第8話 昔話と変化
和也は幼少期から、手のかかる子どもだった。夜泣きは当たり前で、布団で寝せれば泣いて起き、母親の久美しか抱っこさえ泣いて許さない時期が長く続いた。泣き方も、赤ちゃんらしく泣くというものではなく、大声で腹の底から声を出して泣いてくれるような赤ちゃんだった。
久美は結婚前から障がい者支援施設に勤務ている。だから自分の子どもである和也が健常児ではない可能性を、かなり早い段階で感じ取っていた。
父親は内科医で、和也が生まれた当時は隣の市にある市立病院に勤務。和也と深く関わろうとはしない代わりに、夜泣きを咎めることがなかった。和也に対して関心がなく、和也を否定も肯定もしない。自分の子どもというよりも、同じ家に暮らしている他人の子どもを見ているような雰囲気だった。
和也の両親は非常に人当りの良い人である。二人とも働き者として近所の人からも一目を置かれ、久美は産後半年で復職。毎日泣き狂う和也を、夫の母親である初音に預けて仕事に出ていた。
久美が和也を初音に預けた時、和也は離乳食を始めて1か月が経っていた。その進み具合は、10倍粥を一口すら食べない状態。初音は久美に和也の離乳食についての話をしようと何度か話し合いを持ち掛けたが、毎回「忙しいので」と彼女はそれを拒絶。
和也は久美から離れた数週間は泣き狂ったが、初音が和也の面倒を見始めて1か月が経過することには、和也は久美ではなく初音にべったりと懐いていた。
その頃から少しずつ離乳食の状態が前進してきたが、和也は想像以上の偏食だった。久美が色々と作って食べさせはしたものの、初音の作る里芋の煮物と白米以外は拒絶することが大半。しつこく離乳食を食べさせようとすると、食器をひっくり返す頑固者だった。
和也が目を輝かせて初音の作った里芋の煮物を食べる様子は、久美は気に食わない。
時間をかけて手間暇かけて作った自分の料理よりも、出汁を利かせたほとんど味付けをしていない素材の味を活かした初音の煮物に食らいつく和也。何度自分の料理を和也に差し出しても、全く手を付けてもらえない。
―私が生んだ子なのに、どうして
離乳食作りを放棄した時点で、久美自身和也が初音に懐いた理由はうっすらと感じていた。しかし、いざ目の前で和也が自分よりも初音を慕っている様子を見てしまうと、久美の心の中は久美自身が感じている以上にどろどろとした黒い気持ちが湧き出ていたのだった。
和也の成長は、交通事故で亡くなった久美の姉夫婦の息子の
和也は他人と遊ぶということが一切ない。久美は和也を友達の子どもと遊ばせようと連れ出せば、全く話さない上に友達の子どもを突き飛ばしてしまう。声をかけられても目を合わせることはなく、しつこく声をかけられると相手に噛みついてしまうこともあった。
「どうして仲良くお友達と遊べないの!」
最初こそ帰宅後に和也に諭すように語りかけていたが、和也は帰宅すればすぐに初音のもとに走って行ってしまって話にならない。次第に久美は、出先で和也に怒鳴ることが増えた。
どんなに怒鳴っても和也はこちらを見ずに斜め下をじっと見つめていたし、家に帰って初音に泣きついていく姿が何よりも腹立たしくて。
―私が和也をいじめてるみたいじゃない…!
