第6話 信頼
和也とケーキを食べる約束をしたのはいいが、肝心のピアノ演奏はきっぱりと断られてしまった。曲目の変更は、もう避けられない。週末の練習会でそのことを言わなければならないと、あかりは帰宅して重い気持ちでその事実を受け止めた。
だがいつまでも下を向いている場合ではないと気持ちを切り替えて、まずは週末までの日程をこなすことに専念することにした。
翌日も朝弁当を買いにあかりが店を訪れると、和也の様子は連日と変わることなく、淡々と仕事に打ち込んでいた。
声をかけようかと一瞬悩んだが、初音が言っていたことが脳裏をよぎる。ここで話しかけるのは得策ではないと思い、あかりは弁当に群がる男の集団に立ち向かって行った。
会計の列の最後尾に並んで一息ついていると、あかりは肩をトントンと叩かれて。振り向くと、こちらと目線が合わない和也が立っていた。
「おはよう」
あかりが声をかけると、数秒遅れて和也の口が動いた。
「…お、はよう。先生」
人が多い環境が嫌いだと言っていたが、本当に苦手なようだ。声は小さいし、あたりの人の動きに注意散漫なのが見てすぐにわかる。
「大丈夫?」
周囲を見渡しながら何かから隠れるように背中を丸める和也を見ていると、心配になってきてしまう。ファーストコンタクトでは注意散漫な印象だったが、数秒彼を見ていると周囲の人に対して一人一人に警戒心と恐怖心の入り混じった視線を送っているように見える。
「う、ん。大丈夫、大丈夫…。」
自分に言い聞かせるように和也は呟き、「あ、あの」と視線を泳がせながら続ける。あまりたっぷり時間を取ってあげることはできないが、会計の待ち時間内であればと、あかりは和也を見上げて小さくうなずく。
「せんせ、曲目どうしたのかなって」
一瞬なんにことを言っているのかわからなかったが、もしかしてと思いあかりは和也に問う。
「オケの演奏曲?」
あかりのそれに、和也は何度か首を縦に折った。
「今週末に練習会があるから、その時にまた話し合いをすると思う。8月いっぱいまでにピアニストが見つからないと、曲目は変更になるんだけどね」
8月いっぱいまでに、新たなピアニストを探す。自分で口に出してみて、探し人が見つかる可能性の低さにあかりは内心息をついた。
「今月だ」
「そうね。見つかってほしいけど」
そう言ってあかりは苦く笑った。
会計の順番が回ってきて弁当を購入して、店を出る。
「土曜、待ってるね」
店内からは人が減って、和也の表情は少し落ち着きを取り戻していた。彼からの声に、あかりはにこりと微笑んで手を振り、自転車に乗って職場に向かった。
あかりを見送り、大神牛乳店でアルバイトをして昼食を摂って、和也はいつものように地下の部屋に帰ってきて。
ピアノの蓋を開けて、年季の入ったゼンマイ式のメトロノームを手に取る。一二三の遺品であるそれを見つめていると、時間があっという間に過ぎていくし、心の中の突っかかりもいつも流れていくのに。今日はメトロノームを手に取ってピアノの椅子に腰かけていても、なかなかすっきりした気持ちになれない。
あかりの見せた、苦い笑顔。彼女のそれをどうにかしたい気持ちはあるけれど、コンチェルトの話を安易に受け入れることは、和也にはできない。
いじめられた時の記憶がよみがえる。きっと音大を出ていないとなると、良い印象を持ってもらえないだろう。コンチェルトは全員で一つの音楽を作り、なおかつお客さんを満足させることができなければできない。
―僕じゃ戸高先生の足を引っ張ってしまうし、お客さんをあんなふうに感動させることはできないと思う
幼いときに一度だけ見た、一二三が指揮したオーケストラの演奏。オーケストラから巻き上がる音の嵐と、その嵐に負けないお客さんの歓声と拍手。台風のようだった。あの時聴いたコンチェルトの音色を思うと、自分のピアノの技術ではオーケストラとの共演なんて無理だと思わざるを得ない。
