第7話 二面性
週末に楽団の練習会があり、毎度のことながら今回もピアニストの話が上がった。ピアニストが居ないのであれば、もう昨年の曲に決定してしまいたい。宙づり状態の今よりも、もう昨年の曲にしてしまった方が、気持ちがすっきりすると楽団員の大半は思っていた。
練習会後の今回の話し合いで、曲目を決めてしまおう。昨年の曲で決まりだと決心をして、あかりは話し合いを始めた。
話し合いそのものは、開始早々に重い空気が立ち込めた。
「で、戸高さんが言ってた自閉症スペクトラムとかの子は、結局どうするの?弾けるの?弾けないの?」
さっさと話し合いを終わらせて帰りたいというムードで、とても息のし辛い空間。会を始めてすぐに、コンサートマスターの
「いい加減、さっさとしてほしいのよね。みんなのやる気が下がってきてるの、わかってないの?今までこんなことなかったのよ?」
前指揮者が選んだコンサートマスターの木本は、有名私立音楽大学を首席で卒業した実力を持っている。どうしてこんな小さな楽団に在籍しているのか、正直あかりにはよくわからない。彼女の実力ならば、もっとレベルの高い楽団に入っても問題ない技術を持っているのは確かなのだ。
木本は前指揮者を尊敬していた。その一番弟子としてあかりが楽団に入った時から、あかりのことは気に食わなかったようで、チクチクと嫌味のようなことを言っていたが、指揮者交代後はそれが目に見えて増えた。彼女の周りにはいつも数人楽団員が居て、あかりへの不満をこそこそと木本と話しては笑っている。
そんなことをされているから、あかりだって彼女たちのことは好きになれない。言っていることは正しいが、もっと言い方を考えてくれたっていいのではないかと思う。
実力面で力不足であることはあかり自身もわかっているからこそ、毎日時間が許す限り音楽の勉強に時間を費やす。その努力さえもあざ笑う彼女たちの言動や行動に、嫌気がさしていた。
ケンカをすると、楽団が割れてしまう。それに彼女は口が達から、ケンカになっても勝てる要素は何もない。だったら聞き流してしまうに限る。これがあかりの今の心境である。
「ピアニスト候補の方ですが…」
和也はあの時「弾かない」と断言した。それはもう変わらない可能性の方が高い。でも諦めきれない自分もいて、あかりが一瞬言葉に詰まった時だった。
「来週、練習会に来ます」
香鈴の声が上がる。ザっと普段寡黙な彼に楽団員全員の視線が集まった後、一瞬楽団員全体がわずかにざわつきを見せた。
「練習会に参加するのではなく、隣の控室からこっそり見学するという形になると思います。彼はいじめられていた過去があり、大勢の人の中に入ることそのものに強いストレスを感じてしまいます。多くの人、大きな音、たくさんの情報は彼の神経をすり減らしてしまう。それを避けるため、まずは来週楽団の雰囲気を感じてもらおうと思っています」
彼が施設に勤務していることは、楽団員たちの中にすでに浸透していた。その的確な指示に、楽団員たちの表情が徐々に変わり始めた。
「戸高さんより仕事が早いじゃない、泉君」
木本のそれに、頷きはしないものの楽団員たちも内心納得してしまう。
「あかりさんが居なければ、俺は彼と再会できなかった。彼を探し出してくれて俺に声をかけてくれたのは、あかりさんです。彼女が居なければピアニスト候補は見つからなかったんです。今回は相手の状態を俺の方がほんの少し理解しているから、話をしているだけです」
木本の方をまっすぐに見つめて、香鈴は自分の気持ちを告げる。
「そうかもね」
そんなことは全く思っていないのがわかる、面白くないことを聞いて損をしたような表情で、木本は一応の返事を香鈴に返した。
