第5話 どうしての理由

 和也とあかりは、学校でたしかに言葉を交わして約束をした。あかりはその現場をよく覚えている。ずっと話したかった和也と約束をしたのだ。思っていたよりも低い声だったし、話し方はたどたどしかったが特におかしな点はなかった。そう記憶している。

 週末の二日間をはさみ、月曜日を迎えた。今週も弁当争奪の為、早朝より恵実駄菓子店に入る。大変であることはわかっているが、和也と言葉を交わせたのは、あかりにとって大きな希望の光だった。


 ―今日も何か話せるかな


ウキウキしながら、ごった返す店の中に飛び込んだのだが。和也は店の仕事のみを淡々とこなしていて、あかりの方に見向きもしない。何か一声かけて、短くてもいいから会話がしたいと思っていたのに、和也は全くこちらに近寄ってくる気配がないまま会計の列に並んだ。

 お弁当は最後の一個を何とか手に入れたわけだが、和也の様子は初めて店で弁当を買った時と何ら変わらなっていない。あの約束は夢だったのかと疑問にさえ思えるくらいに、和也の態度は全く変化が見られなかった。

 会計をしていると、おじいちゃんから声がかかった。

「あんたさんが、今度お店に遊びに来るって言ってた先生かいね?」

おじいちゃんの口には入れ歯が不在で、言葉はお世辞にも聞き取りやすかったとは言えないけれど。

「はい!水曜日の夕方に、伺わせていただきます」

和也から何らかの話があったようで、あかりは内心ホッとした。

「はいはい、待ってるよ」

ニコニコ笑って会計をするおじいちゃんは、おそらく和也の曾祖父だろうなと、あかりも微笑みながら思った。




 結局その日、和也はあかりに一切近寄らなかったし、あかりからも無理に和也に接触することはなかった。言いようのない距離感に、あかりの心がチクリと痛む。

 金曜日に少し話をしてわずかに縮んだと思っていた心の距離が、月曜日にはほぼ初対面の状態まで戻ってしまっているようにさえ感じた。


―金曜日話したのに…。どうしてまた距離が開いてるんだろ…


何か彼の気に障ることをしてしまったのだろうかと考えながら自転車を漕いでいくが、金曜に会って以来あかりと和也は一度も顔を合わせていない。金曜日の接触が最後である。

 それを考えると金曜日にした約束がよほど嫌だったのだろうかと思ってしまうが、嫌であれば断る事だってできたはずだ。

 考えれば考えるほど、和也の考えていることがわからなくなってくる。というか、考えれば考えるほど、あかり自身何を考えようとしているのかもよくわからくなってきてしまって。考え込んでいたら、学校に到着していた。


 汗で濡れたシャツを着替えて職員室に入ると、先輩教師たちが数名既に作業に取り掛かっていた。

 職場で和也のことを考えるほど、あかりは器用ではない。

「おはようございます」

教室に入って挨拶をした瞬間からあかりの仕事のスイッチが入って、あかりの頭の中で渦を巻いていた和也に対する色々な気持ちが一気に封印されたのだった。


 翌日の火曜日も、弁当購入時に和也と言葉を交わすことはなかった。本当に和也は明日の約束を覚えているのだろうかと、あかりの不安は増すばかりである。

 そして約束の水曜日。和也から声がかかるか少しそわそわしていたが、やはり声はかからないまま会計レジに並ぶあかり。今日の約束について何か声をかけていいものなのか、全く声をかけないまま夕方お店に立ち寄るべきだろうかと悶々としていると、初音から声をかけられた。

「今日、お店に来るんですよね」

「はい!お邪魔させていただきます!」

良かった、今日ここに来ても大丈夫そうだと、あかりは胸をなでおろす。

「和也からの声掛けじゃなくてごめんなさいね。今の和也は仕事をすることで手いっぱいだから、多分先生がお店に来ていることを認識してすぐ忘れちゃってるんだと思う。悪気はないから、大目に見てあげてね」