泣いて帰った和也を笑顔で迎え入れて抱きかかえ、なおかつ久美を責めることのない初音の姿が久美の神経を逆なでていく。
和也の発達障がいが判明したのは、幼稚園入学前。和也の父の友人のカウンセラーによって診断が出た。
彼はとても朗らかな人で、和也とも仲良く接し、和也の持つ全てを引き出しての診断結果を導き出してくれた。
「99%以上の確率で、アスペルガーです。幼稚園などの進学先は、お母さまにお任せします」
久美の職業にも深い理解を示して、彼は和也の進学先を久美の判断にゆだねた。
その日の夜、和也の両親は深夜に話し合いの席を設けた。和也の診断結果が、勤務中の和也の父の形態にもメールで届いていていた。進学先を決めるために設けた話し合いの席だったが、久美の導き出した応えは想定外のものだった。
「和也は…そんなのじゃ…ないから!」
彼女は数多くの障がいを持つ人々と接してきて、彼らがどんなに生き抜くことが厳しいかを知っている。泣きながら這いながら、時に自分の命さえ手放したくなって暴れる彼らの生きざまは、救いが極端に少ないことも知っている。
だからこそ、和也が彼らと一緒だということを認めることができなかったのかもしれない。
震える久美の手をそっと握る、夫の大きな手。「そうだね」という優しい彼の声だけが、その時の久美の心を支えた。彼は当時から、父親になり切れない夫だった。
和也はほどなくして私立幼稚園に入園。和也は幼稚園を泣いて嫌がった。それは近所でも小さな噂になるような、地の果てのような泣き叫ぶ声だった。
泣いて嫌がる和也をパジャマのまま幼稚園に押し込んで仕事に向かう久美。和也は帰宅までずっと泣き続けていて、ほかの園児を寄せ付けない。無理をさせなくてもと初音が初めて久美に声をかけた時、「慣れるまで行かせないと意味がありません。口を挟まないでください!」と久美は初音を跳ね除けた。
赤ちゃんの頃からの偏食は幼稚園に入園しても全く治らず、給食には一切手を付けなかった。当時の保育は園児の口にそれなりに無理やりおかずを押し込んで食べさせる力業が健在だったが、和也にそれをしてしまうと食べた少量のおかずどころか胃液まで派手に吐いてしまうので、それさえもできないまま1年が経った。
3年保育の幼稚園で、泣かずに幼稚園に登園したのは最後の半年くらい。2年半ほど毎日幼稚園に泣いて登園し、帰るまで泣いていた。工作の類は殆ど手つかず状態だったし、年に一度しかない園行事である運動会も泣いていて全く参加していないような状態だった。
そんな和也の心のよりどころが、初音が弾くピアノだった。初音は子どもの唄を主に弾き歌いしていて、泣いて帰った和也はそれを聞くとすぐに泣き止み、本人なりに飛んで跳ねて歌ってストレスを発散させる毎日。
そしてほどなく和也は、久美が居ない昼間に限って、初音が弾いていた曲を見て聴いて覚えて、楽譜が読める状態ではない時期に弾きこなし始めた。
幼稚園との面談で、幼稚園側から何度も養護学校への転入や進学を進められたが、それでも久美は和也の発達障がいを受け入れられず、和也は地元の小さな小学校へ進学。
特別学級もないような田舎の小さな学校で、1学年10人前後の生徒しかいない。幼稚園が同じだった子もたくさんいるから通えるはずだと高を括っていたが、やはり和也は登校拒否をしたし、それでもめげずに久美は和也を小学校へと押し込んで出勤していた。
小学校に進学しても、和也は大きく変化しない。しかし、周囲の子どもたちは成長するにしたがって、和也が“普通ではない”ことに気がついてきてしまう。
「こっちにくんなよ!」
「ずっと泣いてろ!」
和也には心無い言葉ばかりが、教室の隅でうずくまっている和也に浴びせられた。
そんな時に和也を助けたのが、当時5年生だった泉香鈴である。登校時には和也を迎えに来て、5年生の授業が終わるまで遊んでいる和也を回収して駄菓子店まで送り届けていた。
和也の中に、香鈴という安全基地が出来上がってきた頃。1年生の夏休み前に入った、梅雨明け目前のある日。和也が帰宅すると、見慣れない背の高い男性が居間に座っていた。
「おかえり、和也」
低い声。痩せた背姿。白髪頭。初めて見る初老の男性の姿に、和也は思い切り警戒心を抱いて、何も言わずに初音のもとへと走って行った。
丁度お茶をお盆に乗せた初音が居間に入ってきて、彼女の太ももに抱き着く。
「どうしたの?和也」
初音の声に応えたのは、居間に座っている男性だった。
「俺が居たからびっくりしたようだ」
