色とりどりの水の底に

@kuriki_sasa

色とりどりの水の底に

 手足を薄く、透き通るほど薄く引き伸ばされたかのような、曖昧な感覚だけが残っている。ぼんやりする頭。それでも僅かに感じる、凍えるような寒さがかろうじて体の輪郭を自覚させる。目を覚ますと、そこはほんの目の前も見えないほどの暗闇に支配されていた。

 痛み、息苦しさ、恐怖、驚愕。意識が戻った途端、もう遠慮は不要とばかりに脳が処理を再開する。突如流れ込んできた膨大な情報に男は半ばパニックになりかけるが、それでもわずかな冷静さを必死でかき集めて今の状況を考える。何が起こった。俺は今どこにいる。全身の痛み、自分の意思とは関係なく錐揉み落下する肉体、そして男の全身を満遍なく取り囲む冷たい液体。男は自分が凍えるような水の中に落ちたことに気づいた。

 上下左右どこを向いているのかすら認識できないまま、落ちて、落ちて、やがて底へと辿りつく。コンクリートの硬い感触。水は重い。体は思うように動かない。そんな状況は、男にあるイメージを思い浮かべさせた。浜辺に打ち上げられた深海魚。海にも戻れず、ただじりじりと乾き死ぬのを待つことしかできない。想像の魚と目が合う。濁った瞳に写る自分の姿が妙に鮮明に見える。

 どうしてこうなった。何が悪かった。男は思い出す。


 ※


 さらさらな紙の上を磨り減ったイリジウムポイントが滑っていく。

 軸内のタンクからペン先へ、そしてわずかな隙間を通って紙の上へ、吸い込まれるようにインクが流れていく。正確な動きで何本もの線が走り、そしてその後には文字があった。男は続けて数文字を紙に乗せると、そこでくるりと句点を書く。

 万年筆を机に置き、溜め込んだ何かを息と共に吐き出す。そしてまだ湯気の立つコーヒーを一口、静かに飲み込んだ。全身を大きく伸ばす。熱い液体は喉を下り、寒さを幾許かかき消してくれる。しかしコンクリートが剥き出しの地下室は冷え切っていて、その熱も白い吐息になってすぐに霧散した。かじかむ手を擦りながら男はふと窓を見上げる。部屋の上部に備えつけられた、お飾りのような小さな窓だ。この部屋と外部との数少ない接点。そこからは灰色の空と水滴が見えた。雨か。そりゃ寒いわけだ。

 傍らを見る。そこには年季の入ったエアコンが置かれている。がたがたごうごうと大きな音を立てるばかりでまるで役に立たない、がらくただ。気休めのようなものだ。あまりに過酷な環境。だが男はそんな仕事場が好きだった。こんな環境だからこそ書ける小説がある、と男は思っている。そしてそれが自分の書くべきものであるとも。

 男は小説家だった。

 昔、趣味で書いた小説がそこそこ大きな賞に入り、それがほどほどに売れてしまった。それが始まり。男は専業作家になる。しかしそこからはもう無惨なものだ。書いても書いても鳴かず飛ばず。世間からも忘れさられ、今や数年に一度、売れない小説を発表するだけの作家だ。ついには出版社からの発表すら断わられた。そりゃあこの出版不況に万年筆と原稿用紙で書くような手間のかかる作家、ましてや売れない作家など。

 男には家族は居ない。小説のみを書いて生きてきた。残ったのは親から受け継いだこの家といくらかの蓄え、そして小さな自尊心。それだけだ。それでも男は小説を書いている。いや書かなければいられないのだ。男にはこれしかない。他には何のスキルもない。アナログで原稿を書かねばならないほどの機械音痴、対人コミュニケーション能力だって壊滅的だ。だから男は小説を書く。ただそれしかできないから小説を書く。売れる売れないではない。もはや創作の熱も冷めた男にはそれしか残されていないから。

 それが男のすべてだった。

 それが男の日常だった。

 男は小説を変化の話だと考えている。

 環境。人間関係。価値観。その他何でもいい。エンディングまでに何かが変わらなければいけない。男はそう信じているし、そういう物語を書いてきた。だが自分の日常が変わることがあるとは露程も思っていない。だから男は気づかない。