申し訳なさそうに苦笑する初音に、あかりは「いえいえそんな!」と声を上げた。

「お声がけしてもらって安心しました。約束はしたものの、あれ以来和也君と全く話ができなていなかったので」

曾祖父に一度声をかけてもらっていたが、正直忘れられているのかもしれないと、心は落ち着かないまま今日を迎えた。

「和也は一度に二つ以上のことを、同時進行していくことが苦手でね。先生に声をかけなきゃって毎日畑に行く前に言ってたんだけど、やっぱり仕事で頭がいっぱいになっちゃうみたい。お昼ごはんの前に、先生に話しかけるの忘れてたってよく言ってる」

和也が約束を覚えていてくれたことだけでも、あかりにとっては大きな安心材料である。自然とあかりの表情が緩むと、初音もそれを見てにこりと笑った。


 当の和也はと言うと、弁当がなくなった机を移動させて店の掃除を始めたところだ。やはりあかりの方は見ないまま、手際よくほうきで店の中の砂を掃いて一か所に集めている最中だった。

「和也」

初音に呼ばれて顔を上げた和也の視線の先に、あかりも飛び込んできた。咄嗟に視線をそらしたが、やはり怯えている様子はない。

 和也は一旦掃除の手を止めて、ぺこりと小さく会釈をした。彼からの精一杯のアクションに、あかりも笑顔で会釈を返す。

 店を出てお弁当を小さな氷嚢の入った保冷バッグの中に入れていると、「イテ」と低い声が聞こえて。思わずあかりは振り返ってみると、お店の出入り口にある敷居につま先をぶつけてよろけている和也がいた。


―この子って意外とおっちょこちょいなのかな


笑ってはいけないと思いつつも、想像もしなかった和也の人間らしい姿を目の当たりにすると、無意識のうちに微笑みが生まれた。

 体勢を整えた和也は、やはりいつもと変わらない感情の読めない無表情に近い表情だった。和也の目があかりを映せば、和也の視線はスーッとあかりの顔を逸れていく。

「…あの」

数秒時間を空けて、和也から話しかけてきた。初めてのそれに、あかりの心臓は跳ね上がる。

「夕方、待ってます」

和也は小さな声で一言だけ告げて、先ほどのような小さな会釈をした。

「はい!」

あかりの嬉しそうな笑顔を一瞬だけ和也は盗み見て、ほんの僅かに戸惑ったような表情をしたのだった。



 夕方、17時。約束の時間よりも、あかりは10分早くお店に着いた。今日は記憶がすっ飛ぶくらいがむしゃらに仕事に打ち込んだ。気分は戦いに勝った戦士である。仕事を何とか終わらせて自転車に飛び乗って、今まで出したことのないスピードで学校から商店街まで自転車を走らせた記憶はある。それを物語るかのように、見事に前髪は真ん中からぱっくり割れてしまっていた。


 駄菓子店からは子どもたちの声が響く。以前先輩が言った子どものたまり場になっているという話はやはり嘘ではなかった。

 子どもたちは見たところ小学生ばかりで、店の中で駄菓子を食べながら遊んでいる。

 時間よりも早くついてしまってお店に入ろうかためらっていると、子どもたちの声が店の中から響いてきた。

「和也だー!」

「またクッキー焼いてよ!」

「朝は何時からお店に来ていいの?やっぱりお昼からじゃないとダメ?」

子どもたちの声は容赦ない音量なわけで、店の外に居るあかりの耳にもそれなりの衝撃で突き刺さってくる。しかし、和也の声は一切聞こえてこない。


 あかりは思い切って店の中に入った。

「こ、こんにちはっ!」

店に入ると、子どもたちがきょとんとっした目であかりを見る。

「誰?」

「さあ。知らない」

小声でのやり取りをしているつもりなのだろうが、子ども同士の小声は普通に会話している時のそれと大差ない。

 和也もあかりを見て、一瞬目をそらして。何か話そうとした時だった。

「あら、先生!いらっしゃい!」

初音の声が店の奥から響いてきて、和也とあかりの視線は背後の初音へと集まる。

「お茶を淹れましょうね。お店のお菓子でも眺めて待っててね」

ニコニコと嬉しそうに笑って初音は台所の方へと姿を消し、あかりの周りに子どもが集まり始める。

「先生ってどこの先生なの?」

「何しに来たの?」

この地域の子ども、特にこの商店街を遊び場の拠点にしている子どもたちは、とても人懐こい。あかりが初音の顔見知りで危険人物ではないとわかると、もう友達一歩手前の感覚で距離を一気に詰めてくるし、なんなら年齢差さえ感じさせない話しかけ方をしてくる。