それを聞いて初音は柔らかく笑い、ちゃぶ台にお盆を置いて、和也を抱きかかえた。
「和也、この人は初音さんの旦那さんよ」
そう言って自分にしがみつく和也に彼を見せるが、和也は彼の方を見まいと必死に初音に抱き着く。
「いいさ。無理をさせるな」
彼は立ち上がり、初音の方へと歩いて行って、彼女の肩に顔をうずめる和也の頭の上にそっと大きな手を乗せて声をかけた。
「今日からよろしく頼むよ、和也。俺の名前は、恵実一二三。大学で音楽の先生をしていた」
一二三は自己紹介だけ簡単に済ませて、居間の隅にたたずむアップライトピアノへと足を運んで、それの蓋を開けた。ピアノがキィっという小さな声を上げ、一二三はピアノの椅子に座って、指を置いた。
彼が奏で始めたのは、ドビュッシー作曲の版画より第三番の雨の庭。ピアノが鳴り始めて、和也の顔が勢いよく初音の肩から上がる。すぐに振り向き、一二三の背中に視線を向けた。抱かれていた初音の腕の中から、いきなり力づくで降りて行って、すぐに一二三の隣へと走っていく。
和也が自分の隣に来たことは感じていた。さてどんな顔をしているのかと、和也の顔を見てみれば、彼の目はまるで宝石のように輝いていて。幼いころの自分を見ているような錯覚に陥った。
―そうか。俺に似てしまったのか
和也のことは、要所要所で初音から手紙で知らされていた。母親は生後半年の時点で復職し、発達障がいを持っていること。幼稚園や小学校は登校拒否をしていても、関係なく登園登校していたこと。偏食であること。そしてピアノに興味があり、耳が良いこと。
演奏を終えて、一二三は和也に声をかけた。
「どうだった?」
「もっと!もっと弾いて!」
一二三の問いかけを無視した回答だったが、和也の目はキラキラと輝き、希望に満ちているのがわかる。
「何を弾こうか」
「キラキラしてるのがいい!」
「そうか。じゃあ弾いてあげよう」
基本的に口数の少ない一二三と、自分以外と話そうとしない和也。その二人が、今まで見たことのない生き生きとした表情で、ピアノに向き合って音楽を感じている。
彼らのこの光景に、初音は希望を見ていた。
一二三は有名私立音楽大学で教師として後進の指導に当たりつつ、自身は指揮者として活動していた。恵実一二三という男は、それなり有名な指揮者で、堅物で笑った顔を見たことがないと語る人が大半である。
また彼はとても変わり者であることも有名で、後進の指導はしていたが個人的なレッスンを誰かにすることはなかった。弟子にしてほしいと願う若者はたくさんいたのだが、自分の教育方法は普通の人には理解できないことを知っていたから、弟子は取ったことがない。
一二三は指揮者を目指す前は腕の達つピアニストだった。それが気づけば指揮者になっていたし、気づけば多忙な毎日を過ごしていたし、気づけば体が衰えていた。
口下手ではあるが、家庭を顧みることなく音楽に没頭させてくれた初音のことは愛していたし、いつかは実家の駄菓子屋を継ぎたいという思いも若い時から持っている。
ずっと走り続けた教師生活にピリオドを打ち、指揮者としての仕事もセーブすると決めて、一二三は実家に帰ってきた。
和也はすぐに一二三と打ち解けた。共に変わり者であり、和也は一二三が持つ独特な雰囲気に惹かれ、一二三は和也の姿に自らの幼少期を見ているようで、お互いに今まで巡り合ったことのないくらいの相性の良さを感じていた。
元々あった家の畑仕事の手伝いと同時に、和也は一二三からピアノの手ほどきを受けて見る見るうちに上達していった。
その上達具合は目を見張るものがあり、最初こそ和也の弾いているピアノになんて見向きもしなかった久美が、新しく先生に習わせると言い始めるくらいにまでなった。
だが一二三は久美の申し出を一脚し、和也は自分が指導すると断言してそれ以来久美とはまともに口を利かなくなった。
和也が自分ではなく夫の両親に懐いていく姿は、久美にとって屈辱でしかない。和也に久美がピアノを教えようとしても、和也はピアノ椅子に座ったまま一切動かないのだ。
「お母さんが教えてあげるから、この曲を弾いてみなさい」
「弾けない。難しい」
久美が与えた教本には一切手を付けない和也。しかし久美は、自分が与えた教本よりもレベルの高い曲を、和也がスラスラ弾いていることを知っている。
一二三にだけ和也の才能を引き出す力があるのではないことを証明すべく、久美は嫌がる和也を引きずって、友人のピアニストにレッスンを頼んだことがあった。
