第 15話 蠢動


 ―レリウス歴1589年6月13日昼

  ヌーナ帝国、帝都ベルデン、ノルト・カイゼルク宮殿―



 「結局、パノティアから得られたのは何だったのだ?」

 『……』


 ヌーナ皇帝――カレル5世は静かに問う。宮殿内にある議事堂において、皇帝の重鎮達は集められていた。

 彼らは皆、一様に沈痛な面持ちで俯き、皇帝の問いに誰かが答えるのを待った。


 「答えよ……エント・グラートに1万5千。オキデンス海に2万を送ってほとんどを喪失……これらが我が帝国にどんな利益をもたらした?」

 『…………』

 「答えよと言うておるのだっ!!」


 カレル5世は立ち上がり、激昂した。彼の怒りは、ここにいる重鎮達に対してだけでなく、あまりに上手くいかないことへのいら立ちも含まれていたのだ。


 「貴様らはこう言った……内戦が終わり、大規模な改革をし、バルバラに侵食されているパノティアが狙い目だと……だが蓋を開けてみればどうだ?」


 重鎮達は、皇帝と目を合わせることは無かった。目を合わせた途端、その場で責任を問われるぬとも限らないからだ。

 誰も彼も、火中の栗を拾いたくはないのである。


 「我が帝国はこれまで、改革の混乱にあるパノティアに何度も兵を送ってきた……しかしその悉くが敗退した! これはどういうことだ!?」

 『………………』


 誰も答える者などいない。否、誰も答える勇気がなかったのだ。

 この3年内の対パノティア遠征に、当初誰もが成功と勝利を確信していたし、負けることなどありえないとさえ思っていた。


 ある、1人の女性を除いて……。


 「そのように声を荒げるものではありませんわ、皇帝陛下」

 「ランザーラント公爵令嬢ッ……!」


 シルヴィーリア・ザリラ・グローリア・ランザーラント。

 それが突如、議事堂に入ってきた女性――まだ少女といっても過言ではない年齢の女性の名前であり、対パノティア遠征に反対した人物である。

 ローブ・ヴォラントドレスに身を包み、亜麻色でウェーブの掛かった髪を揺らしながらも、彼女のその黄色い瞳は、カレル5世を容赦なく射貫いていた。

 その瞳と腹の内が読めない微笑みを向けられたカレル5世は、忌々し気な表情と瞳を持って迎える。


 「許可も無く無理やり入ってくるなど、公爵家令嬢にあるまじき行いだな」

 「それにつきましては陛下のご寛恕を賜りたく存じますと共に、重ねて、陛下のお許しを頂けるのでしたら私の忠言をお聞き入れ頂きたく、何卒ご容赦のほどを」

 「よくもいけしゃあしゃあと……!」


 慇懃無礼に用件を述べる公爵令嬢に対し、皇帝は更に苛立ちを募らせた。

 彼女のことは、出会った時から……もっと言えば、彼女の正体・・・・・を知った時から気に入らなかった。

 それでも彼女は皇族の内戚の子であり、無視できない程の権力を持っていたのだ。

 病床に臥せっている父親に変わって、ランザーラント家を取り仕切っている現状を鑑みれば、実質彼女がランザーラント家の家長とるだろう。


 「……聞こうではないか。その忠言とやらを」


 故に、カレル5世は形だけでも耳を貸さねばならなかった。

 そんな皇帝に対し、公爵令嬢は顔を綻ばせると、静かに、歌うような声音で話始める。


 「まずはパノティア、バルバラ、ロディニア、それに西エレビア諸国と停戦、或いは講和の交渉を直ちにすべきです」

 「バカなことを言うな! これまで費やしてきた人も財も全て無駄にしろというのか!」

 「ですが、今ここで矛を収めねば、これまで以上の不利益を被るでしょう。そうでなくとも、今でこそ重税に次ぐ重税に、各領地の民は喘いで――」

 「民草には我慢させればいい! 戦争で勝ち得た領土や財を持って、民草に還元すれば良かろう!!」


 段々と語気を荒げるカレル5世に対し、公爵令嬢は、あくまで冷静に、まるで子供をあやめるかのように話し続けた。

 だがそんな彼女の優し気で優美な口調でさえ、カレル5世の神経を逆撫でたのだ。


 「それが成し得る状況ではなくなったからこそ、今ここで戦争を止め、各領地で税の正常化を図り、帝国を立て直さねばなりません」

 「講和など、どの国も望んでおらん! 望んでおらんに決まっている!」

 「パノティア、バルバラならば応えてくれるやもしれません。この2カ国は今、とても開明的な王が君臨していると聞きます。指し当って、この2カ国に――」

 「ありえんありえんありえんっ! 帝国開闢以来ずっと争い続けてきた我々3カ国が! その矛を収めるなどありえん!」

 「……左様でございますか」


 何度も机を叩き、感情を激しく発露させたカレル5世は、受け入れ難い意見を意固地になって否定した。

 コンコルド効果の如く、それまで費やされた費用と損失を取り戻さなければならないという心理に、彼は追い込まれたのだ。

 そんな、意固地で、度し難い程に妄執的なカレル5世を、公爵令嬢は冷ややかで侮蔑的な瞳で捉えた。


 まるで、フリードリッヒ・・・・・・・のように偏屈な男だ、と。


 「わかったのならさっさとこの場から去ね!」


 例え政敵なれど、意見を聞き入れる度量なし。

 わかってはいたことだが、公爵令嬢は改めてそう認識し、小さくため息を吐いた。


 「陛下並びに、皆々様におかれましては、大事なお話のところ不躾にも遮ってしまい、誠に申し訳ございませんでした。それでは、ごきげんよう」


 優雅に、愛想よく挨拶文句を述べ、公爵令嬢は議事堂を後にする。

 その扉が衛兵によって閉ざされ、その小柄な後姿が見えなくなっても、カレル5世は彼女の後姿を幻視し、睨み続けた。


 「ギフト・・・めっ……!」


 カレル5世の怒りと怨嗟の念は、公爵令嬢に向けられたものか、それともギフトに向けられたものか、或いはその両方に向けられたものか……その場にいた重鎮達には判断しかねるところであった。