今回の楽団内の話し合いは、香鈴が司会を務めた。和也への対応の仕方が話し合いの大半を占める会となった。
香鈴の出した条件は、簡単なものだった。まず和也に無理やり接触しないこと。心の中で、彼を見下さないこと。話しかけると目を泳がせるが、悪気は全くないということ。失言があったとしても、和也は悪気を持っていないこと。そしてその時は、感情的にならずにどの部分がどうして悪かったということを端的に伝えること。
「俺たちも彼も、同じ人間です。障がいと名前がついていますが、脳の働き方が多くの人と異なるだけの、ただの人間なんです。善悪の判断はできるし、人間への恐怖心を持っているけれど完全な拒絶はしないと思っています。彼は今、コンチェルトはできないと言っている。これは彼がいじめを受けたことや自分のしてしまった失言などからくるものではないかと、俺は思っています。技術面では問題なく、あかりさんの話では今すぐにでもリストのコンチェルトが弾けると本人が言っていたそうです。来週は、彼の心が動いてくれる、心のこもった演奏をしましょう」
コンチェルトへの参加は、今のところ望み薄かもしれない。でも、可能性はゼロではないのも、また事実。もう和也のコンチェルト参加をあきらめていたあかりの心に、香鈴の言葉がゆっくりと染み込んでいった。
話し合いがお開きになって、あかりは帰宅しようとしていた香鈴を駐車場で捕まえた。
「ありがとう、いろいろ…。助かった」
あかりから呼び止められて立ち止まって振り返ると、あかりの目にはうっすらと涙が浮かんでいて。
「まだ和也が弾いてくれるとは限らない。もし弾いてくれなければ、俺も頭を下げます」
香鈴の低い声が頭の上から降ってきて、ポンと頭の上に彼の大きな手のひらが乗った。
「頑張りすぎないで。あかりさんが潰れてしまったら、楽団はいよいよダメになってしまう。俺だけじゃない。楽団内には声を上げる勇気はないけれど、あかりさんを支えたいって気持ちを持ってる人もたくさんいるから」
駐車場の街灯のほんのわずかな明かりが、二人を照らす。
「ありがとう」
味方がいる。支えてくれる人がいる。その存在の大きさを、あかりは改めて感じて大切に大切に胸の中で抱きしめたのだった。
週が明けて、また月曜日が始まる。あかりは今週研修がたくさん入っているため、駄菓子店へお弁当を買いに行く日が飛び石になる予定だ。
香鈴から事前にアドバイスをしてもらい、お店にお弁当を買いに行けない日があることを週末に和也にメールで伝えた。習慣になっていることや毎日顔を合わせている仲の良い人が突然来なくなってしまうと、無意識のうちに何か失礼なことを言ってしまったのではないかと気に病んでしまうかもしれにとのこと。
―和也君が私のことを仲良しの人と思ってくれてるのかよくわからないけど、とりあえず連絡を…っと
自分の前では笑わなかった和也が、香鈴とのやり取りであんなにもあっさりと笑った顔を見せたことを、あかりは少し引きずっていた。香鈴と知り合いだったということや彼が支援施設に勤務していることなども影響しているのだろうけれど、それでも自分の方が早く声をかけたし接してきた時間もほんの少しだけど長いじゃないかと、考えれば考えるほどに悶々としてしまう。
メールの返信は夜23時前だった。
『教えてくれてありがとう』
いかにも男の子らしい、絵文字も顔文字もないシンプルな返信内容。何かを期待していたわけではないが、シンプルなそれにあかりは少し笑った。
『金曜、お話しできるの楽しみにしてるね!』
『僕も楽しみにしてるよ』
