第5話 尾崎ツキヤという人間の最期


 『去りゆく恋』を持っていた女性はもちろんユカリさんではなく、高間たかまミコという近くの会社に勤める女性だった。

 私の横で動揺したツキヤがブツブツと呟いていたことによると、彼女の姿形はユカリさんに生き写しらしい。


「伸ばせ伸ばせ」


 ツキヤは私に向かって会話を長引かせるようなジェスチャーをした。必死の形相で訴えかけてくるので、私はミコさんに席に座るように促した。


「あのう、良かったら少しお話しませんか?」


「えぇ、喜んで」


 上品にお辞儀をすると、ミコさんは私の向かい側、ツキヤの隣に腰を下ろした。もちろん彼女は自分の隣に血色の悪い作家幽霊がいるなんてことは思いも寄らない。


「ハルカちゃんはどこで、その本を手に入れたの?」


「私、近くの古本屋でバイトしているんです。アオユリ書店って知っています?」


「あー、知ってる。あそこでバイトしているんだ」


 ミコさんはそう言ってニッコリと微笑んだ。間近で見ると、ミコさんの可愛さが良く分かった。そっくりさん(本人談)とは言え、こんな綺麗な人を故郷に置いて出てくるなんて、ツキヤもなかなか隅に置けない。


「ミコさんはどこでその本を?」


「お祖母ちゃんの形見なのよ」


「もしかして……まさかユカリさん……では?」


「あら! そうよ、私のお祖母ちゃんこの小説のヒロインのモデルなの! 良く分かったわね!」


「あっ……まぁ、なんとなくですよ」


 隣に作者がいるなどと言えるわけもなく、私は笑ってごまかした。ミコさんはそんな私を見て「不思議ね」と言ってコーヒーカップを持ち上げた。


 当のツキヤといえば落ち着かない様子で、ミコさんの顔を見ていた。どこか恥ずかしそうに先ほどから髪の毛に手をやっている。どうやら完全に彼女とユカリさんが重なってしまっているようだった。


