第96話 イグナートの逆鱗
薄く透けた天幕に囲まれた閨の中で女人の甘えた声が響いていた最中、閨の外から「皇帝陛下、急報が御座います」と男の声が響いた。
その報告を受けた皇帝は女人を突き飛ばし立ち上がる。
「何っ!? レスタールがリースを取りに動くだと……!?」
皇居にて、女人と戯れていた皇帝は知らせを聞き、急遽城に赴き将を招集した。
いくら最強を自負するベルクード帝国と言えど、大国であるレスタールのこの動向は無視できるものではない。
リースを取るということは帝国に宣戦布告したのと同義なのだから。
緊急招集に応じられた皇都に居る将は十二人中、五人。
実力主義である帝国の将は全員が強者。
二十の序列の中から皇帝が自ら選び抜いた帝国最強の十二の将たち。
その中にはシュペルテン・ベルク・イグナート侯爵の姿もあった。
「五名だけか。少ないな。ロイド、もうこれ以上来ぬのか?」
皇帝は集まった将を見渡し、眉間に皺を寄せる。
ロイドと呼ばれた童顔の男は皇帝へニコリと微笑を返す。
「北部域の戦に五名当たっていますからね。
一人欠けている今、逆に多いくらいでしょう」
「ああ、北部に一人増やしたのであった。しかしエストックが負けるとはな……
ベルファストは腐っても爺様が恐れただけはあるってことか」
エストック伯は皇帝のお気に入りであった。
前回ミルドラドへの援軍として選ばれた理由も、目的の為なら何でもするという貪欲さを評価しての登用。
その彼が軍ごと潰されただけでなく、イグナートすらも瀕死にされ捕虜に落ちたという事実に、ベルファストへの警戒を数段引き上げざるを得ない状況だった。
「陛下ぁ、いつになったら俺を出してくれるんです?
もう文官をぶっ殺すのも飽き飽きしてんですけど」
「ふっ、ビンセントが色々殺してくれるから私は楽で良いぞ。謀る者の相手は疲れるでな」
「いや、そうじゃなくてさぁ」と不満を見せてだらけるビンセント。
本来であれば無礼打ちされる態度だが、十二将にだけはそれが許されていた。
「わかっておる。では本題に移ろう。
此度、レスタールが帝国に宣戦布告するとの情報が入った。
正確には火事場泥棒でリースを落とす計画を練っている、という話だがな」
皇帝の言葉に五人の将に緊張が走る。
戦争中に勝手に進軍経路を塞ぐという行為は普通、完全に敵対すると決めた場合にしか起こらないものだからだ。
ニコニコと笑っていたロイドも佇まいを直した。
「へぇ、じゃあ私ら全員で参戦ですか?」
「いいや、ここを無防備にする訳にもいかぬ。
この場に居る上位三名、ロイド、ミーシャ、ビンセントでどうだ?」
「おっしゃぁぁ!」とビンセントの声が響く。
しかし喜ぶビンセントとは裏腹に問いかけたミーシャは少し不満気な空気を見せた。
「戦争はいいんですけど、詰まらない貴族の横槍をちゃんと防げますか?」
ミーシャは、皇帝の隣に座り黙っていた男へと殺気にも近い鋭い視線を向けた。
「やめい。殺して良い権限を与えてやったのだ。
虻を払うのは自分でやれるであろう」
「闇夜の虫を払うのって大変なんですけど……でもまあ陛下がそう言うなら」と矛を収めたミーシャだが、もう一人納得がいかない顔を見せる男が居た。
「負けたイグナートはわかりますが、何故俺が外されたんです?」
「上位三名と言ったであろう。まあ、ここの守りは将を二人残せば十分だ。
出ている一人が戻ればエインも出て構わぬぞ」
エインは現在魔物の討伐に出ている将の帰る予定日を計算し、もう直ぐだと判断すると「うっし!」と拳を握る。
「して、イグナート。この場でなら言えよう。詳しく話せ」
彼は公の場で幾度か責め立てられるように聴取をされていた。
時の人であるイグナート候を追い落とすには良い機会だと方々から責められた。
しかし、淡々と答え続けたイグナートは決まって最後に詳細は陛下のお耳に直接入れたいと付け加えたのだ。
全てを話しましたと言って置きながら。
漸く話す時が来たと、彼は一つ頷く。
「ベルファストの王子、ルイ・フォン・ベルファストは化け物です」
「それは聞いた。何に特化しておる」
「ご報告の通り魔法に特化しているのですが、それだけでは御座いません。
私は彼の胸を二度貫きました。