「ちょっと和也君とお話ししにきたの」

自分の周りに集まって自分を見上げている数人の少年たちの輝くまっすぐな視線が、あかりの目に愛おしく映る。

「和也はしゃべんないよ」

「話してるの聞いたことない」

「でも優しいよ」

「お菓子作ってくれるし、お野菜を水に浮かせて冷たくして売ってくれる」

「美味しいよ!」

「明日先生もおいでよ!」

あかりが言葉を挟む間もなく、子どもたちの話が子どもたちの間だけでどんどん進んでいく。

「キュウリとトマトが美味しい」

「アイスより好き」

「お盆にはスイカも浮いてる」

「先生は明日何時に来る?」

子どもたちの中では、あかりの返事なんて二の次なわけで、参加するという返事を聞かずして参加メンバーに入っていた。

「嬉しいんだけど、先生は明日お仕事なんだよ」

あかりのそれに、子どもたちから残念そうな「えー!」という声が上がる。

「じゃあ土曜だ!」

「土曜にしよう!」

「土曜は休みでしょ?」

 たしかに土曜は休みで日曜日の夜の楽団の練習までは予定が入っていないが、ここに来るという発想を持っていなかったので、あかりは一瞬返事に困ってしまった。目で和也を探すと、彼はいつの間にか店の仕事に戻っていて、駄菓子の在庫確認をしている。


 そんな中、一人少女があかりに声をかけた。

「どうして先生は和也と話がしたいの?」

 どうして。彼女の純粋な質問に、あかりの心臓が鈍痛を感じる。

「ほらほら、先生困らせちゃダメでしょ?」

ジャストタイミングで初音が氷入りの麦茶を淹れたグラスをお盆に乗せて、台所から店に出てきた。

「初音ばあちゃん、先生、和也と話がしたいんだって!」

少年のそれを「そうなの?」と上手に聞き流しながら初音はあかりに手招きをして、おずおずと近寄ってきたあかりを会計台の奥に走るお店と家の境になっている廊下へと座らせた。

「和也はしゃべんないよね?」

「どうなのかねえ?」

少年の頭をなでながら、初音は優しく笑って和也に視線を向けた。和也は在庫確認をいつの間にか終わらせていて、今は毎朝弁当を置いている机が置かれているスペースにある大きな水の入ったたらいをのぞき込んでいた。


 たらいの中には、出店でよく見かけるヨーヨーと水風船が浮かんでいる。

「昼一番にあれにたくさん氷を入れて、形が整わなかった野菜を冷やして販売してるの。販売って言ってもキュウリ1本10円とか、駄菓子みないな値段をつけてるんだけどね。アイスクリームみたいに食べた後に喉が渇かないし虫歯にもなりにくいから、遊びに来た子たちが良く買って食べてるのよ。野菜がなくなったらヨーヨーと水風船を浮かせて、涼しい雰囲気を楽しんでるわ」

大きいはずの和也の背中を、まるで小さな子どもを見つめるような優しいまなざしで見つめる初音。和也を見つめる目じりは、年相応のしわが寄っていて垂れさがっていた。

「もう少し待ってあげてね。和也はキラキラしてるものを見始めると、声をかけても気がつかないから」

初音のそれは、本当に和也のことを熟知しているからこそ出る言葉。それを感じて、あかりはそっと頷いた。


 10分ほど経つが、和也は全く動く気配がない。ずっと太陽に照らされて輝く水を見つめている。

「そうだ、先生」

初音から声をかけられて、あかりは自分がぼんやりしていたことに気がついた。

「大神さんからね。お電話をもらってたのよ。ピアノを弾く人を探してるんでしょ?」

そうなのだ。そうだった!和也にコンチェルトの話をしに来たのだ!店に流れる穏やかな雰囲気に知らず知らずのうちに身をゆだねてしまっていて、初音から話を振ってもらえなければきれいさっぱり忘れたまま今日のチャンスを棒に振るところだった。