わかっているのに、これが答えではないと心のどこかでそれを否定する自分もいるから、和也は困っている。
やってみないとわからない、という妙な希望。やらなくても結果なんか目に見えているのにと思う、半ばあきらめのような感情。それが心の端っこで、ずっとぐるぐると渦巻いている。
どうすればいいものかとメトロノームを手に持ってみたものの、その答えはやっぱり導き出せなくて。メトロノームを手の中に抱えたまま、鍵盤を見つめる。
技術面での不安は、正直なところほとんどない。どんな曲も練習さえしっかりとすれば、弾けない曲は和也にはないのだから。ピアニストでも弾くことをためらうような世間一般で例えられる“難曲”と言われている曲も、和也はあっさりと弾きこなせてしまうし、難曲と言われるそれさえも今現在手の中にいくつか収めている。
どんな曲でも弾けるという自信は持っているが、誰かと一緒に音楽を作ることに全く自信がない。
挑戦してみようという一握りの勇気よりも、過去のトラウマが勝ってしまう。
「一二三さんが居れば。弾けたのかな」
絶対の信頼を寄せる人の存在があれば踏み出せるのかもしれない一歩だとわかっているけれど、その人が現時点で初音以外には居ない。
演奏時に初音はステージにも自分の近くにも居ない。わかっている。
せっかくピアノが弾けるくらいまで立ち直ったのに、前のような地獄はもう味わいたくない。
でも、これが納得できる答えではない。僕の中の何かが、この平穏を抜け出そうとしている。
出口のないトンネルの中を、ずっと歩いているような気分だ。どうしていいのかよくわからないと思いながらも、和也は小さくため息をついてメトロノームをピアノの上に置いて鍵盤に手を乗せた。
土曜日。あかりとの約束の時間に店に出ると、あかりは既に店に居て、子どもたちと楽しそうに話していた。
普通の人のコミュニケーション能力のすごさを、こんな時和也は痛感する。
自分はこの店に出始めて数年経つのに、子どもとうまく話した試しがない。話しかけられても何と答えれば正解なのかわからないし、もし万が一何か話してしまって相手を傷つけてしまったらと思うと、怖くて話せない。
楽しそうに談笑している姿に、うらやましいなと言う気持ちはある。でも自分もその中に入りたいとは思わない。
「あ!和也だ!」
子どもたちが自分の方を見て、嬉しそうに近寄ってくる。
「先生とデートなんでしょ?」
「いいな~!」
子どもは男と女が二人で並んで出かければ、大体デートだと思う生き物である。
「付き合ってるの?」
「結婚するの?」
デートから恋人へ、そして結婚へという飛躍的な発想も得意なわけで。結婚なんて言われても、そんな気持ちはみじんもなかったから和也は目をぱちぱちさせるばかりである。
「こらこら、和也君が困ってるでしょ?先生たちはお友達だから、結婚とかしないよ」
結婚するの?しないよ。という子どもたちとあかりのやり取りのスピードにもついていけないまま、和也は驚きを隠しきれずに子どもたちとあかりの顔に交互に視線を送ることしかできない。
今一体何が起こっているんだろうと思いつつサンダルを履いていると、今度は初音が会話に入ってきた。
「何時ごろに帰るの?」
初音に問われて、和也は自分が何時ごろ帰宅するのか全く考えていなかったことに気がついた。
「19時前には送り届けます」
あかりの答えで、どうやら夜7時くらいまでには帰宅できることを和也はそっと把握した。
「送ってもらって大丈夫?遅くなりすぎてしまったら危なくない?」
「和也君を送り届けた後、友達が送ってくれるので大丈夫です」
二人の会話を聞きながらサンダルを履き終え、二人の顔を交互に見る。
「なんだか不思議そうな顔をしてるわね、和也」