 一方で、議事堂を後にした公爵令嬢は、ゆったりとした足取りでエントランスへと向かっていた。悪趣味極まる装飾品の数々には目もくれず、ただ凍てついた微笑を湛えて。


 「お待ちどう様です。では参りましょうか」


 エントランスを抜け、表に止めていた4頭立ての馬車へ乗り込むと、宮殿に何の感慨も持つことなく、御者に出発を命じた。

 程なくして馬が地を蹴り、馬車が揺れだす。その中で公爵令嬢は今後の展望についての思案に没入する。


 このままあの皇帝に帝権を握らせておけば、いずれヌーナ帝国は、崩壊という最悪の結末を迎えてしまう。

 そんなこと、座して見過ごしてよいはずがない。

 折角ギフトとして生まれ変わったのなら、オーストリア帝国・・・・・・・・の舵取りをしていた・・・・・・・・・その経験を、この国の為に発揮させるべきだ。


 そのためには、あの皇帝にはこの世から――。


 そこまで考えておきながら、彼女は小さく笑うと扇子で口元を隠した。


 「まあ。私も物騒なことを考えること」


 公爵令嬢が独り言ちる。扇子で口元を隠した上、殆ど唇を動かさなかったためか、馬車の中にいた従者や護衛の兵士の耳には、その音が届くことは無かった。

 自身の従者を信用していないわけではない。

 だが、重大で危険な……まるで毒蛇を素手で掴んでいるようなこの秘密を知るのは、極々少数に留めるべきであることを彼女は理解していた。

 そうでなければ、手に掴んだ毒蛇に噛まれ、自らの命を落とす羽目になるだろう。


 「そのためにも、無事にお戻り下さい。大佐・・黒太子・・・


 彼女は、遥か西で奮闘しているであろう、共犯者・・・の2人に、思いをはせていた。




――――――――――――――――――――――――――――――――




 ―レリウス歴1589年6月13日夕方

  西エレビア諸国、エバーニア王国東部―



 「いや~落ちた落ちた! やっと落ちたな大佐・・!」

 「はい、黒太子・・・。やはり敵後方への浸透戦術が利きました」


 場所は変わってヌーナ帝国の西、エバーニア王国内にて、2人の男が城塞都市を眺めていた。

 1人は左目にアイパッチをした、金髪碧眼の美男子。

 もう1人は黒を基調とした服装で、黒い髪に灰色の目のがっしりとした美丈夫。

 いずれも24歳の青年貴族であり、その佇まい風格から、優雅さと気品を感じさせるものがあった。


 「ところで黒太子、最終的に領主が助命と引き換えに都市を明け渡して来ましたが……如何なさいますか?」


 彼らは戦争の最中にいた。カレル5世からの勅命を受け、エバーニア王国の最東端であるこの城塞都市の攻略に彼らはやって来たのだ。

 そして今しがた、1か月に及ぶ戦いの末、領主の命乞いを受けてこの都市を攻略するに至ったのである。


 「どうもこうも、命を助ける約束をしたからな……助けてはやるさ。それに、送別会も開いてやろうではないかね。都市を明け渡してくれたお礼にな!」

 「それは構いませんが……くれぐれもリモージュのような惨劇はよしてくださいね?」

 「君の言う、国家社会主義ドイツ労働者党ナチスのようにかね? 私はもう、そんなことはせんし、したくもないさ」


 ニヒルな笑みが、2人の間で交わされた。その光景も、美男子と美丈夫な2人が見せることで、幅広い年齢層の女性をうっとりさせそうなものである。

 ともかく、2人はギフト転生者として前世で行い、或いは見聞きした惨劇について、トラウマのような後悔と悔恨を抱いていたのだ。

 だがその時、感傷に浸る2人の下に伝令の兵士が駆けてきた。それも面倒ごとの気配を漂わせながら……。


 「失礼します将軍! 皇帝陛下からの使者が、勅書を携えて来ました!」