スローテンポで数通メールのやり取りをして、『おやすみ』と返信し合って。それぞれ布団とベッドに寝ころんで眠りについた。
週が明けて、あかりは研修に追われ、和也はいつもと変わらない日常を過ごしていた。学校での仕事の時は朝弁当を買いに駄菓子店に寄り、和也と少し話すこともあれば和也ではなく初音とあかりが少し会話をする日もあった。金曜日まで長いなと思いながら始まった週だったのに、研修や勉強会で忙しくしていると気がつけば金曜日になっている。社会人とは、大人とは、そういう生き物なのかもしれない。
金曜日は学校勤務だったので、朝弁当を買って、あかりは和也に声をかけた。呼び止めた彼は、以前ほどではないがやはり声をかけた瞬間はビクッと小さく肩を震わせる。
「今日の夕方、お店に行くね」
「待ってるよ」
短いやり取りだったけれど、少し前まで声も聞かせてくれないような状態だったことを考えると、和也が自分に心を少しずつ開いてきているとあかりは信じたい。
学校での仕事を物凄いスピードでこなし、なんとか定時で仕事を終えて駄菓子店に向かう。坂道を自転車で下るのも、もう慣れてきた。
アブラゼミの数えきれない鳴き声と、名前も知らない下り坂の空を覆う木々の葉。真昼よりほんのわずかに涼しくなった空気を、自転車に乗って切っていく。
ねっとりとした夏の空気の中を走っていると、清々しいさは残念ながら感じることはできないが、解放感を存分に感じることのできる。この一瞬が、あかりは例えようがないくらいに好きだ。
駄菓子店に入ると、子どもたちが徐々に帰り始めていて、すでに香鈴が店に入っていた。香鈴は子どもからの支持もあっという間に集めてしまうようで、すでに子どもと友達になっていて何かわからないアニメの話に花を咲かせている。
「お疲れ様」
あかりから声をかけられて、たらいのそばでしゃがんで子どもと話していた香鈴は顔を上げる。
「お疲れです」
こちらを見上げる香鈴は、なぜだかいつもよりも子どもっぽく見えた。
店から子どもたちが居なくなって、会計台の向こう側に座っていた初音がゆっくりと立ち上がる。
「お茶を持ってくるわね」
二人にそう言って、彼女は台所へと歩いて行った。
「いらっしゃい。来てくれてありがとう」
初音と入れ替わりで和也が店に出てきて、二人に声をかける。
「こんにちは、和也君」
「元気だな、和也」
あかりと香鈴の笑顔を見て、和也の表情も少し緩む。
駄菓子店で少し話ていると初音が二人に麦茶を持ってきた。
「いつも店先でごめんなさいね」
二人に声をかけながら、初音はちらりと隣の和也に視線を送る。
「なに?」
和也は初音の視線に小首をかしげた。
「先生たち、ずっとここでお話しするのも疲れちゃうと思うんだけど、和也はどう思う?」
初音が背伸びをして和也に耳打ちをする。それを聞いて、和也はハッとしたように目を大きく見開いた。
「本当だね。気がつかなかった」
和也の驚いた表情を見て、この子もこんなに表情が変わるのかと、あかりと香鈴も和也と同じタイミングで驚いた。
「居間にお通ししたいなって思うんだけど」
「そうだね、そうだよ。戸高先生、こうちゃん、上がって」
和也が自分の生活スペースに、他人を入れたことは今まで一度もない。もしかするとというほんのわずかな確率にかけた声掛けだったが、まさかこんなにあっさり和也が他人を自分の居住空間に二人を招き入れるとは思いもよらなかった。
振り向けばポカンとしてしまった初音がこちらを見上げていて、和也は小首をかしげる。
「初音さん、どうしたの?」
どうして彼女が自分を見上げて、驚いているような表情をしているのか。理由がわからない。