 しかしまさか、ユカリさんのお孫さんとこんなところで出会えるとは思わなかった。


「この喫茶店も『去りゆく恋』に出てくるのよね。タイヨウが執筆に悩んで来る店。だからちょっと思い入れがあって、よく来ているの」


「へー、そうだったんですか」


「あら、まだ読んでる途中だったね。ごめんごめん」


 ユカリさんは申し訳なさそうに口を手で覆った。


 ……まさか全く読んでいないとは言えない。


「お祖母ちゃんがこの本を持っていてね。中学生の時に、家の本棚に置いてあって、たまたま読んだんだけれどすごく面白くて」


「思い出の本なんですね」


「えぇ。だからなんとなくお守りみたいに持ち歩いているの」


 そう言ったミコさんはどことなく嬉しそうだった。見るとツキヤが私に目配せをしていて、ボソリとこう言った。


「ユカリのことをもっと聞いてくれ」


 小さく頷いて、私は視線を上げてミコさんの方を見た。


「あの……ユカリさんは、今……?」


「今は一緒に暮らしている。お祖父ちゃんが2年前に亡くなってから、東京に引っ越してきたわ」


 ミコさんの言うところによると、ユカリさんはこの近くに住んでいるそうだ。彼女はもう90歳近くになって穏やかに過ごしているらしい。


 ツキヤはそれを聞くと腕を組んで大きくため息をついた。そして目を伏せたまま、それ以上何かを言うことなく黙ってしまった。


 どうしたんだろう、せっかくのチャンスなのに。ツキヤはもう話す気を失ってしまったようだ。


 仕方がないので、私が勝手に質問することにした。


「ユカリさんは『去りゆく恋』のことについて何か言っていましたか? 例えば作者についてとか……」


「尾崎ツキヤさんね。祖母がたまに話していたわ。私も子供だったからそこまで覚えていないけれど、本当にこの主人公にそっくりらしくて。一度会ってみたかったな」


 相変わらず楽しそうな口調で、ケイコさんは言った。

 隣にいますよ、とは口が裂けても言えない。


 アオユリ書店の霊気を半年以上浴びれば見ることが出来るかもしれないが、代わりに他の厄介な作家幽霊たちも出てくるので無闇にオススメできない。


 ミコさんは自分の『去りゆく恋』に視線を落としながら、自分のお祖母さんから聞いたツキヤのことについて語り始めた。


「夢を追うことに一生懸命で、向こう見ずなくせに、すごく見栄っ張りだったって。大作家になるって言って結局なれなかったって……」


「ぐぁ……」


 その言葉が隣の幽霊に刺さっている。


「でも素敵な人だったらしいよ。本についての感想も言っていたけれど、なんだったけなぁ。本人に聞けば一番手っ取り早いかもしれない」


 ぴくり、と。

 その言葉にツキヤが、今まで以上に強く反応した。視線を上げて何かを言いたげに、私の顔をまっすぐに見ていた。


 ……そうか、最愛の人の率直な感想が聞くことができれば突破口になるかもしれない、ということか。


 ゆったりとコーヒーを飲むミコさんに、私は身を乗り出して質問した。


「あの、ユカリさんに会うことって出来ますか……?」


「うん、近くに住んでいるし、問題ないよ。お祖母ちゃんもきっと喜ぶと思う!」


「本当ですか、お願いします!」


「えぇ、もちろん」


 カチャリとソーサーにカップを置いて、ミコさんはにっこりと微笑んだ。


 良かったねぇと思ってツキヤを見たが、彼はどこか不安そうな表情でミコさんのことを見ていた。唇を噛んで所在しょざいなさげに揺れるツキヤの瞳は、今まで見たことが無いほど何かに怯えているようだった。


「じゃあまた連絡するね」


「あ、はい、ありがとうございます……!」


 ラインを交換してミコさんと喫茶店の前で別れた。早ければ、明日にでもユカリさんと会えるそうだ。


 結局デートはできなかったけれど、思わぬ収穫だった。これで『去りゆく恋』の展開について一歩進んだと言えるだろう。


 だが、隣でぼーっと突っ立っているツキヤは、全く嬉しそうじゃなかった。さっきの会話からずっとこんな感じで、私に指示を出すことも無ければ、上の空で口を開こうとすらしなかった。


「あ、分かった。もしかしてユカリさんが別の男と結婚したって知って、傷ついているんだ」


「まさか。ホッとしてるよ」


 ツキヤは私から顔を背けたまま話し始めた。


「俺が幽霊として故郷に帰った時、もうあいつはいなかった。噂でどこかに嫁に行ったことは聞いていたし、せめて幸せでいてくれと思っていた。だからあんな可愛い孫娘まで出来て、穏やかに暮らしてくるって聞いて安心している」


「じゃあ何でそんなにテンション低いの?」


「低いか」


「あからさまに。最初に会った時はもっと横柄おうへいだった」


 私の言葉にツキヤは口の端で笑って見せたが、すぐに険しい顔になってボソリと呟いた。


「感想……」


 ツキヤはダボダボの甚平を強くつかんだまま言葉を続けた。灰色のコンクリートを見つめるツキヤは、いつになく真剣な表情だった。


「ユカリの感想を聞くのが怖い。俺の物語を読んで、あいつはどんな風に思ったんだろうな」


 誰に言うとでもなく独り言のようにツキヤは言った。はらはらと落ちていく秋の葉を纏いながら、彼はどこか遠くの方に目をやっていた。


「……きっと大切に思っていたはずだよ。だってあんなに綺麗に保管していたし」


「ほとんど読んでいないからかもしれない」


「それは……」


「なぁ、俺が書いたものは本当に面白かったんだろうか? ちゃんと心に響くものを残せたんだろうか? あれを読んであいつは幻滅しなかったんだろうか?」


 そう言って私の方を振り返ったツキヤの顔は不安そうで、まるで小さな子供みたいだった。暗い押入れに閉じ込められた子供みたいに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 彼の小さい背中は頼りなげに、そのまま秋の風に吹き消されてしまいそうに思えた。


 その背中に私は、なんの声もかけてあげることが出来ずに、地下鉄の出口で別れることになった。



◇◇◇



 それから私はツキヤと別れたあと、6畳半のアパートに帰った。狭い部屋の中で私は持って帰ってきた『去りゆく恋』のページを開いた。白い布団を敷いたシングルベッドの上に寝転んで、赤い背表紙の1ページ目をめくった。