 異変は静かに表われる。

 まず男の足を水が濡らした。冷たい。男は思う。どうして水が? エアコンの故障だろうか。だが隣のおんぼろはいつもと変わらずにぬるい空気を吐き出しつづけている。違う。なら一体どこから。カーペットの染みの色を辿る。その先には扉がある。分厚い樫の一枚板。立派な扉だ。水はそこから流れてきていた。結露だろうか。いや、そんなはずはない。男は扉に触れる。濡れていない。よく見れば下の隙間からちろちろと水が漏れている。これか。

 何が起きているのかを確かめようと、男はノブを捻る。ひんやりとした真鍮の滑らかな手触り。だがいつもと違う。ノブがひどく重い。びくともしない。二度、三度、捻ってみるが回る気配がない。故障か? 困った。この部屋の出入口はこの扉しかない。ここが開かないとどこに行くこともできない。トイレも食料もこの仕事場にはない。電話だって外だ。……これは、思っているよりもまずい状況じゃないか? 

 男はじりじりと焦りはじめる。

 どうにかしないと。どうすれば。対策を考えている間にも水はどんどんと湧き出てくる。もはや床の上に濡れていないところはない。水はすでに足の甲の高さまで来ている。その流量は徐々に増えているように思えた。ひどく冷たい水。このままだとどうなる。男の脳裏を嫌な想像が駆け巡る。ハーバリウムのように静止した世界、人の形をした何かが浮いている。低体温で紫色になった唇。ぶよぶよと水を吸って柔らかくなった皮膚。虚ろな瞳。その表情は恐怖に凍りついていて……。あまりに鮮明なイメージ。呼吸が荒くなる。頭を振って必死でそれを振り払う。はは。そんなことがあってたまるか。ここは日本で現代で、元号だって変わったばっかりなんだぞ。そんなことは起きない。起きるはずがない。だけど、もしかして、ひょっとすると……。ふつふつと体中から脂汗が吹き出す。

 救助を待つか、それとも自分で脱出するか。考えろ。誰かこの家を訪ねる奴がいるか。いや、誰もいない。近所の人が気づくか。つき合いもないのに一体誰が気にかけてくれる。駄目だ。待っていても何も変わらない。動かなければ状況は変わらない。男は掌の汗をジーンズで念入りに拭うと、両手でしっかりとノブを握る。肩幅に足を開き、どっしりと構える。今度こそ。止まる息。漏れる声。歯を食い縛る。力を込める。

 おかしな音がした。そしてするりと嘘のようにノブが回る。あまりにすんなりと動いたせいで、男はバランスを崩して尻餅をついてしまう。その手には鈍く光るノブだけが握られていて、どうしようもない現実が男を襲う。

 おいおい。ノブのあった場所にはぽっかりと暗い穴が開いていて、そこからも水が吹き出してくる。おいおいおいおい。嘘だろ。想像が現実を侵食する。ふざけるな。そんなことが、そんなことが、ああ。動悸が激しくなる。呼吸が浅くなる。資料の束を撒き散らす。怒りに任せて扉を殴りつける。蹴りつける。扉はびくともしない。ああああああああああああああ。

 扉に椅子を叩きつける。中古のエルゴヒューマン四万二千八百円。立派な樫の木は何事もなかったかのようにそれを弾き返す。後には微かな傷と小さな凹みだけが残る。びくともしない。男は再度ヘッドレストをしっかりと掴むと、思い切り振りかぶった。鋳物の足が扉に勢いよく衝突し、また表面に傷だけを残す。息が上がる。腕が震える。筋肉が捩じ切れそうだ。

 どうしてだ。どうしてこうなった。頭の中が疑問符で溢れかえる。何が悪かった。俺の態度か。惰性で作家なんてやっていたからか。くそ。くそくそくそ。何度も何度も、気が狂ったかのように椅子を扉に叩きつける。未来への恐怖と理不尽への怒りが男を突き動かす。だけども扉は破れない。どんなに繰り返しても表面が多少削れるだけで動じない。その間にも水嵩は上昇を続けている。凍えるような水はすでに男の腰まで上がってきていた。男は今、明確に焦りを感じている。