「いいえ、どうもしないわ。先生たち、上がってください」
和也の成長を肌で感じ、胸に抱いて、笑って和也に声をかけて後ろに居る二人に声をかけた。
「ありがとうございます」
「お邪魔します」
振り返った初音の表情は、朗らかでいて嬉しさが伝わる笑顔だった。香鈴とあかりは初音の誘いを笑顔で受け入れたのだった。
先の香鈴が歩き出し、あかりがそれに続いて歩き始めた時。あかりの腕が商品棚に当たってしまい、棚からパラパラと駄菓子がこぼれ落ちた。
「先に行ってて」
しゃがんで駄菓子を拾い集めながら、香鈴に声をかける。普段締まっているガラス戸が開いていて、その向こうの畳が広がる居間では初音が急いでテーブルの周りに座布団を置いて小走りで準備をしてくれている。
この家には曾祖母が居るから少しかすみがちではあるが、初音だって若いわけではない。和也という孫がいて、彼はもう18歳なのだ。元気に見えるが体は衰えている。
香鈴はあかりの声に頷き、足早に居間に入って行った。「手伝いますよ」「ありがとう」という二人の声が、少し遠い場所からあかりの耳に入ってくる。和也は台所にお茶菓子を調達しに行ったようだった。
「すみません」
女性の声がした。あかりが顔を上げると、中年の女性がこちらに声をかけていた。
「は、はい!」
急いで落とした駄菓子を拾い集めて商品棚に戻し、にこりと笑って彼女の対応をする。
「お店の方…?」
「いえ、店員ではないんですが…」
「和也のお友達?」
「…はい?」
女性はどうやら和也を知っているようである。
「和也を呼んでもらえます?」
少しくたびれた雰囲気をまとった女性は、あかりに微笑みかけながらそう言った。
「はい…」
この人は一体だれなのだろうか。自分たち以外に誰かを呼んだとは、和也は一言も言っていなかったと思うのだがと、一瞬胸がざわついた。でも、彼女は和也を知っている。おそらく和也も彼女を知っているのだろうと、あかりは和也が向かった店の右奥の廊下の先に向かって声を上げた。
「和也くーん!お客さんだよー!」
すると、トントンと足音がして、廊下の先に和也が姿を現した。若干眉間にしわが寄っているあたり、やはり予期せぬ訪問というものなのではないかと、あかりの胸が再度ざわつく。
「誰?」
廊下を歩いてくる和也はあかりにそう問いかけ、駄菓子店に出てきて正面を向くと。
「和也」
先ほどの女性が和也に声を掛け、和也の表情が一気に曇った。
「なにしにきたの。呼んでないんだけど。店に来るとも聞いてない」
和也の地声はそう高くない。しかし今発した声は、今までに聞いたことのない低さでこみ上げるものに無理やり蓋をしているような声のようにあかりは感じた。
「和也、少し話がしたいの。この前喫茶店のおばさんからメールをもらってね。お友達とお茶をしに来たって。そのお嬢さんがそうなの?お母さんに紹介して…」
「話すことはない。帰んなよ」
「和也」
「うるさい」
「和也、話を」
「うるさい!うるさいうるさい!!うるさい!!!」
和也の怒声が店の中に響く。
「帰れよ!!あんたなんか見たくない!」
和也のそれに驚いて、初音と香鈴が今から飛んできた。
「久美さん…!」
初音に名を呼ばれ、訪問客の表情の雲行きが怪しくなる。
「帰れ!!くるな!!」
今までに見たことのない、和也の怒りに任せた声とこめかにみ浮いた血管。
「お母さんの話を聞きなさい!」
「生んだだけの人なんか親じゃない!僕を育てたのは初音さんと一二三さんだ!!」
「和也!!なんでお母さんに歯向かうの!!」
彼女のそれを聞いた和也が、女性に向かって一歩踏み出す。
―これは行かせるとまずい!
