第9話楽団へ
翌日、約束通りの時間に香鈴がお店に迎えに来た。香鈴の家は、和也が暮らしている駄菓子店の徒歩圏内にある精肉店。あかりは直接練習ホールへと向う約束である。時間も指定時間ぴったりで、和也も店に出てきてすぐだった。
「では、お預かりします」
「よろしくお願いします」
まるで先生と保護者のような二人のやり取りを聞きながら、それぞれの顔を和也は観察している。初音はどこか不安げで、それを隠している笑顔。香鈴はどれを感じ取って、初音を安心させるような優しい笑顔をしている。
―こんな時、僕はどんな顔をすればいいんだろう
初音を心配させないように、元気に「行ってきます!」と言えばいいのか、それとも初音の不安を払拭すべく「大丈夫だから」と声をかけるべきなのか。答えはいつも闇の中だ。
なんで普通がわからないのか。最初からみんな持っている“普通”が搭載されていない和也の脳は、また必死に“普通”を追いかけている。
「行こうか」
香鈴から声をかけられて、和也は会計台の奥に走っている廊下からのっそりと腰を上げた。
「行ってきます」
答えが見つからないまま初音にかけた声はいつもと変わらなかったし、答えが出ていないから笑顔にも困った顔にもなれないまま。いつもと同じ無に近い表情で、いつもと同じトーンの声で。和也は初音に手を振った。
練習ホールは隣町にある。香鈴はバイクの免許しか持っていないため、和也が運転する軽トラに乗った。
「場所だけど」
「この前ご飯の時に教えてもらったとこだよね。あそこなら道がわかるよ」
助手席に乗った香鈴を一度だけ見て、和也は軽トラのエンジンを起こす。昨今ではあまり聞くことのない唸り声が上がり、軽トラの目が覚める。
「そうか」
ハンドルを握る和也を見るのは初めてだ。いつもなんとなく幼く見える和也だが、運転免許は持っているし、ミッション車の軽トラに毎日乗っている。なんだか新鮮なこの光景に、香鈴は妙にウキウキしてしまっている。
「近道してくね」
「近道なんてあるのか」
「てか、近道しか知らないんだよね」
「…大丈夫か」
「大丈夫。時間までには余裕で間に合うから」
余裕を持て余すような時間に迎えに行っていないのだが、和也はどんな道を通って行くのだろうかと思った矢先。軽トラが走り始めた。
田んぼの中の道をぐんぐん走って行って、ふと気がつけば周りはもう知らない風景が広がっている。これだけでも香鈴の中には漠然とした不安が生まれたのに、和也は迷うことなく細い山道に入って行って、それも恐怖を感じるくらいのスピードで走っていて、道の舗装も甘いためずっとがたがたと左右に車ごと揺れている状態。
声には出さないが、たどり着ける気がしない。周囲も次第に暗くなってきていて、このまま森の一部になってしまうんじゃないかと香鈴はそっと怯えた。
軽トラは森の一部になることなく、無事に練習ホールに到着。山越えをして裏道を進んで、いきなりホールに到着した。
乗車時間は長くないのに、なぜだかどっと疲れた。駐車場に入って和也がバックで駐車している最中、ほんの一瞬意識がぐらついたような気さえ感じる。
駐車場にはすでにかなりの台数の車が停まっていて、香鈴は和也を連れて静かにホールの隣のピアノ練習室に入った。
練習室には小窓が付いていて、練習ホールとつながるドアにも小窓がある。そこから香鈴はホールの様子を観察する。
ホール内には大方の楽団員とあかりの姿があった。雑談している人や楽器の手入れをしている人、相変わらずみんなそれぞれ好きなことをしている。空間としては悪い雰囲気はないものの、やはり木本が居る場所はなんとなく陰湿に感じてしまうし、周囲との距離も物理的に開いている。
時間が来て練習が始まった。第一部の曲は、チャイコフスキーのくるみ割り人形。和也は部屋に入ってずっとピアノの椅子の上で膝を抱えていたが、演奏が始まると目の色が変わった。
「くるみ割り人形だ」
和也はやはり音楽が好きなのだ。
「この曲を第一部でやることになってる。仕上がりは悪くないと思うけど、何か一つ足りてない感じがしてて…」
もう一つ。この演奏にかけている部分を見つけ出すことができればと、香鈴もあかりも、ほかの楽団員も思っていた。何かが違う。何か足りてない。前はあったのに今はないその“何か”を追っているのに、そのしっぽさえつかめない。
「へぇ」
小さな声を漏らし、和也は演奏に耳を傾ける。無表情に近い和也は、いったい今何を感じ、何を思っているのだろうか。香鈴はぼんやりとそんなのこと考えながら、楽団員たちの演奏の音を脳内解析する。