初音は嬉しそうにそう言って笑っていて、和也はフルフルっと小さく顔を横に振った。
「そろそろ時間だね。和也君、行ける?」
あかりに問われて、和也は小さなショルダーバッグを肩からかけて頷いた。
「それじゃあ、よろしくお願いします。和也、楽しんでね」
そう言って初音は、立ち上がった和也の背中をそっと押して送り出した。
あかりと二人で店を出て、和也は初音を見つめていて、あかりは初音に手を振って。二人は商店街の中に消えて行った。
基本的に和也はしゃべらない。あかりはそれを重々承知で、歩き始めてずっと今から行く喫茶店のケーキやコーヒーの話をしていた。
「メニューを見るとコーヒーの種類がたくさんあって、そのコーヒーにぴったりのおすすめのケーキを一緒に書いてくれてるの。ケーキだけも頼めると思うから、どんなケーキがいいか考えとくといいかも!ガトーショコラもメニューにあったから、今日はガトーショコラにしようかな」
生き生きと話すあかりを見ているのは、すごくいい気持ちである。
―それにしてもよくしゃべるなぁ。口乾かないのかな
和也は楽しそうに話すあかりを眺めつつ、純粋にそう思う。
「和也君はコーヒーとか飲む?」
あかりからの質問に、和也は小首をかしげて悩む。家に高齢者しかいないから、コーヒーよりも緑茶だし、ケーキよりもどら焼きを食べる機会が断然多い。
「コーヒーより…」
コーヒーはあまり飲まないけれど、これならと和也は知恵を絞った。
「コーヒーより、ココアが好き」
コーヒーとココアは多分仲間だと思う。だから和也は少し胸を張った。
「…ココア!美味しいよね!甘くて!」
あかりは少しきょとんとしていたけれど、すぐに笑顔で答えてくれた。
「美味しい。毎朝飲んでる」
「朝はパンなの?」
「ごはんだよ」
「…?ごはんにココア?」
「そう。ごはんに味噌汁とおかずと、ココア」
「緑茶じゃなくて?」
「ココアだよ。若いから」
和也の基準は正直よくわからないが、とりあえずココアが好きであることは分かった。
ただあかりには一つ、気がかりなことがある。
―ココア、喫茶店にあったかな…。カフェオレ飲めるかな…?
どうかココアがあってほしいいと切に願いつつ、あかりは和也を連れてあの喫茶店に向かった。
南教頭と以前訪れた喫茶店に入ると、バリスタのおばさんが店の奥から出てきた。
「あら、南先生の教え子の…」
彼女はあかりを見てそう言ったかと思うと、あかりの後ろを見るなりギラギラした目で彼を捕えて声を上げた。
「和也くんでしょ?大きくなってまぁ!久美さんとは和解したの?先生とはどういう関係?」
後ろの和也に彼女は釘付けになって、あかりを無視して和也の方に攻め込んでいく。和也は半歩後ろに下がったものの、逃げ出すことはなかった。
彼女と和也が知り合いだったことは、あかりは当然知らない。知り合いがいるのであれば安心だと思い後ろの和也を見上げると、今まで感情をほとんど表に出さなかった和也が彼女を睨んでいるではないか。
「もしかしてお付き合いしてるのかなぁ?あらぁ、おばさん気がつかなくてごめんね。カウンター席、空いてるから」
彼女の声を最後まで聞くことなく、和也はさっさと店の一番奥のボックス席に歩いて行ってしまった。
「すみません!」
あかりは彼女に頭を下げて、先を行く和也を小走りで追いかけていって席に着いた。
和也はカウンター席に背中を向けた席に座って、あかりは和也の向かいの席に座った。店のチョイスを完全に間違えてしまったことを、酷く後悔した。
「ごめんね」
小さな声で謝ると、和也は少し伏し目がちに首を横に振った。
「先生は悪くないよ。あの人が嫌いなだけだから」
店を変えようかとも思ったが、この店で待ち合わせをしている以上、ここから身動きを取るわけにはいかない。
