第8話 シーナの育ての親
声のした方を津鷹は振り向く。するとそこには顎髭を充分にたくわえている年老いた男性が杖を片手に立っていた。
「おじいさん……」
シーナがぼそっとつぶやいた。
おじいさん、とシーナから呼ばれた男性の後ろには彼に従うように、老婆も共にいた。その人のことは津鷹も春野も知っていた。昨日、シーナに宿泊部屋まで案内してもらったときに階段ですれ違った人だ。
怒った顔をしている老人と、その後ろで悲しい顔をしている老婆。彼らの姿を見とめるや、シーナの瞳から輝きが薄れていくのに、春野は気づいた。
直後、浮きかけていた春野の足がそっと床へと戻る。
大丈夫?と津鷹に聞かれ、春野は両足が床にしっかりついていることを確認しながら、息をつくようにうなずいた。
そして改めて老人の方を向いた。
老人は眉間に深いシワを刻み、険しい表情のまま津鷹と春野をにらみつけている。
春野は、ごくんと唾を呑みこんだ。
何か一言でも余計なことを口にだそうものなら、それを機に何かとんでもないことになりそうな気がした。
この空気を破ったのは、津鷹だった。
「こんばんは」
まるで、ごく普通の会話をするつもりで。敵意のいっさい見せないような話の切り出し方。
老人は眉をぴくりとだけ動かし、その後ろの老婆のほうは悲しげな顔のまま何も言わない。
春野は恐ろしくなって、津鷹の服の裾を握って彼の後ろに隠れた。老人たちの向けるあの目は、人を敵と見なしているときのそれだ。
自分は今、彼らにとって敵なのだ。
そんな春野の心の戸惑いを察してか、津鷹の手が、裾を握ったままの春野の手を優しく握ってきた。
春野は思わず津鷹の顔を見上げるが、彼は老人たちから目をそむけずに前だけを見ている。
その意思の強さに春野はふと安心感を覚える。
だから今度は自分も目をそらさずに、真っ直ぐ2人を見つめ返した。
津鷹と春野、そして老人はいつまでも互いをにらみ合い、その様子を老婆とシーナはハラハラした様子で見守っていた。
やがて老人は、深いため息をついた。
「貴様らは何者だ」
「俺は津鷹」
「は、春野です」
津鷹は動じることなく、そして春野はやや緊張ぎみに名乗った。
黙って様子を見守っていた老婆が、老人の後ろからそっと声をかける。
「おじいさん、この人たちはお客様ですよ」
「わかっておる」
だが、にらむ目がゆるむことはない。
津鷹は心のなかでため息をつく。
こんなことになってしまったが、そもそも津鷹だって面倒事を起こしたくて起こしているのではない。
起こさないようにと常々思っているのだが、なかなかうまくはいかないものだ。同業者の
だったら浩宇はもうちょっとうまく立ち回ってみせるのだろうかと、そんなことを思った。
「だが、大事な娘にちょっかいをかけているとなると、黙ってはおれん」
春野の手をつないでいる手に力が込められた。彼女を見ると、不安そうな顔で老人と老婆の2人を見つめている。
その桃色の瞳がわずかにゆらぎだすのを見て、津鷹は、床にあった彼女の帽子(いつの間にか落ちていたのだ)をかぶせ、さらにその鍔を目深に落とした。
感情が不安定になると、春野の力は簡単に揺らいでしまう。最近はある程度制御も覚えたが、常時発動型であるために完全な制御は不可能だ。
ここは早めに終わらせた方がいい。そう思って津鷹は口を開く。
「ちょっかいをかけてはいません。ただ俺たちは、シーナさんの目に覚えがあったから声をかけただけです」
「シーナの目のこと、ご存じなのですか……」
老婆が震える声で問いかける。
津鷹は黙ってうなずいた。
「俺たちは今まで、シーナさんのような目を持つ人間たちと関わってきました。俺たちはいわば、その目の専門家みたいなものなんです」
津鷹の後ろで話を聞いていたシーナが、小さな声で「専門家」と繰り返すのが聞こえた。
「……シーナさんや周りの方々の様子を見る限り、どうやら他に、この目の力を持った人はいないようですね」