あかりは直感的にそう思い、和也の前に出る。
「和也君、だめ!」
あかりの声は、和也の耳には届いていない。前に出たあかりの肩を力任せに押しのけて、和也は店に出て行く。あかりは想像以上の和也の力に、小さな悲鳴を上げてよろけてしまった。
「和也!」
初音の声にも耳を貸さない。おそらく和也の耳に、初音の声さえも入っていないのだ。“キレる”という単語があるが、おそらく和也は今その状態に限りなく近い。
何も見えておらず、彼女だけを睨んで、邪魔するものは相手がどんなものであれ容赦なく突き飛ばしていく。
「和也、そこまでにしよう」
和也の目の前に香鈴が立つ。しかし和也は香鈴さえも押しのけて進もうとしていて。
「和也、おしまいだよ」
香鈴に腕をつかまれても、力でそれを振りほどく。
「和也。ダメだ」
香鈴が和也を正面から抱き留めるように彼の前進を妨げると同時に、和也は久美に向かってつかみかかろうとした。
まさに一触即発。いつもの飄々としている和也とは、まるで別人のよう。威嚇しながら獲物を今にも食い殺そうとしているオオカミのような表情に、がっしりとした体格の香鈴でさえ押さえるだけで手いっぱいの腕力。
「和也ぁ!」
名前を呼んでも和也から返事はない。香鈴の声さえも、今の和也には届いていない。
「出てけ!店から出ていけ!!」
久美は和也のそれを見ても表情ひとつ変えることなく、和也の方をじっとりとした表情でただただ眺めるばかりだった。
「和也、もういいわかったから!初音さん!居間に押し込みます!!俺たちが入ったらガラス戸をしめてください!!」
暴れ始めた和也は、男の力でも抑えきることが難しい。香鈴の指示で初音はガラス戸を開けて、タックルするように無理やり居間に和也を押し込んで、香鈴は和也の上に倒れ込んだ。
あかりが見ていたのはそこまでである。二人が倒れ込んですぐに閉められたガラス戸の向こうでは、香鈴が和也を畳に抑え込んでいるぼんやりとしたシルエットと、そこから漏れ出す和也の言葉にならない叫び声のような声だけがくぐもりながらも店の中に響いていた。
久美の大きなため息が、店の中に響く。彼女は何も言わず、その場から立ち去って行った。あかりは彼女を引き留めることもできず、今何が起こっているのかも把握しきれないまま、恐怖で鼓動を早める心臓に手を当ててその場に座り込んだのだった。
居間に押し込んだ和也は、まるで野獣そのもの。力だけではない。表情もいつもの和也からは想像することができないくらいに怒りに占拠されていて、香鈴は和也を抑え込むことだけで手いっぱいで声を出すことも儘ならない。
発達障がいや知的障がいを持つ人間は、時として何かが弾けたように怒り狂い、その時に発揮する腕力は並大抵のものではない。和也だってその例外ではないのだ。
健常者では当たり前に口に出せる言葉がすぐに出ず、それを待ってもらえない。健常者は気にも留めない小さなことさえも、小さなこととして処理できずにずっと引きずってストレスを抱え込んでしまう。それを口に出せば「そんなことでいつまでぐずぐずしてるんだ」と、輪をかけてストレスをかけられてしまう。
言えないこと、できないこと。当たり前のことが自分はできない日常の小さな小さな我慢の積み重ねが弾けた時の、彼らの腕力はその体格から想像することのできないものになる。
香鈴はそれを知っている。職場ではよくあることだ。この勢いに任せて爪を立ててかじってきたり、場合によっては全力で噛みついてくる人もいる。和也は爪も立てず噛みついても来ないだけまだおとなしいと思えた。
肩を腕で押さえつけ、腰の部分の跨って、和也を畳に抑え込む。初音の力じゃ到底どうすることもできない和也の腕力。力任せに抑え込んでいても、一瞬気を抜いてしまうとすぐに店に飛び出してしまうほどのそれに、香鈴の体力と神経がすり減ってきていた時。
「にぎやかいねぇ。どしたんね?」
どこからともなく和也に曾祖父が、くたびれたステテコとタンクトップ姿で出てきた。
「あいつが来てるんだ!店に居る!!追い出さないと!!!」
和也の状態は依然酷い状態なのに、曾祖父は顔色一つ変えず朗らかに笑った。
「そうかいそうかい。んなら儂がお店、見たげような」
