第36話 お姉さまとお呼び。
弟の
でも、わたしが小学生になってから、「お姉さまとお呼び」と教育したの。
あの頃は、舌がよく回らず、「おねちゃま」で妥協することになったけど。
これが、常連客には、大好評だった。小さな貴公子みたいで、可愛いって。
わたしの方は、「あれが、お姉ちゃまって
それにしても、慣れというのは恐ろしい。これが、すっかり定着してしまった。
まぁ、類の方は、さすがに小三くらいになると、気恥ずかしくなったようね。
普段は、「マリ姉」に呼びになったけど、「お姉さま」と言うときもあるのよ。
こいつが、可愛く思えてくるから腹がたつ。何てあざといやつなんだって。
「テリー、お座り」
わたしが命じると、賢いテリーは、両脚を折り曲げて下半身を地面に降ろした。前脚の方が短いから、『座る』というより、『腕立て伏せ』っぽい体勢だけど。
「よし。伏せ」
関節の向きが違うので、犬みたいに、前脚を伸ばすというわけにはいかない。器用に折りたたんで、腹ばいになる。
斥候竜と呼ばれるだけあって、大きな身体のくせに、敏捷な動きをするし、あまり音もたてないんだよね。関節も柔らかいのか、首や尻尾を縮めて丸くなったり、一動作で跳ね起きたりすることもできる。
「よし。立て」
テリーは、すっくと、四つ脚で立ち上がる。
かなり土ぼこりがひどいけど、これはしょうがない。
気配を殺せば、スピードが落ちる。
「立て」の命令は、素早さが要求されてると、きっちり理解しての動きだ。
「よし。チンチン」
斥候竜は、カンガルーと同じで、後脚二本で走れる。
実際は、跳躍するんだけど、それがものすごく速いの。
目の前で、その脚力を発揮されてぶつかったら、はね飛ばされて内臓破裂か全身打撲。
だから、ここで命じたのは、後脚二本で立てという意味。
犬の「チンチン」とは違って、バランス良く、ぴしっと静止ができる。
「よし。休め」
テリーは、四つ脚に戻ってから、ごろりと横たわった。
本当に眠るときは、腹ばいになるんだけど、リラックスしてるときには、この体勢になる。怪我の手当をするときや、ブラッシングするときにも有効なの。
わたしは、テリーに近づいて、首元を撫で撫でしてあげた。なるべく力を入れて。こうすると気持ちが良いらしいんだけど、「休め」の体勢のときしか、わたしには手が届かないんだよね。今は、『よくできました』のご褒美も込めている。
「よし。待て」
立ち上がりながら命じると、わたしが十分離れたのを確認してから、テリーは、身を起こした。
今度は、「伏せ」の体勢に近いけど、首は上げて、周りを観察しつつ、いつでも動ける待機状態だ。
「今のが、基本的な動作になります、カモミール。どうですか?」
わたしが話しかけた相手は、チャイルドシートを制作するために呼んだ技術者。
最初のうちは、竜気も態度も、ゴチゴチに硬くて、気の毒なことをしちゃったかなと後悔しかけたほどだったけど、専門的な話になったら、ノリノリになってきて、テリーを見せた今は、ウキウキのワクワク。
竜眼族にしては、背が低くて、肌のキメが荒くて、薄っすらと毛も生えてる。しかも、六本指なの。
匠族というのは、平民よりは、一ランク上だけど、異種族の血が相当入っているらしい。でも、その分、器用で、美的センスに優れた人が多く、技術者や芸術家を
まさに今、わたしが必要としている能力じゃないの。
当たりよ、今度は。ほんと、妥協しなくて良かったわ。
最初に来た
わたしは、既製品の説明を聞きたいわけじゃない。実際に試作品を作る現場の技術者だけ来させろ。自分でデザイン画が描けて、材料にも詳しい鞍の専門家を。さもなきゃ、他をあたると言って、追い返した。
これは、三度目の正直。
「なんて素晴らしい動きなのでしょう。本当に、感激です。このように近くで、斥候竜を拝見できるなんて。その上、
どうやら、カモミールは、マニアックな竜好きで、絶滅危惧種の斥候竜を見られるというだけで、釣られて来たらしい。
貴族や豪族には、わたしが課した条件に適う人は見つけられなくて、匠族の技術者に片っ端から声をかけて行ったけど、他の人たちは、みんな二の足を踏んだみたいね。王族に依頼を受けるのは歓迎だけど、直接、王族と対面して、打合せしなきゃならないのは怖いっていうわけで。
「もう一度、動きを見ますか?」
「
「えぇ。それでは、テリーに、もっとゆっくり動くように命じますね」
「まぁ! そのようなことまで、おできになるのですか」
「もちろん。テリーは、とても賢い竜なんですもの」