どうしたものかと思っていると、店に立て続けに客が入ってきて、気がつくと席の大半が埋まっていた。
人混みを嫌う和也にとって、あまり好ましい状態ではないかもしれない。この店にこんなに客が入るとは、失礼ながら想定外である。
どうしようかと悩んでいると、店のドアが開く音がして、そちらを見ると待ち合わせをしていた人が入ってきた。
あかりは立ち上がって手を上げると、彼はこちらに歩いてきた。
「和也君、紹介するね!」
彼が席に到着した時と同時に、あかりは立ち上がったまま彼を和也に紹介した。
「
あかりの声に誘われて顔を上げると、少し強面でがっしりとした体格の男の人が立っていた。
これは怖い人かもしれないと、和也の目が泳ぐ。
「こんにちは。名前を聞かせてくれるかな?」
あかりが声を上げそうになったが、手のひらを彼女に向けて静止させて、香鈴は和也に声を掛けた。
和也は恐る恐る香鈴を見てみると、彼は和也の方に腰をかがめて同じ目線になって声をかけていた。
「名前、教えてほしいな」
彼の声は優しくて、どこかで聞いたことがあるような気がして、和也の瞳がまっすぐに香鈴を映す。
和也に話すことを強要したくなくて、あかりはあたふたしていると。
「…恵実、和也です」
和也は香鈴の目を見たまま、小さな声で自分の名前を告げた。彼がしゃべるとは思っていなかったから、あかりはただただ驚いた。
「俺のこと、覚えてる?小学校が一緒だったんだけど」
香鈴のそれを聞いて、和也の脳がどんどん活発に動き始める。
―そうだこの人は、多分僕が知ってる人だ。小学校の帰り道、泣いてるときに手を引いてくれたお兄ちゃんかな…、うちまで引っ張って行ってくれた。泉のお肉屋さんの人…。たしか…
小学校に上がって、いじめられて毎日泣かされていた。泣きながら田んぼ道にうずくまっていると、いつも助けてくれた人が一人だけいた。
「泣くなよ。連れて帰ってあげるから」と、いつもぶっきらぼうに手を引いてくれた。優しい高学年のお兄ちゃん。和也の目が、徐々に今まで見たことのない輝きを見せる。
「こうちゃん…?」
和也が小さくつぶやくと、香鈴は嬉しそうに大きくうなずいた。
「そう。こうちゃんだよ。大きくなったな、和也」
楽団で一番の強面な上にガタイも良く背も高い香鈴が、まさか子どもの頃「こうちゃん」と和也から呼ばれていたなんて。あかりは一人、ポカンとしてしまった。
「和也は今何歳になった?」
目を輝かせる和也に、香鈴も嬉しそうに問いかける。
「18歳になった。軽トラに乗れるようになった」
今まで見たことのない生き生きとした和也の表情。この子もこんな顔をするのかと、嬉しい反面やはり驚いてしまっているあかり。
「そうか。俺は22歳になった。和也と俺は何歳違う?」
「んーと…」
和也は少し考え始めた。和也の年齢を考えると簡単なはずの計算だ。しかし、あかりが思っている以上に計算には時間がかかって、和也は答えを導き出した。
「4歳だね」
「そうだ」
和也を急かさず、また急かす雰囲気すら出さず。香鈴は和也を見守り、彼の導き出した答えに頷く。
「俺と和也は4歳しか変わらないな」
香鈴からのそれに、今までほとんど表情が変化した場面を見せなかった和也が、目に見えてきょとんとした。そして。
「ほんとだね」
一体何が彼の何かを刺激したのか、定かではないけれど。
和也はこのとき初めて、ごく自然に笑った。
無表情でも幼く見えるが、笑うとさらに幼く見える。かわいいと、あかりは自然と思った。
香鈴は障がい者支援施設で保育士として勤務している。保育士とはいっても、実際の勤務内容は保育業務以外にもたくさんあると言っていた。嚥下可能な入所児の食事の見守りや入浴介助、おむつ交換や排せつ物の処理など、根気が必要な業務ばかりだといっていたが、おそらく彼はこの仕事に向いている。以前楽団の打ち上げで仕事の話になって話題を振られたとき、大変だと話していたが辞めたいとは言わなかったし、仕事は楽しいと言っていた。