 途端、2人の顔が露骨に顰められた。伝令の手に握られた書簡を収める筒が、感傷に浸っていた2人の精神を激しく刺激したのだ。

 どうせ碌な内容ではないだろう、と。


 「ご苦労。有り難く拝見するよ」

 「ハッ!」


 皮肉交じりに筒を受け取った黒太子は、持ち場に戻る伝令を見送る。ややもして、彼はその筒を大佐に向けると――。


 「大佐、卿が読みたまえ」

 「いえ。私などが皇帝陛下の勅書を拝見するなど恐れ多いこと。ここは黒太子が……」

 「どうせ、我々に対する嫌味が大半だろうに……だがま、仕方がない。拝見させて頂くとするかね。皇帝陛下の有り難いお言葉を……」


 手際よく勅書を取り出す黒太子。筒の中から出てきた高級な用紙を手にし、そこに書かれた冒頭の無駄な文嫌味を適当に読み流すと、本題に関する部分を探しだした。


 「皇帝陛下はなんと?」

 「……今度は東へ行って、パノティアと戦え。だと」

 「パノティアへ……黒太子お1人でですか?」

 「いや、今度は我々に、皇帝派の与力となって先陣を切れ、とのお達しさ。まったく、名誉なことじゃないか!」

 「まるで、首輪で繋がれた飼い犬のようですね」

 「では犬の鳴き真似でもしながら戦うかね? BOW-WOW!」

 「フフッ。それはさぞ、愉快でしょうな」


 勅書をヒラヒラと遊ばせる2人はまるで、イタズラ好きの少年のようだった。

 こうして皮肉と冗談を交え、優雅に笑みを溢す2人であったが、しかしふと、2人の表情は謹厳さに覆われた。


 「それにしても、都市を落とした途端にこのお手紙・・・とは……些かタイミングが良すぎるな……恐らく、あらかじめ用意していた物だろう」

 「ええ。我々を西へ東へ振って、兵力と財力を削ぎたいのでしょう」

 「そしてこのまま奴の思い通りに、我らの身を削がれるのも面白くない……大佐、卿は公爵令嬢の下へ戻って、君の立てた計画を進めてくれ」

 「はい。先に電信機で公爵令嬢に知らせておきます。もしかしたら、パノティアとの戦場に彼女が出向くこともあるかと」

 「例の密約の為にか……その場合、私はその場を整えねばならんのか……」


 こうして2人は、黒く、底の知れない陰謀へと思考を切り替えていく。

 公爵令嬢と共に、彼ら2人もまた、新たな祖国ヌーナ帝国を導かんとしていたのだ。

 例え、どんな手段を用いようとも……。




――――――――――――――――――――――――――――――――




 ―レリウス歴1589年6月13日昼

  バルバラ王国、王都アテナ、アテナ城―



 一方、バルバラにおいても、2人の男が話し合いの席についていた。


 「パノティアを攻め切ることは叶わんかったか……」


 1人はバルバラ現国王、アルガンティノス10世だ。茶色い髪に顎髭の偉丈夫であるこの国王は、そのネーム前世の名を曹操という。

 中国は三国時代に生まれ、魏を興した祖。

 曹操孟徳、その人だ。


 「ジャクラスよ、パノティアは次にどのような手を打ってくる?」

 「はい陛下。彼らは恐らく、メティス川を渡ってくるでしょうな……」

 「兵力は?」

 「3万以上、5万以下……といったところかと」


 曹操に問われ、答える白髪白髭の老人。彼はこの国の絶対的英雄であり、神将とまで言われた男だった。

 名はジャクラス・ガラゴルド。左目左手左足と、半身のほとんどを失っているにも関わらず、未だその相貌や瞳に生気の衰えは無い。

 ギフトでないにも関わらず……。


 「5万としたらだ……パノティアが組織した”王国陸軍”と”王国海軍”。これらは中々に精強と聞く。恐らく、その精鋭軍と戦うことになろうが……ジャクラスよ、直接戦ってどうであった?」