 彼の物語はこんな書き出しで始まっていた。


「『故郷を出たのは17の時。半ば勘当されるように実家を飛び出してきた。多くの若者と同じように世間知らずで傲慢ごうまんで、そして世界が自分を中心に回っていると思っている凡庸な人間だった』……」


 タイヨウの物語を紐解ひもといていく。200ページもない中編小説。頑張れば今日中には読み終えられるかもしれない。


 私は普段あまり幽霊作家たちの作品を読まない。


 読書は好きなのだが、なにぶんキリが無い。一度だけたまたま置いてあった本を読んだ時に、次から次へと他の幽霊たちも駆け寄ってきて、「俺のも読め」だの「感想を聞かせろ」だのうるさかった。


 耳元でぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるので、結局誰のも読まないことに決めた。全て読んでいたら私が幽霊になってしまうほど、たくさんの本があるからだ。


「『ユカリとは幼馴染だった。幼い頃から田を駆け回って遊んだ。俺が頭の中で考えた安っぽいな物語を、嬉しそうに聞いてくれた。思えばあの時が一番幸せだったのかもしれない』……」


 だが今回ばかりはここまで踏み込んでしまった以上、読まないわけにはいかない。あんな不安そうなツキヤの顔を見てしまったからには、私も問題の根幹を知らざるを得無い。


 読んでいくうちに、ケイコさんがツキヤのことを「不憫だ」といった意味がようやく分かった気がした。


「『上京した俺に生活が重くのしかかってきた。お金が無ければ暮らしていくとはできない。つまらない仕事で日当を稼いで、夜更けから執筆を始める。ボロボロの身体にムチを打ってペンを握る。出来上がった著作を出版社に送る。だが一向に連絡は帰ってこなかった』……」


 半ば愚痴ぐちのような文章が続く。怒り、葛藤かっとう、絶望、あらゆる負の感情が言葉となって渦巻いていた。


 それは凡庸な男の日々の記録だった。才能にもチャンスにも恵まれることなく、虚しい月日を消費することしか出来なかった悲しい人間の足跡だった。


「『忘れるために酒をあおって、適当に女をひっかけては次の朝には別れた。全ては現実から目を背けるためだった。やがて咳に血が混じるようになっていた。肺の病だった。どこで道を間違えたのだろうか。心当たりがありすぎて無性に笑えてきた』……」


 胸が痛くなるような話だった。悲惨で救いのない話。絶望の感情で溢れた自意識を、そのままインクにしてぶちまけたみたいだった。


「『必死に涙を押し殺そうとしたが、もうどうにもならなかった。冷たいコンクリートの地面の上で、雑踏の喧騒けんそうの中でこのまま一生眠ってしまいたいと思った。誰からも忘れられて消えてしまいたかった』……か。」


 ……そして彼は冷たいコンクリートの上で消えていく。世の中から忘れ去られて、2度と思い出されることすら無い。


 それが尾崎ツキヤという人間の最期。

 笑えるようなことなど何一つない。希望もなく、報われることすらない。


 私は最後のシーンまで読み終わって本を閉じた。窓の外はすっかり暗くなっていた。時間を忘れるほど読みふけってしまっていた。


「そっか……」


 本を抱えたままあおむけになって、天井の蛍光灯に向けて大きくため息をついた。 


「暗いけど……でも良い小説」


 私は『去りゆく恋』を読んで、心の中に残った言葉を呟いて、古ぼけた赤い背表紙を撫でた。夢中になって読んで、時間すら忘れていた。ケイコさんやミコさんが読んでいたのも十分に分かった気がした。


 暗い。うん、確かに暗い。

 あの陰気な顔の作家にふさわしい闇を感じた。思わず目を背けてしまいたくなるような、つらい日々の記録だった。


 でも、それは作品の価値と関係無い。この作品は駄作なんかじゃない。少なくとも私の心には響いた。


 売れるとか売れないとかではなく、

 素直に感動して、読んで良かったと思った。


『面白かったよ』……と、今の私は、ツキヤにそんなことを言ってあげたかった。

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