この楽団は1時間練習を行って10分休憩を取る。1時間の練習の中では、通し練習だけでなく部分練習をしたり、さらに良い音を出すための試行錯誤も行われている。自分たちは自分たちのペースで、一歩一歩納得にできる音楽を作っていくというのが、この楽団が代々受け継いできた信念なのだ。
苦しむところはみんなで苦しみ、喜びもみんなで分かち合う。そんな楽団だったはずなのに。
「こんなクオリティの低い音じゃ、お客さんの前に立つのが恥ずかしいわ。指揮者の威厳みたいなものも感じないし」
あかりに指揮者が代替わりして、木本の態度と悪口がどんどん悪化していって。楽団内の雰囲気は、悪くなる一方だ。
休憩時間に入ってすぐに木本の悪態が全員の前で披露され、彼女は申し訳なさそうに小さくなったあかりをにらみ付けながら数名の女性楽団を連れてホールから出て行った。
それを小窓から見ていた和也は、木本の所業を見て目を丸くする。
「大人なのに小学生みたいなことしてる人っているんだね」
「それは本人には言わないでくれ。俺たちも彼女には手を焼いてるんだ」
和也の言ってことが真実なだけに、香鈴はため息交じりにそっと和也にくぎを刺す。
ピアノ練習室にあかりが入ってきたのは、それからほどなくしてだった。
あかりは事前に楽団員にピアノ練習室に和也が来ることを伝えていた。だから楽団員たちも気になる気持ちはあるが、どうしても和也の“発達障がい”が気になってしまって自分たちから距離を詰めようとする人はごくわずかしかいない。
部屋に入ってきたあかりは、苦く笑っていた。
「あんまりいい練習風景じゃなかったかも…」
そう言ってあかりはまた渋く笑う。
「戸高先生は指揮棒を握ると、肩に力が入っちゃうの?」
「…え?」
「肩に力が入ってたよ」
和也はそう言って、ピアノの蓋を開けた。
「音楽ってね。楽しいんだよ。だから、戸高先生ももっと音楽を楽しめばいいんじゃないかなって思うんだ」
和也はあかりを見つめて、彼女と目が合うとほんの僅かにこりと微笑む。
「くるみ割り人形はもっとキラキラしてるほうがいい。そうだなぁ…、なんていえばいいんだろう。前を向くって感じじゃないんだよ。どうせ向くなら上かなぁ」
独り言をこぼしながら、和也の指が鍵盤の上で踊りだす。
それは紛れもない、チャイコフスキーのくるみ割り人形。プレトニョフの編曲版で、原曲の楽譜よりも難易度はかなり高い。
あかりは二回目。香鈴は初めて。和也の弾くピアノを聴く。音から伝わる、和也の気持ち。希望に満ちた輝く音は、一つ一つが生きていて、一瞬のうちに和也の世界へと引き込まれていく。
低音は少し優しく、高音には星が瞬くような輝きを感じる。音色全体は、とても柔らかい。ただ残念なのが、ピアノを弾いている和也から聞こえる和也の鼻歌が、驚くほどに音痴であるという点くらいだ。
ピアノを弾いている和也は、いつもの硬い表情が嘘のように柔らかくなる。愛しいものと一緒に時間を過ごすことの喜び、ピアノを弾いている今この瞬間を、和也は心底幸せだと感じているということが見るものすべてに伝わる。
―この子はきっと、本来この音色みたいな優しさをずっともっているのかもしれない
あかりは、ピアノを弾く和也の細くて大きな背中を眺めながらそう思う。和也は今まで自分のことを語らなかった。語らない理由があるのかもしれない。でもこうして音楽から伝わってくるのは、純粋な気持ちと優しい風。
くるみ割り人形は全7曲。夢にあふれた行進曲。内緒話をするような金平糖の精の踊り。怪しさの中に小さな艶を感じるタランテラ。安からでありながらも美しい音の波が押し寄せる間奏曲。ジェットコースタのようなトレパーク。小さな子どものステージを見ているような中国の踊り。そして、優しく語り一瞬に切なさを謳ったアンダンテ・マエストーゾ。
音色や技術に問題がないといったあかりの言葉は本当だった。和也の音色には迷いがなく、顔色をうかがう様子もない。彼の世界が広がり、その音色は人をひきつけ魅了する。
満足げにピアノを弾き終えて、和也はふぅっと小さな息をついた。
「くるみ割り人形は、遊園地だから」
彼の言っていることはなんだかよくわからないが、そのミスのない演奏は圧巻だった。
「ね、戸高せんせ…」
振り返った和也の表情が一瞬で凍り付く。どうしたのかと思い振り向くと、あかりの後ろにある練習ホールとの間のドアが少し開いていて、そこからと小窓から楽団員たちがのぞき見をしていたのだ。
一気に和也の目が泳ぎ始める。それを見て、楽団員たちも「マズイことをした」と目を泳がせている。