 「兵は優秀、武器は強力、戦術は精密。と、言ったところでしょうな」


 ジャクラスは、パノティアの常備軍と戦った、最初の将軍である。

 改革の混乱にあったパノティアに目を付け、侵略を果たさんと送り込まれたのが、ジャクラスその人であった。

 最初こそはパノティアの領地貴族相手に連戦連勝を重ね、快進撃を繰り広げていたのだが、それを阻む存在が、ジャクラスの前に立ちはだかったのである。

 それが”パノティア王国陸軍”と同”海軍”であった。


 「敵の士気は高く、よく訓練されております上に、武器の質は我らのそれをはるかに凌駕しております。また、ギフトが考えたであろう戦術の前には、流石の儂も敗退せざるを得ませんでした」

 「それほどまでにか……ううむ……」


 曹操は唸らざるを得なかった。30年ほど前に勝利した、ゴンドワナ帝国との戦争……”カリスト戦争”において、不敗を誇り、バルバラに勝利をもたらしたのがジャクラスであったのだ。

 そのジャクラスをもってしても、パノティアが生み出した”王国陸軍”や”海軍”を前に、敗退を余儀なくされたのである。

 本人からも、書面上からも、その戦いの経過報告を曹操は聞いていた。それを改めて本人の口から事実を聞けば、嫌でも危機感を覚えずにはいられない。


 「ですが……」


 しかし、危機感に渋面を浮かべる曹操に対し、ガラゴルドは何気ない様子で切り出した。さも、世間話でもするかのように。


 「敵の戦術や兵の動きは見切りました。次にやる時は、儂が勝つでしょう」

 「……ほう!」


 ジャクラスの言葉に、曹操の機嫌は一転した。

 曹操の知るジャクラスは、現実主義者として有名であった。負けると予想した戦いには負けると断言し、勝てもしない戦いは絶対にしない男なのだ。

 そのジャクラスが敵の弱点を見抜き、「勝つ」と断言したのなら、曹操としてはその言葉を信じないわけにはいかなかった。


 「とは言え、敵の侵略を防いだところで、我々がパノティアを攻めるのは難しいでしょうな」

 「かまわん。メティス川で敵を撃退すれば、後は和平なりに持ち込むまでだ」

 「でしょうなでしょうな。それがよろしいでしょうな」


 実際のところ、曹操はパノティア、ヌーナとの和平を望んでいた。

 バルバラ王国の国王である曹操の関心事は、実はパノティア、ヌーナ西ではなくゴンドワナにあるのだ。

 カリスト戦争で敗北したゴンドワナでは、敗戦を契機に帝国内で壮絶な内戦が勃発。以降、今に至る30年間悲惨な内戦が繰り広げられていたのである。

 だが、それが2年前に集結したという。

 まるで蠱毒のように国内で争われていたゴンドワナが、再び一つに纏まったことにより、再びバルバラへの侵攻の可能性が現実味を帯びてきた。

 そんな脅威たるゴンドワナに備えなければならないのに、ヌーナやパノティアといつまでもじゃれている・・・・・・わけにはいかないのだ。


 「聞くところによると、パノティアの国王はギフトであるらしい。同じギフト同士、和平が纏まればよいが……問題はヌーナと教皇領だ」

 「ヌーナ皇帝はギフト嫌いで有名と聞き及んでおります。和平の話は難航するかと……」

 「うむ。ヌーナは今更どうにもならん。だが目障りなのは教皇領だな。連中、俺の国にいる僧共を使って内政干渉してきおった」

 「それはそれは……面倒でございますな」


 彼らの頭痛の種は、何もヌーナやパノティアやゴンドワナだけではなかった。

 国内のレリウス教の司教や信者を使い、内政干渉を行ってきた教皇領の存在もあったのだ。宮中の重要職への斡旋や新しい法律の制定に、あの手この手で教皇領が関わろうとするなど。曹操にとって憤懣やるかたなしであった。