当時8歳だった和也は、他人のレッスンを受けるわけもなく、和也のレッスンをした教師の大部分は2回目のレッスンを拒否。強すぎる和也のこだわりに、教える側の人間が音を上げたのだ。
結局和也のレッスンは一二三にしか務まらず、和也は久美の思いに反してめきめきと腕を上げていった。
一二三からピアノの手ほどきを受け始めて約4年ほどで、和也は基礎部分の学習が終了。難しい音楽理論なども、和也はすべて難なく飲み込んだ。
小学校を卒業する頃には下手な音大生よりも高い技術を持っていたし、やる気になればピアノの技術指導をすることもできるくらいの実力を身に着けていた。
小学校の高学年に差し掛かる頃には、和也へのいじめはひどくなっていた。上靴がどぶに投げ入れられていたり、机の中身がぶちまけられていたりと、普通であれば不登校待ったなしのいじめだった。
だが、和也はそれを見ても何とも思わなかった。ピアノを始めてからの和也は、精神的に非常に強くなっていたのだ。
不快な様子を見せることのない和也の飄々とした様子は、いじめている側の子どもたちの期待をことごとく裏切っていく。
バカやキチガイのような罵声は浴びせられても慣れていて何とも思わなかったし、上靴がなければ職員室に届けてそのまま帰宅するほどの、図太い神経の子どもとして育った。
しかし、ピアノに関して悪口を言われるのだけは心穏やかではない。表面上は無表情だが、ピアノが弾けて気持ち悪い、ピアノが汚くなるなどの心無い言葉は、確実に和也の心にダメージを負わせていった。
小学校高学年となると、計算なども一段と難しくなってくる。文章題の解き方が全く理解できず、学校側の勧めによって受けたテストで、和也の学習障害が発覚した。
それでも久美は和也をいわゆる普通の学校に通わせたし、和也も久美はそうするだろうと見当がついていただけに全く反抗はしなかった。
自分が言った何気ない一言が相手を傷つけていると気付いたのも、この頃である。
何か言いたいことがあっても何も言わず、学校生活の大半を無言で貫く。香鈴が居なくなってからの和也は、学校で声さえ出さないような日も少なくなかった。
小学校卒業時には、座学の面で明らかに周囲と差が出ていた。できないことが多すぎる。板書さえ目いっぱい急いで普通の子に追いつけない。テストはどんなに頑張っても48点。丸暗記の教科はとにかく嫌いだと言いう意識が、完全にあった。
中学校も地元のいわゆる普通の学校に進学したが、小学校の頃からの同級生しかいないため、道順さえ覚えてしまえばほかに不安な要素はない。思いのほかスムーズに進学することができたというのが、初音と一二三の印象だった。
一二三は仕事をセーブして家に居ることが多かったが、全く仕事をしていないというわけではない。地方に指揮者として招かれ、家を空けていることもあった。和也が畑仕事と料理を覚え始めて、一二三はどこか安心したように少しだけ仕事を増やした。
和也が中学1年の夏休み。夕食を終えて和也が風呂に入ったタイミングで、居間でテレビを眺めていた一二三に久美が話を持ち掛けた。
「和也を音楽高校に進学させます」
久美なりに、和也の将来を見越して進学先を見定めた結果だった。
「ならん」
一二三はテレビを眺めたまま、久美のそれを一脚した。
「今の時代、手に職をつけなければ生きていけません。和也はピアノが弾けます。その才能を最大限に生かす仕事に就きためにも、」
「ならん」
「和也の母親は私です。和也の将来は私が決めなければ、あの子は幸せになれない!」
「ならん!!」
バン!と机を力任せにたたきつけ、一二三は久美に初めて怒鳴った。その様子を見て当時18歳の真唯は小さな声で「うるせぇんだよクソが」と悪態をつき、当時16歳の圭は小さくなって震えていた。
「和也を音楽の道に進ませることは許さん!」
自分と同じ思いをしてほしくない。一二三の想いはそれのみ。一二三も世が世なら和也と同じ発達障がいだった。和也と一二三は年齢は違えど、行動や言動はそっくりなのだ。学校へ行く苦痛、成績重視で結果のみが味方の音楽の世界。学歴、受賞歴、出身校、誰に師事をしたのか…。その呪縛の恐ろしさたるや、言葉にできるものではない。
初音に出会わなければ、とっくの昔に自殺の道を選んでいただろう。それほどまでに生き抜くことが難しいくて苦しい音楽の世界に、大切な和也を送り出すわけにはいかない。
ピアノを好きでいてほしい。ピアノに恋をしたまま、心のよりどころにしていてほしい。ピアノは、音楽は、和也の味方であり心の支えであるべきなのだと、一二三は和也が幼い頃から感じていた。