 男はわめきちらす。助けてくれ。誰か。誰かいないのか。俺はここにいるぞ。どんなに叫んでも、扉を叩いても、答えは返ってこない。ただ水が部屋に流れ込む音だけが響いている。男は気づく。孤独だ。男は今、どうしようもなく孤独だ。いつの間にか背後に忍び寄っていたそれは効率的に精神を削りとっていく。まず知らず知らずに涙が出た。ぽろぽろと意思とは関係なく溢れてくる。それから涙を追い掛けるように洟がずるずると垂れた。極限状況では何よりも理性が大切だとか、常に自分を鼓舞しつづけて決して諦めるなだとか、そんなのは何も知らない馬鹿どもの言葉だ。ここには男一人しかいない。これまで仕入れてきた知識も、これまで出会った誰も男を救うことはない。決して。

 溢れる体液は呆然としている男の口に易々と入り込む。しょっぱい。そうして男はようやく泣いていることを自覚した。異物を吐き捨てる。状況は何も変わらない。それでもわずかに残った塩気が消えさりそうな精神を現実に引き止めてくれる。顔を袖で強く拭う。

 そうだ。今はそんなことをしている場合じゃない。みっともなく泣いている場合なんかじゃない。考えることを止めてどうする。その先にあるのは絶望だけだ。地獄だけだ。こんなどうしようもないところで死んでたまるか。終わってたまるか。まだまだやりたいことが沢山あるんだ。男は大きく息を吸う。吐く。脳を酸素が駆け巡り、幾分か理性が戻ってくる。おかえり。

 止まっていたところで何も変わらない。状況を変えたければ動け。考えろ。動け。もっと。自分の置かれている状況を正しく認識しろ。この部屋の出口はどこにある。考えろ。観察しろ。

 ふと、机に置かれた万年筆が目に入る。ああ、キャップを閉め忘れたまま放置してしまった。濡れた原稿用紙には大きくインクの染みが出来ている。どうしても放ってはおけずポケットに仕舞い込む。ペリカン。商売道具。……違和感。回る思考が今見た光景から何かを訴える。万年筆、インク、ペン先、毛細管現象、気液交換! それだ。水嵩が上がりつづけているということは、それと同じだけの空気がどこかから抜けているということだ。つまりその\bou{どこか}は外に繋がっている。人が通れるかどうかは分からないが可能性はある。どこからだ。一体どこから。コンクリートの壁、嵌め殺しの窓。視線が部屋中を探る。扉、排水溝、通気口……。通気口! 鼠色のプラスチックカバーで擬態したそれはひっそりと天井に張りついていた。

 叫び出しそうになる興奮を理性でしばり、残った筋力で机を引きずる。足場を作る。天井とのわずかな隙間に指先をすべり込ませる。そして祈りと共に体重をかけた。ぱきり。軽い音を立てて樹脂が割れた。ふつふつと湧き上がってくる歓喜。やった、これで。だがその感情は次の瞬間には急激に萎んでしまう。ファンだ。よくよく考えてみれば当たり前だ。剥き出しになった通気口には、まるで門番のようにファンが高速で回転していた。

 まだ、こんな試練を課してくるのか。男は判断を迫られる。どうにかしてファンを止めなければならない。どうやって。いや方法自体は分かっている。何か硬いものを挿し込んでやればいい。何を挿し込むか。意識が自然とポケットに向かう。ペリカン。商売道具。そうだ。それを突き立てればいい。だが手が動かない。まるで半身を生贄に求められているような感覚。視線が部屋を泳ぐが、閑散とした部屋に代わりは見つからない。男は判断を迫られる。歯を食い縛り、覚悟を決めると、男はファンに自らの左手を挿し入れた。ぺきぺきぺきぺきぺきぺきぺき。小気味いい音が部屋に響く。それから遅れて男の叫び声。異物を噛んで羽が止まる。両手で羽の奥、金属製のフレームをしっかりと掴むと、全体重をかけて思い切り引き摺り下ろす。いち、にの、さん。何かが剥離する手応え。自重に任せて天井から落ちるモーターをファンごと放り投げると、そこには暗く、先の見えない穴が空いている。ついに出口が現れる。

 ついに。ついに。男は噛み締めていた唇から流れる血を拭う。でもまだだ。慌てるな。痛々しい形状の指先を庇うように、しかししっかりと穴の縁に手をかける。極度の寒さと疲労で引き攣りそうになる筋肉を使い、びしょ濡れの下半身を引き上げる。