 「まあ、教皇領のことはさておき……今はヌーナを相手に惟新・・が――」

 『失礼いたします。新しい紅茶をお持ち致しました』


 と、今後の展望に関して憂慮する曹操達の耳に、扉を数回打つ音と、若い女の声が響いた。


 「うむ。入れ」

 『はい』


 許可を得て、入ってきたのは侍従服を着た妙齢の女性である。漆黒の長い髪に紺色の垂れ目の女性で、その顔立ちや仕草を見た者には、おっとりした印象を与えるだろう。見る人によれば、幸の薄そうな印象を与えるかもしれない。

 そんな女性が、小刻みに震えた両手でトレイを持ち、ゆっくりと、2人のもとにやってくる。危なっかしい足取りを見やる曹操は、彼女がトレイをひっくり返してしまわないかと気が気でなかった。

 その理由は、彼女の詰めの甘さうっかりにある。


 「よいしょ、ふう……それでは、新しい紅茶を入れさせて頂きます」


 トレイを机の上に運び終え、女性が小さく息を吐く。それに合わせて、曹操も内心でホッと胸を撫でおろした。どうやら、前回のように全身で紅茶を飲む羽目にならずに済んだようだ。


 「ところでディルネよ。書類の始末はどうなっているのだ?」

 「はい陛下。申しつけられた案件に関しましては、午前中に全て完了しております」

 「うむ。そうか」


 ティーカップに紅茶や砂糖を注ぐ女性――ディルネに、曹操は問うた。

 秘書監として事務仕事の一端を担う彼女は、その処理能力と計算能力ゆえに曹操から大きな信頼を得ていたのだ。

 ただ、頭脳に能力が偏っているのかどうかは不明だが、ややどんくさい・・・・・というか、おっちょこちょいな部分が際立っているようで……。


 「ぶっ! なんだこれは!? 塩辛いではないか!!」

 「しょっぱいのう、しょっぱいのう……」

 「ひう! も、申し訳ありません! すぐにお取替え致しますっ!」


 このように、砂糖と塩を間違えることもざら・・であった。

 ディルネは、重要な書類整理や高度な計算においては非凡さを発揮するのに、こうした雑事に関して何かしらのミスを犯してしまうのはなぜなのか?

 曹操は深い溜息を吐かずにいられなかった。


 「もうよい。貴様はもう勝手なことをするな……」

 「は、はい……」


 わたわたとカップを片付けるディルネに、曹操はゲンナリした様子で言った。

 小間使いの真似事を嬉々として務めようとする姿は認めるが、その都度失敗するのはどうにかならんのか? と曹操はしかめっ面を見せる。

 そんな曹操の気苦労を知ってか知らずか、ディルネは見るからに落ち込みつつトレイを手に持ち、部屋を後にした。

 その背中に”哀愁”という言葉を括りつけて……。


 「相も変わらず、面白い女子おなごですな」

 「面白いで済んで堪るか!」

 「ホッホッホ!」


 閑話休題。


 「で、どこまで話したか……おおそうだ、惟新・・の話であったな」

 「確か確か、今はケレス川でヌーナを相手にしているとか」

 「そうだ。惟新がヌーナを追い払えなければ、ヌーナとの和平がますます難しくなる」

 「そのためにも、イシン殿には勝って貰わねばなりませんな」

 「勝つとも!」


 曹操は断言した。ケレス川で戦っているであろう、自らの家臣に、曹操は絶大な信頼を寄せていたのだ。目の前に座るジャクラスが荀彧であるならば、惟新・・は差し詰め、夏侯惇であろうか。

