さて、もう一度辺りを見渡してみる。やはり何もない。そういえば、声が聞こえていたんだっけということを思い出して、春野は再び耳を澄ましてみた。自分の呼吸と心臓の音がやたらと耳にこだましてうるさかった。試しに呼吸を止めて、少しでも音の出所を探ろうとする。心臓の音はどうしようもない。止めるなんて出来るはずもないし、というかそれをしたら死んでしまう。
ああ、やっぱり聞こえる。か細くも小さな声。自分を求める声だ。男なのか、女なのか、老いているのか、若いのかすらわからない。春野は声のする方へと、歩みを進めてみた。
するとだんだん、声がたしかな音となって春野の耳に届いた。「はるの、はるの」と呼んでいる。春野はいよいよ走り出した。近づいていくたびに声は大きくなっていって、やがて前方の暗闇から1点の光が見え始めた。
春野はそこに向かって手を伸ばす。
やっと見つけた、光に向けて。
光はやがて春野の体を包みだした。その温かな光のまぶしさに思わず顔を覆ってしまう。
はるの、と自身の後ろで。また別の声が聞こえるも振り返る前に闇は完全に光に吞まれてしまった。
「――るの、春野!」
「はいっ!」
耳元で自分を呼ぶ大きな声に春野は反射的に返事をして、ベッドからガバリと起き上がった。
ここはどこだろう。辺りを見渡してみても、そこは見慣れぬ景色だった。 第一印象は、狭い。ベッドが2つあればそれだけでスペースをとられている小さな部屋だった。
他に室内にあるものといったら、部屋を出入りするドアの近くに木材で作られた簡素な棚が置かれているくらい。一見してつまらない部屋のようだが、壁のいたるところにある落書きが土色の部屋に彩りを見せていた。
春野は寝ぼけ眼をこすりつつ、見覚えのない部屋について考える。そもそも何故、今の今まで自分は寝ていた? それから、寝る前は何をしていた? 唯一覚えているのは、自分の名前が「春野」というくらいだった。
あれ。そういえば、夢のなかで自分を呼ぶ声がいたような。その声で目を覚ましたのだ。何気なく枕元に目を向けると、ベッドの脇に少女が立っていた。黒い髪を首のあたりで短く切りそろえた同い年くらいの少女が立っていた。
春野は悲鳴をあげる。少女もその声に驚いて声をあげた。するとドアの向こうで何やら慌ただしい足音が響きだし、ドアが激しく叩かれた。
「ジェーン、春野! どうしたの?」
「何でもないよ、ママ」
すぐに少女がドアの向こうに向けてそう呼びかけると、ママと呼ばれた方は「そう?」と少し様子をうかがうように返した。
春野は怪訝に思いながら少女を見やる。「春野」は自分の名前。だったら、この見知らぬ少女が「ジェーン」なんだろうか。黒い髪を肩のあたりで切りそろえている。見覚えのない子だ。
でも、彼女たちは自分の名前を知っている。いったい何故? 謎は深まるばかりだ。
「何もないなら良いけど、早く朝の支度を済ませなさいね。今日はこれから森の方まで出かけるんだから」
「はーい」
やがてドアの向こうで人が立ち去る音が聞こえた。まだ春野は状況が理解できずに呆然としていたが、ジェーンに思い切り背中を叩かれたことで我に返った。彼女は怒ったように眉を吊り上げて、両手を腰に添えている。
「いつまでボーッとしてんのよ。ほら、さっさと起きて着替えて! 今日はママの言ってた通りに森に行って、イチジク採りに行くんだから」
「い、いちじく?」
なんでそんなものを。だが困惑している春野を置いて、ジェーンはてきぱきと朝の用意を済ませる。春野が身に着けていた服を無理やり脱がせ、白いシャツを頭からかぶせてきた。袖から腕を通されて、寝癖でボサボサになった髪をブラシで綺麗に整えてくれる。
慣れた手つきだ。もしかして自分はこれまでもずっと彼女に世話をされてきたのだろうか。
「よし、これで完了。春野、行くわよ」
「ま、待ってください」
無理やり手を引いてきて部屋を出ようとするジェーンに、ようやく春野は声をかけた。何、と振り向いてきたジェーンの黒い瞳をまじまじと見つめながら、春野は恐る恐る問いかける。
「あなたは、誰ですか? あと、ここはどこなんですか?」
その質問に、ジェーンは驚いて瞬きを数度繰り返した。それから眉をさげて悲しそうな表情を浮かべたあと、「覚えてないの?」と聞いてきた。
「何をですか」
覚えてないも何も、わからないことだらけだ。この目の前の少女がジェーンという名前であることも、たった今知ったこと。
だってこれまで自分は――。
自分は?
果たして何をしてきたのだろうか。何か大事な目的があったような気がする。でもその内容は思い出せない。記憶を探ろうとすると、頭に黒いモヤがかかったみたいになる。
ふと頭に痛みを感じて、春野は顔を覆った。目を瞑って視界を閉ざしてみると、頭のなかにある黒いモヤから何かを引き出せそうな気がした。
なんだろう。もっと深く探ってみよう。モヤのなかをかき分けるようにして進んでいくイメージをしてみれば、それほど難しいこともなかった。もっと、もっと探れ。自分には大事なものがあるはずなんだ。
「春野」
呼びかけられて、春野は思考を中断し目を開けた。長く目を瞑っていたことでぼんやりと霞む景色の向こう側には、自分の手をいまだつかんでいるジェーンの姿。その彼女の目がある位置が、怪しく光っているように見えた。色は、黄色。
あれ。たった今まで彼女の目は黒じゃなかったっけ。不思議に思っていると、ジェーンは口を開いた。
「あなたは春野だよ。ジェーンの妹、そうでしょ?」
「――ああ、そうだった」
途端に疑念は晴れた。ぼんやりとしていた輪郭が鮮明さを帯びていき、春野は今はっきりと自覚する。
そうだ、自分は彼女の。ジェーンの妹だ。この、優しくて、時折怖くて、でもいつも自分の手を引っ張ってくれる面倒見の良い彼女を姉に持つ、春野なのだ。
「ごめんなさい、ジェーン。ちょっと、寝ぼけてたみたい」
春野が謝罪すると、ジェーンは黒い瞳を細めてふっと笑った。黄色っぽく見えたのは気のせいだったのだろう。春野のただ1人の姉は「もう、しっかりしてよね」と頼りない妹をそうやって優しく叱った。
何はともあれ朝ご飯だ。さっきジェーンが言ったとおり、今日は森まで木の実を取りに行かなきゃいけない。外の空気は夏のものへと変わっていた。
海から吹いてくる風には熱が籠るようになっていたが、日照りの続く空の下ではとても涼しく感じる。
ジェーンと共に部屋を出た春野は、まず顔を洗うために洗面所に向かった。
濡れた顔をタオルで拭きながら窓から外の様子を眺めてみると、もう町の人たちは慌ただしく道を歩き、働きに出ている。
ああ、きっとお父さんも同じに違いない。そんなことを思って。また疑問を感じる。
そういえばお父さんってどんな仕事をしていたっけ。
また忘れてしまった。あとでジェーンに聞いておこう。
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