そして今、あかりが苦労してようやく会話までこぎつけた和也は、先ほど再会したばかりの香鈴と驚くほどにスムーズに話をしている。
昔知り合いだったからと自分に言い聞かせてみているものの、あかりの心の中には何とも言えないすっきりしない感情が悶々と立ち込めていた。
3人がそろって少し話をして、食べ物と飲み物を頼むことにした。あかりと香鈴はコーヒーとケーキをセットで頼み、和也はパンケーキを頼んだ。飲み物は頼んでいない。ココアよりも甘さに欠けるがカフェオレもあると勧めたが、彼は「それは飲んだことないから飲まない」と、断固として自分が口にしたことないものは飲まないという姿勢を崩さなかった。
オーダーを取りに来たバリスタのおばさんが席に来た時は、今までニコニコしていたのが嘘のように彼女から視線をそらして無表情になり警戒心すらむき出しにしていたあたり、和也は本当に彼女のことが嫌いなのだろう。
「あのおばさん、苦手?」
恐る恐るあかりが問うと、彼女が遠くに立ち去るのを確認してから和也は頷いた。
「あの人は嫌い。僕の親を知ってる人だし、親と仲がいいらしい」
そういえば和也の両親を、あかりはまだ一度も見たことがない。彼の親はどんな人なのだろうかと問おうとしたら、香鈴がそれを遮った。
「そうだ和也、今度俺たちと一緒に楽団を見に行ってみないか?」
香鈴はあかりと目を合わせて、「その話は地雷だ」と目で訴えてきて。あかりは彼の目を見て小さくうなずいた。
「コンチェルトはやらないよ?」
「いいよ。無理強いするつもりはないから。ね、あかりさん」
香鈴から話を振られて、「う、うん!」と上ずった声であかりは答えて急いで笑顔を取り繕った。
「どんなものか見せたいんだ。俺はティンパニーをやってる。どんなのかわかるか?太鼓なんだけど…」
そういいながら香鈴は自分のバッグから手帳とペンを持ち出して、手帳に絵を描いて見せた。
―え、っと…
香鈴の絵は、あかりが目を疑うほどに下手だった。どう見ても半分に切ったジャガイモである。
「知ってるよ!雷の音がする太鼓だね!」
その絵を見てどの楽器かわかったようで、和也は大いにはしゃいでいる。
「そうそう!和也はピアノだけじゃなくてオケのことも詳しいのか。すごいな!」
「テレビで見たことあるよ!」
「そうかそうか!テレビはすごいな!」
「ほんとだね!」
二人の会話の流れがあまりにも独特過ぎて、あかりは全く乗って行けずただ進む会話を笑顔で聞くばかりだ。
「オケには沢山楽器があって、みんなその楽器の専門家なんだ」
「すごいね」
「だからきっと、和也も仲良くなれる人がいると思う」
「僕はダメだよ」
そう言って和也は苦笑してうつむいた。
「どうして?」
香鈴が問いかけると、和也の視線が少し泳いで。
「僕は、音大も音高も出てないから。中学校も途中で行かなくなっちゃったし」
学歴は和也にとって地雷だと、あかりは思っていた。だから触れなかったのだが、香鈴はそれを聞いても全く顔色を変えず、和也の肩にそっと手を置いた。
「何言ってんだ。俺だって音大も音高も出てないよ。俺が出たのは公立の高校だし、進んだのは保育系の短大。資格を取るために短大に行った。ティンパニーだけを専門的に勉強するための学校には行ってない。でもティンパニーを好きな気持ちはずっと変わらない。和也がピアノをずっと続けているのと一緒だよ」
そう。香鈴は音楽学校には進学していない。オケメンバーの中でも少数ではあるが、音楽を仕事にしていない人がいる。音大も出ていない。
「だから、見に行くだけでいいから一緒に行かないか?」
香鈴をじっと見つめた後、和也の視線があかりに移る。