そこに風呂上りの和也が居間に入ってきた。
「大きな音がしたけど。一二三さん、どうかしたの?」
当時の和也は今よりもその場の空気を読む力が低かった。きょとんとしたまま、悪びれる様子もなく、息を荒げている一二三に問いかける。
「空気読めねぇクソが。黙ってりゃいいんだよ」
和也に悪態を投げる真唯。そんな彼を、和也の瞳が捉える。
「真唯君はおばさんから生まれたのに、最近母さんに似てきたね」
「なんだと!?」
二人の雰囲気が途端に悪くなって、急いで圭が仲裁に入ろうとしたとき。
「和也。散歩に行こうか」
一二三から声をかけられて、和也は目を輝かせて「うん!」と応えて、一二三と共に家を出た。
二人が席を外した家の中は、とても静かになった。重い空気。それに慣れている真唯はチャンネルをころころ変えてテレビを見ていたし、圭は久美の顔色を窺ってびくびくしている。自分の居場所は、いったいどこにあるのか。久美にはもうわからなくなっていた。
そして、和也が中学校2年生になった初夏のこと。夜中に一本、電話が入った。それは仕事に出ていた一二三が、交通事故にあったというものだった。
一二三は指揮者としての仕事を終えて、タクシーに乗ってホテルに向かっていた。あれやこれやとしていると時間があっという間に過ぎていて、タクシーに乗ったのは深夜の手前。
一二三が乗ったタクシーはほんの数分走行したのち、一旦停止を無視した車から衝突され、一二三は頭を強く打ち付けてしまって。病院に運ばれたが、帰らぬ人となってしまった。
連絡をもらって、和也と初音は急いで病院へと向かった。他県だったため、大神が二人を車に乗せて送った。
病院に到着した時には、すでに一二三は亡くなっていた。冷たい部屋に。顔の上に布が被せられ、物言わずベッドに眠る一二三。部屋に入った瞬間、和也は呼吸を忘れた。
「朝電話で…、明日帰るって、言ってたのに」
嘘だと言ってほしかった。本当は別の人だって、不謹慎だけれど言ってほしかった。ベッドまで歩み寄って顔の布を取り去ると、どう見ても一二三だった。
「帰るって…、言ったのに…!」
どうして。こんなことになるんだ。何を責めるとかどうしようとか、そんなのはどうでもいい。もっと一二三と居たかった。ただそれだけだった。
和也はベッドの脇に座り込み、声を上げて泣いた。受け入れられない、大きすぎる存在との突然の別れ。和也はただただ泣くことしかできなかった。
一二三が亡くなって、和也はずっと泣き通しだった。葬儀でも火葬場でもお墓でも、家にある仏壇の前でも。ずっと泣いた。一生分の涙が枯れるまで泣いた。学校どころではない状況だったが、久美はそれでも和也を学校へ行かせた。
「今は和也君の気持ちを最優先にしてあげましょう」
担任教諭だった南から諭されたが、久美は納得できないままだった。和也の養護学校転入を勧めきたり、いじめ問題をクラスで話し合いたいと申し出ていた南のことが、久美はどうしても嫌いだった。
何を話しても泣くばかりの和也。久美の声はおろか、南の声も彼には届かず、和也は誰が止めても泣き続けた。
数か月後。ようやく和也の涙が枯れたころ。久美たち夫婦と義理兄二人の引っ越しが決まった。久美は当然和也を連れて行くつもりだったし、一二三亡き今和也は自分に言うことを聞くものだと思い込んでいた。だから、和也がぼんやりと仏壇の前に座っているときに、声をかけた。
「引っ越しの準備しときなさいね」
和也は仏壇の上に掲げられた一二三の写真を眺めながら、ぼんやりとそれに答えた。
「…いかない。ここで暮らす」
「どうしてお母さんの言うことが聞けないの!!」
和也の答えで、久美の感情が爆発した。
「いつだってあんたは私の言うことなんて全く聞かなかったでしょ!おじいちゃんは死んだの!だからいい加減お母さんの言うことを素直に聞きなさい!」
一二三さえいなければ、和也は自分の言うことを聞くだろう。そう信じていたのに。
「あんたに俺の何がわかるんだ!!」
今までほとんど反論してこなかった和也が、久美にかみついた瞬間だった。相手への感情を押し殺して我慢ばかりしていたのは、久美だけではない。その何倍も和也は我慢してきたのだ。
「俺を育ててないだろ!きついことは全部初音さんに投げつけてきたくせに!何が親だ!障がいの部分には目を瞑って、ピアノが弾けることだけしか見てこなかったくせに!そいつら二人連れて、さっさと出て行って家族ごっこやってろよ!」
「和也!!!」
「うるさい!うるさいうるさい!!うるさい!!!」