これは、飼い馬鹿ではないのだよ。テリーが、この一連の動きを習得するまで、半日もかからなかったんだからね。
犬に芸を仕込むのとは訳が違う。テリーは、条件反射的に動いているわけじゃないの。竜気から、主人の意図を理解して、適切な行動を取ることができるのよ。
すごいでしょ。もっと褒めてくれてもいいのよ。
ペット自慢で気を良くしたわたしは、カモミールとばっちり意気投合して、無事に、テリーの採寸まで終わらせた。
胴回りや脚の長さから、尻尾の太さまで細かく記録したカモミールは、次回までに、最初の試作品を作ってくると約束して、やる気満々で帰って行った。
この分なら、合格を出すまで、途中で諦めず、トライしてくれそう。手間賃は弾むから、どうか頑張って欲しい。
貴重な人材をゲットできて、わたしは、ほっとした。竜気差も、身分差も、ついでに年齢差まであるのに、話が普通にできる相手もいるんだね。
カモミールって、ちょっとお祖母ちゃんに似てる気がする。
幼い孫にも、保護者目線でなく、対等に接してくれる友達感覚とか、好きなものに対して、脇目もふらない情熱的な性格とか、「ケ・セラ・セラ」と世渡りして行けるプラス思考とか。
はぁ。この楽天的な竜気を少しでも分けてやりたいな、ロムナンにも。
あれは、警戒心が強いっていうより、恐怖に囚われているんだと思う。悪夢を見たまま、抜け出せなくなった感じかな。
ホラー映画を見てると、何てことのないはずの日常風景でも、不気味で恐ろしく感じるでしょ。「やだやだ、絶対に何かいるよ。殺されちゃう。早く逃げなくっちゃ」っていう、あの息づまる緊迫感。
ロムナンから放たれている竜気は、あれに近い。
他に移動されそうになって、家出したとか、眠り薬を飲まされたくなくて、差し入れを拒んでいるとか。ソラに聞いた話から、8歳児にしては知恵が回るのだとばかり思い込んでいたんだけど、どうも違うみたいなんだよね。
そんな判断力はなくて、本能に流されてるだけの気がする。
ただ怖い。とにかく怖い。だから、逃げる。必死で隠れる。その繰り返し。
弟認定はしたものの、接近遭遇した日から、今日で8日、たいして進展しているとは言えないのよね。最初の3日間は、姿すら見かけなかったくらいで。
もともとテリーのところへ、どのくらいの
もう、どこかで、
いい加減、焦りを感じていた4か目に現れたロムナンを見て、わたしは、ほっとするより先に、かっときた。姉としては、この反応は当然でしょ。
<この馬鹿、さんざん心配させやがって。一体どこにいたのよ?!>
でも、ロムナンに、姉の情は通じなかった。
叱られ慣れてる
こっちが、一方的に、弟認定しただけなんだから。いきなり、怒られたとしか思えないよね。追い払われたと勘違いされても仕方なかったな。
ロムナンは、身を
ここで、逃がしたら、二度と、ここには来ないかも知れない。少なくとも、わたしには近づこうとしなくなっちゃう。
パニクったわたしは、ロムナンに、バンバン竜気を投げつけちゃった。
<ごめん。悪かった、いきなり怒ったりして。逃げないで。話を聞いて。あぁ、もう! そんなに怯えないでよ。わたしは、怖い人じゃないの。心配してただけなんだってば。顔見て、安心したら、腹がたっちゃって……いやいや、怒ってないわ。ほんとにほんとよ。嘘ついてないのは、わかるよね? わかってよ、お願いだから。ねぇねぇ、優しくて、頼りになるお姉さん、欲しくない? 甘いのも、美味しいのも、食べ放題になるよ。お腹すいてるんでしょ? ほらほら、これ、みんな、あげるから。おいで、おいで。こっちに、戻っておいで>
我ながら、混乱の極みで、『謝罪』と『懇願』と『弁解』と『提案』のミックス感情波の垂れ流し。竜気の制御も説得もあったもんじゃなかった。
ロムナンを余計に怯えさせただけ。
あぁ、ほんとに、わたしって馬鹿。馬鹿なのは、わたしの方。
だから、そのままだったら、逃げられておしまいだったと思う。
でも、わたしはひとりじゃなかった。近くに、テリーがいた。賢くて、心優しいテリーの竜気が、流れ込んでくると、パニックが収まってきた。
<だいじょうぶ。こわくない。こわくない>
おまじないのように繰り返す穏やかな竜気になだめられて、わたしは、落ち着くことができた。
ロムナンも足を止めた。まだ、びくびくしてはいるけど、振り返って、こっちを見てくれた。
あぁ、あんたってば、なんて、頼りになるの、テリー。
わたし、祖父運にも、弟運にも恵まれなかったけど、竜運は、めちゃくちゃ良かったんだわ。ソラに引き続いて、こんなに賢くて頼りになる竜と気綱を結べたなんて。まさしく感動ものよ!