「そ、そうです!いえ、その前に。和也君が先日私の職員証をもってきてくれたお礼がしたくて…」

お礼も言いたいし、楽団との共演の誘いもしたい。なにより和也と少しでいいから話がしたいと思っていた。

「そうだったの…。わざわざありがとうね、先生。お忙しいのに。もう少し待ってあげてね、もうすぐ和也なりに一区切りつけてくると思うから。それまで楽団のお話を聞いてもいい?」

初音の優しさが、あかりの中にある邪心のような濁った部分にぐさりと刺さる。

「はい!」

申し訳ないと思う気持ちをグッと抑えこんで、あかりは笑顔を取り繕い、にこりと笑顔を向けることしかできなかった。


 自分が所属している市民オーケストラについての説明を軽く行って、今回演奏予定の曲目を伝えた。しかし、初音は音楽に詳しくないようで、興味深げに相槌を打つものの具体的な話には全く発展していく様子がない。

「ごめんなさいね、曲名を言われても私はなかなかピンと来なくて…。どんな曲か聴くことができればいいんだけれど」

初音の意見はもっともだ。曲を聴いて話が前に進むのであれば、お安い御用である。

「ちょっと待ってくださいね」

あかりは携帯を取り出して、動画サイトで検索をかける。誰もが聴いたことあるほど有名な曲ではないものの、リストのピアノ協奏曲第2番は聴き応えのあるダイナミックな曲だから、検索をすればすぐにたくさんの動画が画面に並んだ。

 あかりは携帯の音量を初音と自分が聴こえる程度に調節して、お気に入りの楽団が演奏しているリストのピアノ協奏曲第2番を流し始めた。


 柔らかな木管楽器の音色に、あかりは内心うっとりとする。この曲のこの滑り出しが、あかりは最高に好きだ。


―楽器の音がする


和也の耳はあかりの携帯から流れるそれをすぐにキャッチして、輝く水面から戸惑いなく顔を上げた。


―知ってる曲だ


スッと立ち上がり、二人が座っている方へ歩き出す。

「和也?」

「どこ行くの?」

子どもたちの声は、今和也の耳に届いていない。音楽、演奏、オーケストラ。和也の大切にしてきた、和也だけの世界のそれ。あかりの手の中から聴こえる音に、和也は吸い寄せられていって。

「和也君…?」

和也はあかりの目の前に立って、携帯の画面をまっすぐに見つめていた。

「いい曲だね」

和也から自発的に声を発したのを、あかりも子どもたちも初めて聞いた。駄菓子店の空気が一気に静まり返る。

「…この曲のピアノが弾ける人を探しているの」

呆然となりながらも、あかりは和也に声をかける。


「へえ。僕、弾けるよ」


「…え?」


和也は今、何を言ったのだろうか。理解が追い付かない。

「弾けるよ」

驚いてこちらを見上げるあかりの目を見て、和也ははっきりと言った。

「今すぐに…?」

あかりからの問いかけに、和也はあっさりとうなずいた。

「いい曲だから。弾ける」

和也の視線はぶれない。まっすぐにあかりの目を見て、無表情のままに断言して。彼の視線は手元の携帯に落ちた。


 和也がしゃべった。長い間ここに通っている子どもたちにとっても、それは初めての経験。声が出ないまま、隣に居る友達と視線だけを合わせる。そこに大神がのんきに顔を出した。「こんにちは!」と大きな声を出しそうだったから、子どもたちはすぐに大神のもとに駆け寄って口の前に人差し指を立ててしゃべるなと伝える。

 空気がおかしいのは、大神だって店に入った時から感じていた。店にはあかりが来ていて、小さな音で音楽が鳴っている。今ここに来た大神には、この状態のすべてが把握できるわけではないから。子どもたちに小声で何があったのか聞いてみると。

「和也がじゃべった」

信じられないという顔のまま、子どもたちは小さな声でつい今しがた起こった出来事を彼に伝える。

「和也がしゃべった…?」

子どもは基本的に嘘をつかないが、こればかりは安易に信じられない。一二三の死後数年が経っているが、大神自身一二三の葬儀以来和也の声を聞いていないのだから。

「しゃべった」

呆然とする子どもたちの表情を見る限り、嘘ではないことは伝わってくるが、やはりどこか信じられない気持ちが勝っていた。

 