 曹操がそう置き換える程に、ジャクラスと、そして惟新と呼ばれた家臣は、曹操から信頼を勝ち得ていたのである。


 「恐らく今も、惟新めは敵を追い詰めているに違いなかろう」


 確信と信頼の籠った言葉が、曹操の口からハッキリと紡ぎだされた。

 曹操にとって惟新の勝利は、確実的で決定事項であった。

 将軍として、その優秀さを認めるジャクラスもまた同じで、惟新に対して全幅の信頼を寄せていたのだ。


 この2人の脳裏には、「惟新が負けることなどありえない」という絶対の共通が埋め込まれていた。




――――――――――――――――――――――――――――――――




 ―レリウス歴1589年6月13日夕

  バルバラ王国、ヌーナ・バルバラ国境、ケレス川―



 「退けえ! 退けええっ! 本陣まで退けえ! ヌーナ兵・・・・に呑み込まれるぞ!」


 バルバラの軍勢は今、ヌーナ軍に背を向けていた。何故か? それは2万のヌーナ軍に対し、それを迎え撃つバルバラの軍勢は、その5分の1……たった4千しかいなからだ。


 「追えー! 追ってバルバラの兵共を血祭りにあげろ!」

 『オオーー!』


 ヌーナ軍2万のほぼ全軍がケレス川を渡河し終えたことにより、寡兵のバルバラは退却を余儀なくされたのだ。

 当然、攻めるヌーナ兵はここぞとばかりにその背中を追いかけ、槍で、剣で串刺しにせんと勢いづいていた。


 「バルバラのギフト、何する者ぞ! 皆の者、我らの勝利は近いぞ!」


 逃げるバルバラの惨状を目にし、ヌーナを指揮する将軍は囃し立てる。

 バルバラから小規模な魔法攻撃を受けつつも、最早勢いに乗るヌーナ兵には焼け石に水であった。


 「敵が陣地に入ったぞ! 遠慮なく突き破れ!」


 走って走って走って、走った末にバルバラ軍は、自ら構築した野戦陣地へと退却すると、一転し、迎え撃つ体制をとる。

 だがそんなもの、勢いに乗ったヌーナ軍にとって何の脅威にもならない。多少時間が掛かれど・・・・・・・・・5倍の戦力差をもって叩き潰すなど、容易なことであった。


 「柵を壊せ! 魔法で燃やせ! 槍で突き破れ! 勝利を勝ち取れ!」


 勝利は目前だとばかりに、ヌーナ軍の将軍は兵士らを鼓舞する。

 当然、ヌーナの兵士達の心も舞に舞った。目前に迫った勝利の為に、無我夢中となってバルバラの陣地を攻め立てる。


 だが彼らは気付かなかった。自らの背後に、脅威が迫っていることを。


 「しょ、将軍! 敵が後方から現れました!」

 「なんだとっ!?」


 信じられない思いで後背へと振り向く将軍。報せを聞き、慌てて振り向けば、確かにバルバラ軍が迫っていた。

 ケレス川を渡河する関係上、予備も置かずに2万の全軍で責め立てたヌーナ軍であり、そんな彼らの援軍であるハズも無い。

 そして間違いなく、ヌーナ軍の後背部に迫ってくる彼らには、バルバラの側の紋章が翻っていたのだ。


 「ま、まさかこ奴ら、これを狙って……! こ、後方の兵に対処させよ!」


 敵本陣に籠ったのは、”餌”だった。ヌーナ軍はそれにまんまと釣られたのだ。彼らヌーナ軍が”餌”に気を取られている間に、林やススキの中に伏せていたバルバラの伏兵が大挙して押し寄せ、包囲される結果となる。

 それに気が付いたヌーナ軍の将軍が指示を飛ばすが、しかしそれも遅く、今まさに、バルバラの伏兵によってヌーナ軍はあっという包囲されてしまった。

 まさに金床と鉄槌である。

 或いは、釣り野伏。


 「迎え討て! 迎え討てえっ!」


 将軍の怒号は、虚しく鬨の声にかき消されていった。

 瞬く間に兵士達が討ち取られ、倒れ伏し、踏みつけられていく最中、ヌーナの兵士達の士気は、最高潮からどん底へと叩き落とされていく。

 ほとんどのヌーナ兵は、訳も分からないまま、何も出来ずに死んでいったのだ。


 「将軍! どこも我が兵達が満足に戦えておりません! ご指示を!」

 「こ、こ、降伏だ! 降伏の白旗を上げよ!」


 こうしてヌーナ軍は、戦況を絶望しした将軍の判断により降伏の白旗を掲げるに至った。その判断を要するまでに、ヌーナ軍は、1万の死者を出し、5千の負傷者をだしたのである。


 そして、その降伏の意思を確かに受け取り、バルバラの兵士達を引き下がらせた男が、静かに戦場を見渡した。


 「うむ。これでよか。儂らの勝ちぞ」


 彼がこのバルバラ軍を指揮する将軍であり、ギフトであった。

 彼は――島津義弘は……静かに両手を合わせ、味方の戦死者だけでなく、敵方の戦死者を含めてその死を弔った。

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