妙な空気が流れ始めた。なんとかしななければと、ピアノの音色で停止していた脳を無理やりたたき起こしてフル回転させる香鈴。どうしていいかわからずにあたふたするあかり。どうしていいかわからないまま視線をきょきょろさせる和也。
そこに舞い込んだのは、一人の楽団員からの称賛の声だった。
「ブラボー!」
彼はそう言ってバーンとドアを開き、和也に拍手を送り始めた。ドアが開く大きな音に驚いてしまい、和也はびくりとしてそのままピアノの椅子の上で大きな体をこれでもかと縮めた。
「ブラボー!」
「ブラボー!」
次第に増えていく称賛の声と、拍手の音。
何が起こったのか把握できず、和也は怯えながら顔を上げた。ピアノを誰かに聞かれれば、気持ち悪がられていた。そのトラウマがあるから、今まで大勢の前では弾けなかった。自分だけの小さな音楽。小さな世界。そこにちょっとだけ出入りしている、あかりと香鈴。それだけで満足だった。
いじめられることよりも、ピアノを否定されることが酷く怖かった。
それなのに今ここに居る人は、少なからず自分のピアノを否定する気はないらしい。遠い昔、一度だけ聴きに行った一二三の演奏会でも、演奏が終わってお客さんが「ブラボー!」と言っているのを聞いたような覚えがある。
恐る恐る顔を上げれば、ドアの向こうの皆は笑顔で手を叩いていたし、それを見ていたあかりも香鈴もどこかほっとしているような表情だった。
困惑して椅子にうずくまったまま、和也は香鈴を見上げる。すると香鈴がそっと耳打ちをした。
「こういう時は、椅子から立ち上がって、ありがとうって気持ちを込めてお辞儀をするんだ」
テレビで何度も見た光景。演奏が終わったピアニストが、聴衆に頭を下げているあの場面。僕はピアニストじゃないのに、そんなことして怒られない?と言いたげな不安の色が、和也の目や僅かな表情の変化からうかがえる。
「大丈夫だから」
優しく微笑んだあかりからも背中を押され、和也は全身に目いっぱい力を入れたまま立ち上がって。楽団員に礼をした。
鳴りやまない拍手。脅迫されているような感じもするし、そうでないと信じたい気持ちもある。
複雑すぎて考えることができなくなった頭を上げると、こちらを見ている楽団員たちはみんな笑顔だった。
「すごかったよ」
「素晴らしい演奏だった」
褒めてもらっているのに、この言葉にはどんな裏があるのかと考えてしまう。この笑顔の裏側には、どんな表情を隠しているのか。健常者の考えていることはわからない。彼らを信じるのは、今の和也の無理なのかもしれないけれど。
和也の心には、今まで感じたことのない温かさが沸き上がってきていて。もう一度頭を下げた時、泣くつもりなんてなかったのに自然と涙が落ちた。
休憩時間の10分はかなりオーバーしてしまったが、リストのコンチェルトの練習はしっかりと一時間行った。
和也はピアノ練習室から出ることはなかった。出たくないのではなくて、出られなかったのだ。オーケストラの演奏する音はやっぱり和也には大きすぎるし、人数だって休憩時間が終わって増加。まずは音の大きさを知る意味も込めて、和也はピアノ練習室から彼らの練習を見守った。
練習開始後数分が経って、和也はピアノの椅子にうずくまったまま香鈴に問いかけた。
「楽団の人たちは、僕のピアノが気持ちい悪いって思ってないのかな」
あれだけの演奏をしていたのに、和也は全く自信を持っていない。
「そんな風に思ってないさ。少なくともさっきあの場に居合わせた人は、みんな和也のピアノを素晴らしい演奏だったと思っていた。お世辞や情けで、あんなふうに言葉をかけたり拍手をするような連中じゃないんだ」
香鈴の答えを聞いて、和也はほっと胸をなでおろす。
「…怖かった。あんなに人がいて、あんなに拍手されて、褒められて」
まさかドアが開いていたとは、香鈴もあかりも思っていなかった。
「でもね。…うれしかった」
さっきのことを思い出すと、なぜだか自然と涙が出る。
「そうか」
優しい香鈴の声で、和也はまた安心する。
「連れてきてくれてありがとう。…やってみるよ。コンチェルト」
自分の力に自信はない。でも褒めてくれた人たちが望むのであれば、自分にできることをしたい。
和也から踏み出された一歩を、香鈴は驚きつつも受け止めて。
「わかった。ありがとう」
涙がなかなか止まらない和也の頭に、ポンと香鈴は自分の大きな手を乗せた。
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