ですが彼はそのまま私を倒しその後にエストックを討ったそうです」
「お前それ、魔力で相殺されただけなんじゃね?」とビンセントからの声に首を横に振る。
「少なくとも二度目に胸を貫いた時はミスリルの剣で刺しました。
一度目の槍も、背中から血の跡を確認しているので貫いていたと思われます」
「従来の回復魔法を遥かに越える回復力を持っているということか」
その声に頷いて返し「まだ、御座います」とイグナートは続ける。
「教会の使う光魔法、その強化版も使ってきます。浴びれば魔力の大半を失います。その魔法を三十メートル規模の魔方陣で扱えます」
「イグナート候、流石にそれは誇張がありませんか?」
ロイドの問いかけにゆっくりと首を横に振り「誇張しても直ぐにわかる事。更なる恥を晒すだけでしょう?」と彼に苦笑で返した。
「ただ、近接に持ち込めば勝機はあります。
というか皆さんであれば勝てるでしょう。あの回復力があっても流石に首を落とせば終わるでしょうから。
しかし、遠距離で相対した時は決して侮らないで頂きたい」
「いや待て。その規模のファイアーウォールとか間合いに入った後に撃たれたらヤバくないか」
「馬鹿じゃないの。魔力使って一瞬で出ればいいじゃない。光魔法の場合は使えないでしょうけど、ダメージは無かったのよね?」
ミーシャの方へと頷いて返すイグナート。
続く言葉が無かった事で皇帝が終わりか、と視線を向ける。
「ふむ。魔道具による広範囲攻撃はどうだ。追加情報は無いのか?」
「はい。一応説明が着く話でしたのでそちらは全て報告通りです。
この場まで言えなかったのは全てが嘘と断じられ、こうした全うな場での報告が出来なくなると思っていたからですので」
理論上不可能と考えられる報告はあの場では出来なかったとイグナートが頭を下げれば「良いだろう。そういう事であれば許そう」と皇帝は彼の失態を許した。
「それで陛下……軍備の方はどうするんです?」
参戦したくてうずうずしているビンセントは話を先に進めようと急ぐ。
「うむ。此度は詰まらん馬鹿どもを一掃してやろうかと思っている。
ハイド、どうだ……やれるか?」
「はい。勅命と告げて良いのであれば容易いこと。
ただ、換えの利かない者も居ります故、詰まらずとも残す事をご了承頂きたく」
「よい、任せる」と手振りで行けと指示し彼はその場から姿を消した。
「あー、貴族の私兵を先に出すって事か」
「俺はディラン待ちだから都合が良いけどな」
「俺はよかねぇんだよ!」
ビンセントとエインがじゃれ合いを見せる端で、イグナートは目を見開いて皇帝を見ていた。
まさか腐敗した貴族たちを一掃しようと考えているとは思わなかったからだ。
もしかしたらこの先は明るい未来を築けるかもしれない、と希望を抱いた時だった。
「イグナートの話は聞けた。漸く保留にしていた清算をさせてやれるな。
先ほど許すといった手前、軽いものにしてやろうと思うが無しにはできん」
皇帝が敗戦の責を保留にしていた清算をすると言い出した。
「はっ、何なりと……」とイグナートは平伏し沙汰を待つ。
「では、別嬪だと噂の貴様の妻を寄越せ。余命が幾許かと聞いた。
死ぬ前に私にも遊ばせろ。軽い罰にと気遣ってやったのだ。これは断らせぬぞ?」
平伏したまま床を見据える彼の顔から血の気と共に表情が抜けていく。
幾人もの女人を代わる代わる相手にするのが当然だった皇帝には気付けなかった。
ここがイグナートにとっての逆鱗だったということに。
「申し訳御座いませんが、妻はもう……」と平伏していた顔を上げて、能面の様な顔を見せるイグナート。
「そ、そうか。では金だな……五千用立てよ。それでよいか?」
「はっ……」
「後の軍議にてこの線で進める。我が将たちよ、任せるぞ」
「「「「はっ!」」」」
この時のイグナートの表情は誰の目にも異常に映っていた。
しかし周りの将は、実際に差し出すことは無かったので問題無いと判断しその場は何事も無く解散となった。
イグナートは獣車の中で悪鬼の様に表情を歪めていた。
「か、閣下……まさか侯爵家に何か?」
ベルファストとの戦争では共に捕虜になると願い出る程に忠義に厚いイグナートの副官カイは、強い不安を露に彼を見据える。
「皇帝にナタリアで遊ばせろと言われた。