 空間。空気。酸素。ゆっくりと呼吸できることの喜び。埃だらけだというのに今はピカピカのスイートルームよりも居心地が良い。

 トタンの板の上を体が這い擦る音が妙に大きく反響する。それと同じくらい心臓の音がうるさい。孤独に耐え、恐怖に耐え、苦痛に耐え、目標に向かって努力した。そして努力は報われた。その事実は今までの敗北とは打って変わって甘美で、自然に笑みが溢れた。ぐちゃぐちゃの服、ずたずたの指、紫色の唇で笑う。脱出した。成功した。はは、やってやったんだ! 俺だってやればできるんだ! ざまあみろ! ざまあみろ! 誰に云うわけでもなく男は宣言する。勝利を確信する。あとは道なりに進みさえすれば外に辿り着くはずだ。

 外に出たら何をしよう。まずは暖かい部屋と美味い料理だ。好物のハンバーグがいい。それがいい。もちろん炊き立ての白米も一緒だ。それから熱い風呂に入って、たっぷりの陽射しを浴びた、ふかふかの布団で寝てやる。必ず。そうしたら今日のことを小説にしよう。売れなくてもいい。自分のために書きたい。この勝利の味を忘れないために。これまでの自分との決別のために。消えていたはずの創作意欲が湧き上がってくるのを感じる。

 ひとしきり笑うと男は行動を再開する。匍匐前進のイメージで暗闇を進む。もちろん男は素人なので、その姿はまるで陸の上でのたうつ魚のように不恰好なものだ。でも一歩一歩着実に進んでいく。もはや男には以前の卑屈さは感じられない。どんなに無様でも先に進めるならそれでいい。

 やがて空気が変わったことに気づく。埃の匂いが消え、雨に濡れた草木が香る。残されたわずかな体力でその方向に体を運ぶ。そして……、光。光だ。暗黒が背後へと逃げ去り、指先の輪郭が浮かび上がる。すぐ向こうに光が見えた。約二メートル。男の内側から湧き上がってくる感情が痛みと寒さを打ち消す。体が動く。最後の関門。出口を塞ぐ網目を蹴飛ばす。骨に響き渡る衝撃すらも快い。邪魔者はひしゃげてどこかへと落ちていく。ゴールだ。感慨と共に腕が外の空気に触れる。光の中に出ていく。あと少し。あとほんの少しで──、

 轟音が響いた。腹の底から揺さぶられるような音。男は周りを見わたす。しかしその原因について考える暇すらも与えず、木石交じりの水流が男の体を押し戻した。体中の激しい痛みとともに天地がひっくり返り、ぶつかり、転がり落ちていく。抵抗も何もない。風に弄ばれるビニール袋のように、ただされるがままスタート地点まで戻されてしまった。


 ※


 重い体を必死で操り、男は水面に顔を出す。天井が近い。じわじわと痛む全身。だがそれどころではない。出口は、出口はどうなった。男は視線を通気口へと向ける。

 絶望。そう形容するのに相応わしい。

 ついさっきまで開いていた希望には流木と石がぎっしりと詰まり、見事にふさがれてしまっている。何もかもすべて、また一からやり直し。いや一どころじゃない。水嵩は増し、さらに出口は潰れてしまった。マイナスだ。なんで。どうしてこんな事が起きる。男は考える。俺が何をした。駄目な人間なりに、自分ができることで精一杯生きてきた。その結果がこの仕打ちか。油断していた俺が悪いのか。だがどんなに考えたところで現実は変わらない。時間は決して巻き戻らなず、空気はもはや残されていない。酸素はない。もう逃げ道はない。これを絶望と呼ばず何と云えばいい。鳴りを潜めていた死の足音が、背後から大音量で迫ってくる。

 怒鳴り散らしたい。殴りつけたい。衝動にまかせて腕と足を振り回してしまいたい。衝動を理性で押さえつけ、冷静になろうと努める。酸素の消費は少しでも控えなければならない。それでもなお押し寄せる感情が思考を埋め立てる。恐怖。怒り。絶望。嫉妬。願い。忌避。感情と理性、それらが衝突し、弾け、男の脳細胞を焼き切っていく。もしも悪魔が存在するならば満面の笑顔を見せてくれるだろう。