 和也の言葉に、あかりは一気に光を見出した。

「うちの楽団と弾いてみない?オーケストラとの共演は今までにない感動を体験できるし、きっと和也君にとっても貴重な体験になるんじゃないかな?オケとの共演経験はある?もしよければ週末うちの楽団の練習会に出てみて、まずは雰囲気を感じてみるのもいいと思うよ!」

上ずるあかりの声を、和也は携帯の画面を見たまま聞き流しているように初音は感じた。初音が和也に声をかけようとしたとき、和也の視線が上がってあかりを映す。

「嫌だ。弾かない」

まっすぐにあかりの目を見て、和也ははっきりとあかりの誘いを拒否した。

「どうして…!」

誘いを一脚されてしまったとしても、あっさり退くわけにはいかない。あかりは願うような気持で和也に食い下がる。

「どうしても。弾かない。人が多い場所は嫌いだから」

「でもね、和也君」

あかりの声を遮るような、和也からの圧。弾かないといったら弾かない。その姿勢が1mmもゆるぎないことが伝わってきて、あかりの声が詰まる。

「“でも”とかないんだよ。弾かない。どうして先生は、僕に弾けって言うの?」

和也からの“どうして”に、あかりはすぐに答えられない。自分の楽団の事情ですぐに弾ける人がほしいというのが、素直な気持ちなのだ。しかしそれは、あまりにも自分勝手な事情であることはあかり自身もわかっている。だから、あかりは和也の“どうして”に答えることができなかった。

「とりあえず、一回部屋に帰りたいんだけど」

無情にさえ思える和也の回答に、あかりはうつむく。ここで諦める気はないが、どう切り返していいのかわからない。体育館で聴いた水の戯れの音は、本物だった。だからこそ、和也の音色が小さな世界にだけとどまっている状態が、あかりにとってはもったいないと思えて仕方がない。


 そうこうしていると和也はさっさと店の奥にある台所の方に引っ込んでいってしまって、結局あかりは和也に話しかけられないままだった。

 駄菓子店の空気が重い。子どもたちもなんと声を上げるか悩んでいれば、帰宅の時間になって無言のまま店を出ていく。



 店に初音と大神と、あかりだけが残った。重い空気は一切変わらず、時間ばかりが過ぎていく。

「ごめんなさいね。先生」

沈黙を破ったのは、初音だった。

「和也は学生時代、ずっといじめられててね。ピアノが弾けることさえも、いじめの理由になってしまっていて。他にもいろいろ事情が重なってしまって、今は自分が信頼を置く人が最低1人居るか無人状態の空間でないと、外でピアノは一切弾かなくなってしまったの」

和也の過去は重い。だから大神は和也との距離を適度に保てと忠告していたし、彼の過去を知っているであろう南教頭も和也とむやみに距離を縮めようとはしていなかった。障がいだけに気を付ければいい、対応さえ間違えなければ大丈夫。そう思っていたのは間違いだったと、あかりは今更ながら後悔した。

「いえ、私の方こそ申し訳ありません。彼の気持ちや過去に対する配慮を欠いた行動を取ってしまいました」

落ち込むあかりに初音はかける言葉が見つからず、彼女の肩をそっと抱いた。


 太陽の傾き加減が夕方から夜に差し掛かってきて、大神が店を出るタイミングであかりも彼と一緒に店を出てすぐ。

「先生」

店の奥から和也が出てきた。

「待って、先生」

彼はつまずきながらサンダルを履いて急いで店に出てきて、立ち止まったあかりの方へと走ってきた。

「和也君…。さっきはごめんなさい。いきなり楽団と演奏してほしいだなんて言ってしまって…。和也君の事情も知らずに」

先ほど輝いていたあかりの目は、今和也を映していない。

「そうじゃないんだよ。僕は先生に怒って部屋に帰ったわけじゃないんだ」

あの時の和也は、無表情だった。だから、あかりの目には、彼が怒っているように映っていた。

「人が多かったから。部屋に帰ったんだ。子どもたちも多くて、大神さんもいて、お店に人がたくさんいて。その上先生は僕にピアノを弾いてくれって言って。わけがわからなくなったから、部屋に帰った。先生の言ったことに腹を立てたんじゃないんだよ」