そう言って曾祖父はガラス戸をわずかに開けて店の様子を覗き見るて、すぐに和也に近寄って彼の近くにしゃがみ込んだ。
「もう帰っとる。先生がお話してくれたんじゃろかね。お店には先生しかおらんから、怒らんでもいいよ、和也」
曾祖父からのそれを聞いて、和也の表情が見る見るうちに落ち着いていく。もう大丈夫だろうと思い、香鈴が和也から離れると、和也はゆっくりと体を起こしてガラス戸を開けて店を見ると。
「戸高先生…」
あかりが店の真ん中でしゃがみ込んでいた。わずかに上がった息を整えながら発した和也の声を聞いて振り向くと、和也はいつもの和也に戻っていた。
「ごめんね先生。…僕、先生に怖い思いさせちゃった」
あかりの目の奥にある、自分への恐怖心。和也はそれを見逃さない。
「少し驚いたけど、元に戻ってよかった」
そう言ってにこりと笑うあかり。でも彼女の心の奥には、やはり和也に対する恐怖心があるわけで。
「ごめんね」
こんな思いをさせてしまって、あかりに悪いことをしたという自責の念は、和也の心の中に渦を巻いた。
あかりが居間に上がって、和也が完全に落ち着いてから楽団の話や音楽の話をした。純粋に会話を楽しんでいる和也の少し緩んだ表情を見ているを、あかりも本来の和也に戻ったんだと確信して気持ちが徐々にほぐれていった。
時間が遅くなってきて、夕食時が差し迫ってきて。
「ねぇ、先生。こうちゃん」
話がひと段落着いたタイミングで、和也が口を開いた。
「どうした?」
香鈴がそれに応えると、和也はどこか思い切ったように顔を上げた。
「もしも、迷惑じゃなければ、僕が作った晩御飯食べて行って。さっき暴れちゃったから、ごめんなさいのしるしにご飯ご馳走したいんだけど…」
和也の申し出に、あかりと香鈴は驚いて顔を合わせた。
「和也、料理できるのか?」
「できるよ。お店に出してるお弁当のおかず、僕がほとんど作ってるから」
美味しいと評判の恵実駄菓子店のお弁当。てっきり初音が主導権を握って作っているものと思い込んでいたが、それはそうではなかったようだ。二人が初音の方に視線を向けると、初音はニコニコ微笑んで頷いていた。
「じゃあお言葉に甘えようかな」
「楽しみにしてるぞ」
あかりと香鈴からの笑顔と言葉に、和也の表情が晴れていく。
「うん。待っててね」
嬉しそうに笑って、和也は台所へと小走りで向かった。
和也の背を見送り、初音が二人に頭を下げた。
「今日のこと、どうか許してあげてください」
初音のそれに二人は慌てて声を上げる。
「そんな!顔を上げてください!」
「初音さん、俺たちはこれくらいのハプニングで和也と疎遠になったりしないですよ」
二人からの温かな言葉に、初音は心の中で涙をぬぐう。店に出るまでの長い道のり、そして友人に恵まれた現在に心底感謝するほかない。
「二人に聞いてほしいことがあります」
この人たちならば、和也の過去を話しておくべきかもしれない。
「和也に本気でコンチェルトの話を持ち掛けてくれているのであれば、和也の過去も少し知っておいてもらいたいと思います。もしも和也が練習に参加すると言い出したとき、二人に和也を託すことになります。和也が経験してきたことを考慮しつつ、声をかけてあげてもらいたいの思って…」
和也の口からは、はっきりとコンチェルトには参加しないと断言された。だが、初音は和也のコンチェルト参加の可能性を感じている。この人たちの為ならば、もしかすると和也が踏み出すかもしれない。初音はそう思っていた。
香鈴は和也の過去を少し知っている。あかりは香鈴の知っている和也の過去を知らない。そして二人の知らない過去の和也を、初音はすべて知っている。
「聞かせてください。和也君のこと」
まっすぐに初音を見つめて、あかりは彼女のそれに応えた。
「少し家族のことについても話すことになります。先ほど店に来た、和也の母親の久美との関係についても話すことになりますが」
「話してください」
香鈴からの応えも、あかりと同じものだった。初音は二人に再度頭を下げて、和也の過去を話し始めた。
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