口堪えをするなんて思いもよらなかったし、ふと気がつけば怒りに任せて久美は和也の頬を叩いていた。しまったと、一瞬だけ思った。でもこれは仕方がないんだと、自分に言い聞かせ始めた瞬間、和也は立ち上がり、久美の胸倉をつかんで真唯と圭のほうに彼女を投げつけた。
「早く出ていけ!顔も見たくない!!」
怒鳴ったかと思うと、何かが爆ぜたように和也は暴れだした。久美に向って手に取れるものすべてを投げつけ、それを抑えにかかった大神をはじめとする近所の男性たちにも傷を負わせた。今までに見たことのない和也の荒れ方に、皆「落ち着け」以外の言葉は出なかった。
唯一圭のみ、和也を抑え込みながら「ごめんね。気づけなくてごめんね」と泣きながら和也に謝罪していた。
和也は暴れ疲れて抑え込まれたまま少しだけ眠って、目を覚まして何も言わずに一二三との思い出の詰まった地下室へと消えていった。
それはら和也は、両親と義理兄が居る時間帯には一切部屋から出てこなくなった。地下の部屋の内側には、所狭しと扉に南京錠がつけられて、外側からは絶対に開かないようにした。
最初こそ久美が狂ったようにドアをたたき、出てこい、もう引っ越すんだと怒鳴り散らしていたが、和也の耳にそれが届くことはない。
涙は出なかった。食欲はなく、寝ているかピアノに触っているかの日々が約1か月ほど続いた。その間食事はほとんど摂っていない。唯一口にしたのは、初音が持ってきてくれたおにぎりと里芋の煮物と、大神牛乳店の牛乳だった。
寝て起きれば、最初に吐いた。何がどうなっているのかわからないけれど、久美たちが出ていくまでの和也の体は、食べても吐き戻してしまうような状態だった。
「お母さんたち、もう行くから。あんたも荷物まとめて早く来なさい」
ドアの向こうの久美の声にも、和也の反応はゼロ。久美たちが出て行って5日後、ようやく和也が地下から出てきた。
風呂にも入らず、食べ物もまともに摂取できず。和也は1か月で骨と皮の一歩手前まで痩せこけていた。もともと痩せていただけに、もう落ちる肉がほぼないような状態だった。
それでも初音や祖父母は顔色を変えることなく和也を迎え入れた。
「和也、ご飯にしようか」
「お風呂沸いてるから、先に入っておいで」
「お風呂から出たらテレビでも見よう」
変わることなく自分を受け入れてくれた3人に、枯れたはずの和也の目から、また涙が落ちた。
中学校はそのまま登校拒否となり、卒業式にも出席しなかった。そのことについての後悔はない。これ以上和也を頑張らせるという選択肢は、初音にも曾祖父母にもなかったのだ。
徐々に和也も元気になってきて、まず畑仕事を覚え、それから弁当作りを覚えて。それから大神牛乳店でバイトを始めて今に至る。この生活が出来上がるまで、数年かかった。
「長い話になってしまって、ごめんなさい」
初音は二人に頭を下げた。和也が暴れた理由や、過去のいじめ。和也の今までの行動がなんとなく納得できた。
「たくさんの人がいる場所に和也を出すのは、正直こちらとしては不安が大きいの。それでも和也があなたたちと一緒に行くというのであれば、私は和也を送り出そうと思っています」
初音のそれに、あかりの頭が自然と下がる。
「あれ、何の話してたの。しんみりしてるけど」
ひょっこり現れた和也を見上げると、あかりの目にうっすらと涙がにじむ。この感情はいったい何なのだろうか。彼への同情だけではない、彼が生きていることへの感謝のような妙な感情が、あかりの中に芽吹いている。
「戸高先生、どうして泣いてるの?僕がコンチェルトやらないって言ったのが悲しかったから?」
いきなり何を言っているのか、和也はやはり的外れなことを真顔で言っていて。
「違うよ」
あかりは少し笑顔になって、そう答えた。
「泣かないで。僕、明日楽団を見て、できそうならコンチェルトやろうかなって思ってるから。だから泣かないで、先生」
和也のそれに、あかりも香鈴も一瞬にして置いて行かれてしまって。
「コンチェルト、やるって言った?!」
「弾いてくれるの?和也君!」
「まだわかんないけどね」
そう言って和也はクスリといたずらに笑った。
「晩御飯にしよう。明日、楽しみにしてる」
にこりと笑い、和也は台所へと去って行った。今の和也の表情は、初音も初めて見るものだった。
和也の小さな変化。それに初音は戸惑いつつも、言葉にならない喜びをかみしめたのだった。
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