そう言っている和也の方を恐る恐る見あげてみると、やはり和也は殆ど無表情に近かったけれど。

「ごめんね先生。でもコンチェルトはできないよ。怖くてどうしてもできない」

今は前よりも、ほんの僅かに困っているような表情に見えた。

「初音さんがね、さっき急いで部屋まで迎えに来て話してくれた。先生は僕が怒って帰っちゃったんだと思って悲しそうにしてたって、教えてくれた。僕は先生に怒ったんじゃなくて、どうしてって言われて混乱した。どうしてって言われても、無理としか言えない。でも無理だけじゃ、あの時の先生は許してくれないと思った」

 何かが吹っ切れたかのように、和也はあかりにごく当たり前のように話している。和也が他人と当たり前のように会話をしている、誰かに話しかけていることに、大神はただただ目を丸くするばかりだった。

「和也君、わざわざありがとうね。私は市民オケの指揮者をしていて、今度の秋に予定している曲でピアノを弾く予定だったピアニストに逃げられちゃって。急いでピアニストを探さなきゃならなくて、いろんな人に聞き込みをして貴方にたどり着いたの。最初は貴方に何としても今すぐにでも弾いてほしいって、自分や楽団の都合を押し付けようとしてたけれど。和也君から“どうして”って言われたとき、私は自分勝手なことをしていたんだって気がついて声が出なかった」

和也を見上げて話すあかりの目は、ほんの少しうるんでるように和也には見えた。

「先生の事情は分かったよ。別の僕は怒ってないから。また遊びに来てね」

和也の声から、あかりに対する怯えがかなり少なっているのがわかる。

「じゃあ早速になっちゃうけれど…。ケーキを食べに行かない?この前のお礼がしたいと思ってて。その時に貴方に紹介したいお友達がいるの。来週の水曜日の17時に迎えに行くから」

「平日の17時は人が多いな…。今週の土曜の19時くらいじゃダメかな?」

「土曜、大丈夫だよ!」

「ありがとう、先生。土曜なら17時くらいには店に出てるよ。お友達って何人?」

「男の子が1人だけ。楽団の人で商店街に実家があるって言ってたかな」

「僕はしゃべらないかもしれないけど、それでもいいなら」

「うん!とってもいい人だから、きっと仲良くなれるよ。無理に話したりしなくても、和也君のことをわかってくれると思う」

どうして?と問おうと思ったが、こちらを見上げてにっこりと微笑みあかりの嬉しそうな表情を見ると、深く追求しようとは思えなくなってしまって。

「わかった」

あかりから視線を外して、和也は頷いた。

「じゃあ今週の土曜日、17時くらいにお店に行くね!商店街の中のお店だから、一緒に歩いていこう」

「うん」

あかりと再度会う約束をして、大神とあかりに「またね」と一言告げて和也は駄菓子店へと入って行った。




「間に合った?」

店に入ってきた和也に、初音が声をかけた。

「うん」

和也は頷き、店と住居スペースを区切る廊下に座った。

「先生、和也が怒ってたと思ってたでしょ?」

「多分。よくわからない。でも謝られた」

「そう。それで?」

それで…、何から話せばいいだろうか。色々話して自分の中では整理がついているが、説明をすることが和也には難しくて。

「今週の土曜、ケーキ食べに行く約束をした」

いきなり話の終着点を言ってしまった。


 どんな流れなでそうなったのか初音には皆目見当がつかないが、それでも話が丸く収まってくれてしかもケーキまで食べに行く約束までして帰ってきたのであれば安心である。

「良かったね、和也」

和也が外とのつながりを絶って数年。ようやく誰かと外出するための一歩が踏み出せたことが、何よりも嬉しい。自然と笑顔がこぼれる。

「うん」

初音がどうしてこんなに嬉しそうなのか、和也にはよくわからなかった。でも悲しんでいる顔を見るよりも、嬉しそうな顔を見る方が和也だって嬉しいわけで。

 お店のカレンダーにあかりとの約束を書き込む和也の表情は、いつもよりもわずかに朗らかだった。



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