07.最期の声

「リスねえは、どうですか? 大丈夫ですか!?」


 寝室のドアが開くと同時に、中から出てきたライラに詰め寄るナーシェ。


「とりあえず、手首の傷だけは治したわ。失った血までは戻せないけれど、一命は取りとめたと思う。ただ……」

「……ただ、なんです?」

「心の傷までは、巻物スクロールでは治せない」


 リスタが居なくなったのは、夜、皆がベッドに――俺だけは物置ものおきを整理して敷いた布団に――入ったあとだった。

 最初にリスタの姿が消えていることに気付いたのは、深夜にふと目を覚ましたライラだった。すぐに俺とナーシェで彼女の行方を探しに出て――。


「それにしてもナーシェ、リスタがあそこに倒れているって、よく分かったな?」

「グラパに出た瞬間、風が血の臭いを運んできたのです。獣人は鼻が利ききますので」と、得意げに鼻を膨らませるナーシェ。

「ダンジョンの中でも、風なんて吹くんだな」

「そんなもの吹くわけないじゃないですか。たまたまだと思いますよ」

「たまたま、って……」


 構造的にあり得ないことがたまたま起こるなんて、あり得るんだろうか?

 風を感じたというのはナーシェの勘違いかもしれないな。


 ――まあいい。

 ともこうも、今の最大の懸案はリスタのことだ。

 リスタは自ら手首を切って倒れていた。いくら体は治せても、自ら死を望む者を助けることは難しい……いや、不可能と言ってもいいかもしれない。


 警団がジェクスを取り調べた際、里親だったリタこそがリスタの本当の母親だったことが分かった。

 実父はリタが娼館にいた頃に取った客のうちの誰かだろうということだったが、リスタが生まれたあとに知り合ったジェクスでないことは、確からしい。


 娼館の中で娘を育てることをうれいたリタが、親友のカチュアにリスタを託し、以降、リスタもカチュアのことを本当の母親だと信じて育ってきたのだ。

 カチュアが亡くなった後もリタが事実を告げなかったのは、誰が父親かも分からないような生い立ちを伏せたかったからかもしれない。


「リタが死んだあとに分かるくらいなら、もっと早く……彼女が生きているうちに、ちゃんと母娘として過ごさせてやりたかったな……」


 俺の独り言にライラが小首を傾げながら。


「その、ジェクスという人は、なぜリスタに伝えなかったのかしら?」

「あいつは、リスタがリタに会いに行かないよう嘘をいてたからな。実母なんてことが分かったら、さらにリスタが会いたがると思って面倒だったんだろう」

「そう……。実は今日、警団から連絡があって……」

「ああ、例の、空き巣のこと?」


 ライラの店から消えた売上金は、結局リスタとはまったく関係のない空き巣の仕業だったことが判明した。

 鍵も掛けずに店から立ち去るリスタをたまたま目撃して、衝動的に犯行に及んだらしいのだが、別件で捕まり、余罪を調べられてここでの犯行も発覚したらしい。


「いえ、その事ではなくて……リタさんの私物が見つかったので、もし要るなら取りにきてくれと……」


 そう言って店内へ移動すると、ライラがカウンターの裏から取り出したのは、一本のスクロール。


「それは?」

伝言の巻物メッセージスクロール……施療院に搬送されたあと、リタがリスタに残したものみたい。ジェクスの店の家宅捜索で、物置の奥から見つかったらしいわ」

「じゃあ……二年間も、リスタには渡されず放置されていた、ってことか」

「そうね。今の話を聞いていると、捨てられずに残っていただけでも、奇跡に思えるけど。ただ……」


 表情を曇らせながら、ライラが続ける。


「まだリスタの精神状態も不安定のようだし、二年も前の伝言を今さら渡していいものかどうか、迷っていたのよ」

「メッセージの内容は?」

「これは、宛てられた本人でなければ開かないよう術式が組まれているの」

「渡すべきですよ!」


 ナーシェが、俺たちの会話に言葉を差し挟む。


「渡すべきです。もし私だったら、お母さんの言葉が残っているのなら、絶対に聞きたいです。先輩だってそうじゃないですか!?」

「そうね。でも……リタさんという人は、リスタの実の母親であることをずっと隠していたのでしょう? スクロールでそれを告白するとも思えないし、今のリスタにとって、支えになるような内容なのかどうか……」

「目の前のことをどう受け止めて、どう生きるかなんて、他人が決められることじゃないですよ! リス姉自身が見つけるものです」


 いつになく強い口調のナーシェを、俺もライラも言葉を呑み込んで見つめ返す。


「リス姉が生まれてきたのは自ら命を絶つためですか? リス姉はきっと、悲しい涙しか覚えていないのです。また嬉し涙を思い出せるまで、私が寄り添いますよ……」


 何か、自分の境遇と重なるところでもあったのだろうか。

 最後の方は、言葉を詰まらせながらうつむくナーシェ。

 少しの間、それを黙って見つめていたライラだったが――。


「そうね。ナーシェの言う通り……たとえどんな内容でも、これは彼女が知るべきことね。私たちは、すべてを知ったそのままの彼女を支えてあげればいいだけだわ」


 そのとき。

 ナーシェが獣耳ケモミミをぴくりと動かすと、カウンターの上に置かれていたスクロールを掴み、奥へ向かって走りだす。


「リス姉が起きました! 音がしました!」


 慌てて俺とライラも跡を追う。

 ナーシェに続いて寝室へ入ると――。


 両側の壁に沿って置かれた二台の二段ベッド。そのうちの一つに腰掛けたリスタが、自分の左手首をぼうっと見つめているのが目に入った。


「リス姉、起きたんですね!」

「あたし……生きてる……?」


 ナーシェの声に、リスタもゆっくりと顔を上げ、魂の抜け落ちたような虚ろな瞳で俺たちの顔を順に眺めてゆく。


「リス姉! 見てください! リタが生きている時に、リス姉に宛てたメッセージが残っていたんですよ!」

 

 駆け寄ったナーシェにスクロールを手渡されると、リスタの目が大きく見開いた。手元へ視線を落とし、スクロールを見つめる。

 ……が、巻物を持った手は次第に大きく震え始め、ついにはそれをベッドの上へ放り出してしまった。


「リタはずっと……あたしの生みの親であることを……隠してたんだよ? 今さら彼女の言葉を聞いても、きっと辛くなるだけ……」


 リスタの弱々しい、声よりも息に近いような呟きを聞きながら、ナーシェは巻物を掴んでもう一度彼女の膝の上へ乗せる。


「何も聞こえないことは悲しいことです。でも、聞くことができるのに聞こうとしないのは、もっと悲しいことです。リス姉は、リタの最期の声を聞くべきです」

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