<ありがとう、テリー。助けてくれて>
<テリー、しもべ。マリカ、助ける>
『
<ロムナン、わたしは、友達。わかる?>
わたしは、ゆっくりと竜気を送り込んだ。できるだけ、単純に、わかりやすく。
<ともだち、いない。ロムナン、竜だけ>
<竜は、友達よね? テリーも、友達でしょ?>
<テリー、やさしい>
<うんうん、優しいでしょ。わたしは、テリーの友達。ロムナンも、テリーの友達。だから、ロムナンとわたしも友達なの。わかる?>
<ともだち、竜だけ>
うーん、これは、人間は信じられないってこと?
それとも、『友達』って思念が、竜にしか適用されてないってこと?
<それじゃ、姉でいいわ。わたしは、あなたのお姉さまよ、ロムナン>
<おねえさま、なに?>
<甘いものをくれる人。食べるものを持ってくる人。お腹がすいたら、会いに行く人。ロムナンを守ってくれる人よ。どこか痛かったら、話して。困ったことがあっても、話して。お姉さまは、頼りにしていいの。これなら、わかる?>
<ロムナン、かえらない>
<あぁ。竜たちと一緒にいたいのね。いいわよ、それで。ロムナンは、好きなところにいる。ただ、毎日、テリー会いに来る。ここには、食べものがあるから>
<たべもの。あまいもの……?>
<甘いものもあるわよ。ほら、ここに。これは、ロムナンのもの。取りに来て。好きなときに。いつでも、帰っていいから。新しいのは、毎日、お昼過ぎに、持ってくるわ。わかる? お昼。お日様が、真上に来る頃よ>
わたしが、太陽を指さすと、ロムナンも見上げた。
<おひる……>
<そう、あれは、お日様。お日様が、上にあるころ。それが、お昼。いいわね?>
ロムナンから、返事は返って来なかった。理解しきれないのか、それとも、やっぱり、信用できないのかな。
わたしは、用意してあった籠の蓋を開けて、中から、容器を取り出しながら、つまみ食いをして見せた。マフィンみたいな焼き菓子で、やたらと甘い。
残りを容器ごと地面に置き、次の容器を取り出す。
今度のは、肉たっぷりのシチュー。フォークスプーンで一口だけ食べて、それも、マフィンの隣に置く。
最後のは、ハンバーガー。四角いけど、ひき肉料理。四つあったので、一つだけ取って、残りは、下に置く。
ロムナンは、こちらをじっと見ているだけ。飢えてるのは、間違いないのに、近づいては来ない。毒見をしてみせたけど、それでも、駄目なのかな。
<…………>
<食べて。わたしは、帰るから>
仕方なく、わたしは、踵を返した。テリーに挨拶をしてから、帰ろう。これで、食べてくれなかったら、どうしようもない。やれるだけはやったと思う。
<それ、ほしい>
そう言ったのは、残念ながら、ロムナンではなかった。テリーだ。
斥候竜は、雑食性らしくて、何でも食べる。犬猫と違って、食べさせない方がいいものは、特にないから楽ね。欲しがるものは、何でもあげることにしているの。ただし、訓練つきで。
<テリー、お座り>
テリーが座ると、その鼻先の地面に、ハンバーガーを置く。お皿に乗せるようなことはしない。一度、それをやって、お皿ごと食べられちゃって、焦ったのよね。
<よし。お預け>
てのひらをテリーに向けると、テリーは、微動だにせず、こちらを見る。
<よし。お食べ>
口の大きさからすると、一口にもならない小さなハンバーガーをぱくりと食べたテリーから、満足そうな竜気が返って来た。
<おいしい>
<そう、良かったわね。今度は、もっと大きなのを作ってもらってくるから。また、明日ね、テリー>
<あした、やくそく>
<うん。やくそく。あんたもよ、ロムナン。また、明日ね。あぁ、もし、それ食べないなら、テリーにあげて。気に入ったみたいだから>
それから、わたしは、後ろを振り返らず、帰ったけど、監視役は、ちゃんと残してあった。かなり離れた木の上で、午後の間、ずっと待機していてくれたのだよ。
<ソラ、どう? 食べてる?>
<シチューだけね。マフィンとハンバーガーは、持って帰ったわ>
<よし。餌付け、成功だ。やったね!>
やっとのことで、食べてもらうことはできたものの、それから5日、わたしがいる間、ロムナンは、近づいて来ようとしませんでした。
一応、毎日、取りに来てはいるようなので、飢え死の心配だけはなくなりましたが、餌付けの先の『弟』とするための道のりは、まだまだ長いと感じさせられる今日この頃でございます。
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