「隣に控室があって、そこにはピアノもあるよ。無理に全員の前に出る必要はないから。一緒に行ってみない?」
あかりの顔もじっと見て、和也は一度俯いた。
「怒られない?」
和也の小さな声は、ほんの僅か恐怖の色が伺える。
「誰も怒らないし、ずっと俺が隣にいるよ。ティンパニーを叩ける人は、ほかにも居るから。絶対和也を一人にしない」
一緒に行こうという気持ちが、香鈴の声色に滲んでいる。
「…わかった。行ってみる」
俯いたまま、和也は小さくうなずいた。それを聞いて、あかりと香鈴は顔を見合わせて表情を綻ばせて、和也の肩に手を置いた。
「楽しみにしてるよ、和也」
「無理はさせないから、安心してね」
二人の声に、和也はまた小さくうなずいたのだった。
その後ケーキを食べてコーヒーを飲みながら雑談して、あっという間に時間が過ぎて行った。大人の意地と和也へのお礼を兼ねて、会計はあかりが持った。
喫茶店を出て、みんなで連絡先の交換をした。その時に楽団の説明も兼ねて店に遊びに行く約束を来週の金曜の夕方に取り付け、楽団へは翌日の土曜日に行くことを伝えて、和也を駄菓子店まで送り届けて商店街を二人で歩いた。
「和也の親御さんは、ちょっと和也を勘違いしているみたいでさ。今はここから少し離れた田んぼの真ん中に病院を開いて、ご両親と義理のお兄さん2人がそこに住んでる。和也にとって親の話は地雷なんだ。和也のお母さんには実習でお世話になったけれど、それは素晴らしい教育者だった。障がいを持っている子どもたちへのものの教え方は、ベテランだからこその技術なんだろうなと実習中何度も思った」
香鈴は、あかりの知らない和也の情報を彼女に伝えた。和也にとって家族は地雷。それを彼女にもわかってもらっておく必要があったからだ。
「障がいを持ってる子どもへの対応のプロなら、和也君への対応も問題ないんじゃないの?」
あかりの抱く疑問は、世間一般の人のそれとしては当然である。しかし世の中、そう甘いものではない。
「自分の子どもだから認めることができないってことも、少なくないんだ。自分の子どもに限って、障がいなんてあるはずない。この子はちょっと変わってるだけ。そう思いたい親御さんもたくさんいる。その気持ちもわからなくもないけれど、それは子どもを思っているんじゃなくて、親の願望であり傲慢じゃないかと、俺は思う。和也には初音さんと一二三さんっていう理解者が居た。祖父母、曾祖父母からの愛情があったから、和也は今生きていられる。親元から離れられなかったら、多分和也は二次障害に苦しんだし、命だって自分で絶っていたかもしれない」
あかりが本で読んだ内容と、香鈴が見てきた現実。そこには計り知れない溝がある。
「お、大げさだなぁ!」
香鈴が嘘をついているようには見えない。そもそも泉香鈴という男は、全く嘘をつかない。それをあかりは知っているのだが、話の内容があまりにもハードすぎて大人げないと思いつつもはぐらかすようなことを言ってしまった。
「そうかもしれない。でもそうなる可能性はあったってことは、知っておいて損はないと思う」
そう言って苦笑する香鈴の横顔は、少し物悲し気に見えた。
香鈴とは、泉精肉店の前で別れた。一人とぼとぼと駐車場に向かい、商店街を抜けて駐車場に到着して車に乗った。
今まで見せることのなかった笑顔。断固として誘いに乗らなかった和也が、香鈴の誘いには乗ったという事実が、あかりにとっては心苦しい。相手に悪気があるわけではないとわかっているつもりでいるけれど、もう少し自分のことを信じてくれてもいいのにと思う気持ちもやっぱり強くて。
「はぁ…」
ついてはいけないと思いつつも、あかりの口から深いため息がこぼれた。
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