「聞いたことも、見たこともありません」
シーナのその言葉を受けて、津鷹は初めて老夫婦から目線をそらし、後ろにいるシーナに向けて「だとしたら、俺たちについていくことはできますか?」と聞いた。
「はい?」
シーナはわけがわからず、ぽかんと口を開けて呆けた顔をする。唐突な申し出に彼女は不安そうな顔を老夫婦、それから春野へも向けてきた。
その表情が「この人は何を言っているの?」と言いたげなのは春野にも伝わった。隣で聞いている春野だって津鷹の申し出に、いくらなんでも突然ではないかと思う。
けれど同時に、津鷹の言い分もわかる。現に、春野もそんな感じで故郷を離れて彼へとついてきたのだ。そして結果的に外の世界を知ったのだから彼女にとってその「結果」は良い道だったといえる。
だからいつだって津鷹の判断は正しい――。
「……このままここに居続けていては、いずれあなたはねらわれます」
「何にですか?」
「人さらい。あるいは敵」
シーナの顔からだんだん血の気が引いていく。
「敵、とは……」
震える声で問いかけられ、津鷹がそれに答えようと口を開きかけたときだった。
「シーナ!!」
老人の怒号が2人の会話を遮って響き渡る。
津鷹は反射的に口を閉ざし、春野は老人の声にびくっと肩を震わせた。
老人は杖をつきながらずかずかと歩いて津鷹に近づくと、ゆっくりと杖の先端を頭上へと持ち上げて津鷹の右頬を強く叩いた。
バシン、と激しい音が響き渡る。
「津鷹!」
ぐらっとよろめく津鷹の体を、春野は慌てて支える。
「おじいさんっ!」
とがめるようなシーナの声が響くが、それにかまわず老人はその顔に青筋をたて、怒りと憎しみの感情をたたえた鋭い眼光で津鷹と春野をにらんでいた。
「黙って聞いておれば! そのような虚言、誰が信じるものか! 敵は貴様らだ! 人さらいも貴様らだ! これ以上、儂らの娘に近づくでないぞっ!」
「津鷹は嘘を言ってませんっ!」
「黙れ小娘がっ!」
反論した春野に向けて、老人がまたも杖を振り下ろす。
春野は痛みを覚悟して目を強くつぶって耐えようとするが、しかしそれが春野へ届くことはなかった。
恐る恐る春野が目を開くと、津鷹が老人の杖を片手でとめている光景が目に飛び込んできた。
老人が懸命な力で杖を振り下ろそうとするのを、津鷹も同じくらいの力でその杖を押し止めている。
「俺を叩いてもいいですが、春野を叩くのはやめてください」
「津鷹……」
津鷹は押さえていた老人の杖を床におろすと、春野の背中を優しくたたいてきた。
「春野、行こう」
「で、ですが」
「ここをでるんだ。忠告はした。あとは彼らが好きにするだろうから」
「でも」
春野はなおも食い下がろうとするが、遮るように老人の怒声がまたも響き渡る。
「でてけ! でていくがいい! シーナを守るのは儂らだ! どこの馬の骨ともわからぬ輩にシーナを奪われてたまるか!」
老人の怒号が、春野の心に鋭く突き刺さる。
どうしてこんなことを言われなければいけないのだろう。春野の胸におりるのは、言いようのない悲しい感情だった。
だって津鷹は当たり前のことを言っているだけなのに。津鷹は嘘なんてついてない。
どうして誰もわかってくれないんだろう。
「――春野、部屋へ行こう。荷物をまとめるんだ」
「…………」
「春野」
諭すように名を呼ばれて春野は仕方なく階段へ向かい、歩きだした。疲労か、失望か。なんだか足もとが覚束ない。
その後ろを津鷹がついてきて、その場を去る前に津鷹はシーナたちのほうをもう一度見た。
「お騒がせして、すみませんでした」
小さく紡がれたその声。
立ち去っていく2人の影を、シーナは心がえぐられるような気持ちで見つめるしかなかった。
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