第36話 壁越しのやり取り
ようやく発見した異世界の露天風呂が混浴ではなかったという事実は、俺を打ちのめすに十分な破壊力を持っていた。
……おや、この石で覆われた床も微かな勾配が付けられているな。滑り難いようにするためか表面には少しざらつきを残しているし、低くなった側には排水溝らしき溝も掘られてある。
どうやらここは、たくさんの温泉施設を作った経験を持ってもって造られたようだ。相当古いもののようだが、一体どのような人々だったのだろうか。
俺はしばらくの間、湯煙を見つめながら古代の人々へと思いを馳せたのだった。
混浴でなかったことは非常に残念だが、せっかく立派な温泉施設を見つけたのだから入らないのは損だろう。そんな訳で俺は気を取り直して温泉に浸かることにした。
……それによくよく考えたら、混浴だとバリントスたちにも妻の柔肌を見せることになってしまう。それならば男女別々であった方がまだマシというものだろう。
「くうー……、ふはあー……!」
初夏の陽気ではあるが、高原の、しかも森の中を渡る風は涼やかだ。
何だかんだとしている間に汗は引き、すっかり体は冷えてしまっていたようで、少し熱いくらいのお湯はとてつもなく心地よく感じられた。
「その声は、ヒュート?」
妻の声が壁を乗り越えて聞こえてくる。
「そうだぞー。はあ、いい湯加減だ。そっちはどうだい?」
誰の邪魔になることもなし、せめて会話くらいは楽しもうと尋ね返した。
「少し熱いけれど、我慢できなくはないわね。お湯から上がれば風も気持ち良いし」
「気が付かない間に汗をかいているものだから、脱水症状には気を付けてくれ」
「ワインを飲んでいるから、心配いらないわよー」
なんだと!?ワインだって!?
一体どこから……、ああ!そういえば妻はアイテムボックスを持っているから、そこから取り出したのか。
彼女が普段から愛飲しているワインはアルコール度数の低いものだから、お湯に浸かりながらであっても早々悪酔いすることはないだろう。
ゴクリ。自然と喉が鳴る。
……いや待て早まるな!
別に不埒な想像をした訳ではないぞ。単純に体が水分を欲しがっただけだ。
「あのう、アリシアさん?」
「なあに?」
「できればそのワインをこちらにも回してもらえないかな、と」
「……お代は?」
ぬわっ!まさかここで妻のいぢわるが始まるとは思わなかった。まあ、いぢわると言っても俺たち夫婦の遊びの一つで、要するに何を希望しているのかを当てるゲームのようなものだ。
さて、今の状態で彼女が欲しているものとは何だろうか?当然金銭ではない。そんなことを言ったら数日の間は口をきいてくれなくなるのは確実だ。
こういう時は自分なら何が欲しいのか考えるのが一番手っ取り早い。
今の俺が切実に求めているもの、それは妻の持つワインだ。大きく括るならば飲み物という事になる。
そういえば風呂上りには腰に手を当てて冷えた牛乳を一気飲みするという作法が元の世界にはあったようだが、俺の周りでは実践している人は誰もいなかったな。
おっと、思考が別方向にそれてしまったか。
……うん?冷えた牛乳?そういえばこちらの世界では飲み物は常温というのが一般的だった。妻も最初は俺が魔法で飲み物を冷やしているのを見て驚いていたものだ。
風が涼しいとはいっても日差しは強いし、何よりも温泉に浸かったことで体は火照っているはずだ。どうせ飲むならば
「冷やしたワインを一本進呈しよう」
「ふふふ。正解」
楽しそうな声が聞こえてきたかと思うと、ポイッと効果音が付きそうな軽い感じで二本のワイン瓶と一個のカップが壁を飛び越えてきた。
慌てて落ちてくるワインの瓶を掴む。カップの方はぽちゃんと音を立てて湯に沈んでしまったが木製なので問題はない。
驚いた。まさか合図の一つもなくワイン瓶が飛んでくるとは思ってもいなかったぞ。
無事に掴むことができて思わず大きなため息が出た。
「アリシアー……」
「ふふふふふ」
恨みがましそうに言っても楽しそうな笑い声が返ってくるばかりだ。
もしかしてもう酔ってしまっているのだろうか?
「あまり飲み過ぎないようにしてくれ。ほらっ、一本返すぞ」
一応釘を刺しつつ、魔法で冷やしたワインを壁の向こうへと放り投げる。
「はーい。ありがと」
さてさて、どこまで分かっているのやら。給湯口から流れ出る湯で軽くカップを洗うと、コルク栓のような物を引き抜き、冷やしたワインを注ぐ。
「んー!美味しい!」
壁越しに聞こえる妻の声に苦笑いを浮かべながら、俺もまたワインを喉へと流し込んでいくのだった。
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