 何かを求めるかのように男が口を開く。だが何も出てこない。空気も、言葉も。ただパクパクと口を動かす様は、まるで意識を感じさせない魚のようだ。

 もういいや。

 男の頭にそんな言葉が浮かぶ。

 ご破算だ。台無しだ。どんなに努力しようがすべて無駄で、こんな運命の悪戯ごときでぶち壊される。ならもう何もしないほうがいい。投げ出してしまったほうがいい。ネガティブな言葉たちは男の心にするりと滑り込み、染み込み、深く深く根を張る。そして絶大な徒労感と男の気力を肥料に花を咲かせる。その蜜は甘い。ここであきらめてしまおう。やめてしまおう。頑張っても苦しいだけだし、何よりもそのほうが楽だ。そんな考えが頭を満たしてしまう。だが逆らうための力は男には残されていない。目を閉じ、全身の力を抜く。

 と、そのときだった。

 捻じ曲がった指先に何かが触れる。ぐしゃぐしゃで、ごわごわで、でも妙に馴染む感触。どこか懐かしい触感。諦めた男にはもはや関係ないはずなのに、邪魔なだけのはずなのに、なぜかそれを振り払うことができない。ただ指先をほんの数ミリ動かせばいい。それだけで水の流れにのってどこかに消えていくだろう。なのに男にはそれを無視することができない。瞳を開く。

 そこには文字があった。

 細かな文字が書き殴られた紙があった。

 これは原稿用紙だ! 

 見ると水で満たされた部屋のいたるところに原稿用紙が浮かんでいる。そしてそこからは万年筆の筆致が染み出し、じんわりとゆがみ、水中に浮かんでいる。それは男のすべてだ。

 ペリカンのブルーブラック、パイロットの赤、丸善セピア、色彩雫の月夜、霧雨、小豆島オリーブグリーン。

 色とりどりの文字たち。

 それを見た瞬間、男は何か大切なものが体に戻ってくるのを感じた。体は凍えそうなほど寒いはずなのに、どこからか熱が湧きだしてくるのを感じた。

 男はぐるりと体を回すと、分厚い扉に蹴りを入れる。全力。しかしここは水中だ。大した力は入らない。もちろん分厚い樫の板はびくともしない。それでも一心不乱に扉を蹴りつづける男。何度も何度も何度も何度も。気が狂ったわけではない。自暴自棄になったわけでもない。男の目は死んでいない。男は自分の意思でこの行動を取っている。

 扉は動じない。男を嘲笑うかのように何も変わらず鎮座している。扉を破ってどうする。この向こうも水に飲まれているぞ。無駄だ。すべては無駄だ。これまでの人生も、今まで書いたものも、すべて、すべて。諦めろ。放棄しろ。こんなくだらないことに見切りをつけろ。そんな思考を断ち切るように男は何度も体を大きくひねり扉を蹴る。扉は動じない。だがそれがどうした。

 男は屈しない。その腕には過去に書いた膨大な言葉がある。希望はない。酸素もない。だが言葉だけはある。誰に向けるわけでもなく書きなぐってきた日記が、全く売れなかった自信作が、衆目には晒せない駄作が、ついぞ完成しなかった大作が、ここにはある。それは時に人を絶望させ、無常を感じさせる文章たちだ。しかしそれだけではない。絶望のあとには希望を、無常の中には永遠を、書いてきたつもりだ。誰かが違うと云おうが、男はそれを知っている。誰かが無駄だと云おうが、自分だけは知っている。それはもはや自分がもう一人ここに居るのと同じことだ。その事実が挫けそうになる心を叱咤してくれる。もう変わることのない過去の言葉が今、男の体を動かしている。

 無駄じゃない。結果が出せないから何だ。たかが報われなかっただけだ。それがどうした。そんなものごときで止められると思うなよ。負けてなんかやらない。屈してなんかやらない。絶望と恐怖に飲み込まれたまま死んでなんてやらない。お前を喜ばせてなんかやるものか。

 男は残された酸素を使い、状況を確認する。爪が割れ、折れ曲り、血の滲んだ指先。低体温で紫色になった唇。ぶよぶよと水を吸って柔らかくなった皮膚。必死で酸素を求める肺。そのどれもが生き残る可能性が低いという事実を男に突きつけている。だがそのどれを持ってしても男を止めることはできない。

 男はもう一度、次の挑戦のために大きく体を捻る。

 もう一度。

 ただもう一度。

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