余命が無いからもういらんだろと……もう完全に愛想が尽きた」
「な”っ!? そんな……幾らなんでもそれは! それだけは……」
幾ら皇帝陛下といえど言って良い事と悪い事があると眉間に皺を寄せた。
「ああ……敗戦の責と言われては出せないとは言えない。
だからリアはもう亡くなったと言った。言ってしまったんだ……」
その直後彼は「くそがぁぁぁ!!!」と雄叫びを上げた。
側近中の側近であるカイは、手元に残せたのにどうして彼がそこまで苦悩しているのかを知っていた。
病に侵されている彼女には定期的な治療が必要だった。
それも教会の大司教クラスの実力者でなければならない。
だが死んだ事にした手前、それを受ける事が不可能となったのだ。
「閣下、ナタリア様の命は後どれほどだと言われておりますか?」
あと僅かなのは周知の事実。態々尋ねるのは火に油を注ぐ様な発言。温厚で身内に甘いイグナートだが激昂しかけた。
だが、決死の覚悟を決めたカイの顔を見て、鋭い視線を返しながらも言葉を返した。
「治療を受けて二年。放置すれば一月から三月と言われている……」
カイはゆっくりと頷き「では、二月暇を下さい」と頭を下げた。
「何をする気だ?」
「ベルファストへ……いえ、あの王子の所へ取引を持ち掛けに行きます」
確かに教会が使う魔法は光魔法。ルイ王子が使ったものと同じような効果を持つ魔法。
彼の強い光魔法であれば、もっと良い効果を齎してもおかしくない。
しかし侵略戦争を仕掛けた側の願いを簡単に聞くはずが無い事は考えなくてもわかる。
こうなった今、ナタリアは迂闊に連れ出せない。
そうなると敵地のど真ん中に王子を来させるということだ。
非現実的にも程がある。
そもそも、顔の知られているカイが行けば、話しを聞いて貰う前に殺される可能性が高い。
だが『やめろ』という言葉を出せなかった。
友が危険に晒されるとわかっていても妻の命を諦める事がどうしても出来ないと。
「レスタールがリースを落とすと動き出した以上、今から行っても国境を越えられない。そこはどうするつもりだ?」
そう、彼の望みが薄い作戦を実行に移そうにも、大きな障害があった。
帝国への戦線布告と相手もわかっている以上、既に国境線は監視されているだろう。
入り込んだと知られれば、王族へと辿り着くなど不可能だ。
そんな事情は一切知らなかったカイだが、それでも意見を曲げなかった。
考えた末「山を……越えます」と振り絞るように返す。
「正気か……動向を悟られるか否か以前に、あの山脈で魔物に出会えば死ぬぞ?」
レーベンとイグナート侯爵領の間にある山の魔物は観測されている中でも上位とされる魔物。
あのオーガキングさえも凌駕する強さを持つと言われている程。
「大丈夫です。レーベンに続く一番低い場所を通りますから」
その発言に大丈夫と言えるところなど見当たらない。
ただその言葉にはカイの覚悟だけが乗っていた。
長年共に過ごしてきた部下であり友でもある彼の声にイグナートはすっかり怒りを忘れ冷静さを取り戻していた。
「私も共に行く……訳にはいかないよな」
「ええ。それは無理です。奥方様の傍に居てあげてください。
それに……色々と現実的ではないのは自分でも理解していますから」
そう。山を越えられても、殺されずに話し合いが行われても、彼が来てくれる可能性などゼロに等しかった。
「カイ、止めることが出来ない私を許してくれ……」
「いいんだ。俺が言い出したんだから。シュペルが気に病む事じゃない」
幼少期の時の言葉使いで返されて感極まったイグナートは手で目を覆う。
「ありがとう、カイ。
怒りに我を忘れ謀反を起こそうなんて考えていた自分が恥ずかしいよ」
えっ、と時が止まったかの様に動きを止めたカイ。
「あはは、それはちょっと惜しい事をした。起こして、欲しかったな……」
彼らは腐敗した帝国に苦難を強いられ続けてきた。
イグナートの声にカイは少し苦く笑う。
「折角思い直したというのに馬鹿を言わないでくれよ。は、ははは」
互いに苦笑したカイとシュペルテンは顔を見合わせると、子供の頃の様に笑いあった。
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