第13話
翌日。
バティスト・メセンスとブノア・アンテノールの決闘が行われる闘技場、その特等席ともいえる北上段のど真ん中に見慣れた後ろ姿を見つけて、ルネは思わず舌を出して見せた。
昨日衝撃的な告白を受けて何ともいえず落ち着かない気持ちでいたところにその元凶を見つけ、腹いせ混じりにどうちょっかいをかけてやろうか、そう考えていたところに
「なんだ、ルネ、ずいぶん早起きじゃないか」
そう背中で先に呼びかけられて、ルネは逆に苦笑いしてしまった。
「張り切って一番乗り決めてやがるお前に言われたくない、ってかなんだ、ピリピリしてやがるな」
「気のせいだ」
「とう」
サクラの背中めがけて素早く繰り出されるルネの指を、サクラは振り向きざまにぴしっとはたき落とした。
「なんだ、俺は虫か」
「……虫ではないが、しつけのなっていない犬くらいには無礼だな」
そこで初めて彼女の顔が見えたので、ルネは少しほっとした。表情はまだ少々堅いものの、不快と当惑と少しの羞恥心がカクテルのように見事に入り交じったいつものサクラだ。
「生憎今は私は取り込んでるんだ。悪いがどこかへ行くか、でなければマトリョーシカのように静かにじっとしてろ」
「それって、隣に座ってもいいってこと? いやぁ、嬉しいなぁ」
ルネがどかりと音を立てて座ると、サクラは少し頬をぴくりと動かしたが、なにやら強情に手元の本を眺めている。見ると、来週に迫った生物のテスト範囲をあやふやな視線で追っていた。
「まじめなこった。それとも間がもたないだけ?」
「う、うるさい。こんな試合始まってしまえば一瞬だ。そんな一瞬のために今頃からそわそわして人生の貴重な時間を浪費するのはくだらない、そう思っただけだ。学生の本分は本来学業でもあるし」
ルネは思わず吹き出しそうになった。
(学生の本分は勉強、か……なかなか懐かしい概念ではあるな)
そもそもこの学苑の大元をたどれば、絶対王政時代のフランスで設立された諸学のアカデミーにたどりつくらしい。そのメンバーに水銀を金に変える奴らとか薔薇の十字を冠した奴らとかが紛れ込んでいたせいで、非公式に魔術アカデミーが18世紀に設立。それが新大陸への移住とともにケベックへと移転し、その敷地の広さや中立性が評価されて、表面上はカナダの教育法に則った私立学園として今の形が成り立った。なので、その本来の意義からも、また今の建前から見ても、この学苑はまぎれもない「学び舎」であることは間違いない。
けれどもその実、社会に誇るべき人材を輩出するための教育機関という理想とは対極の場所にこの学苑はある。いわば、ここは社会そのものであるどころか、世界の仕組みを変えて、しまいには終わらせてしまいかねない創世力とかいう弾丸とは比べものにならないほど危険なものが飛び交う戦場なのだ。
そんな場所で、いったい座学に時間を費やすことなどどんなメリットがあるのやら……そんな学苑生が多くなっている昨今、サクラの言葉はルネに新鮮に映る。
(だから俺は、こいつと一緒にいるのがやめられないんだよな……なんていうか、老婆心?)
そんな彼女の純粋さに傷を付けてしまわないように、ルネは矛先を少しずらすことにした。
「いろいろ突っ込みたいところはあるが……まず静かにしてと言った本人があせあせとしゃべりまくっている点について何か弁解を」
「わ、私はいいんだよ……おまえが黙ってればいい話じゃないか」
「とんだ独裁者だな、真っ赤な女王様」
そこで初めて自分の顔の色に気づいて、そして不意打ちにルネから顔をぷにりとつつかれて、サクラはわなわなと震えた。もっとも彼女の気づかない間に、もうこれ以上赤らむ余地がないほどにその頬はきれいな桜色に染まっていたのだけれど。
「……わ、私は人の首をはねたりしないぞ」
「そんなもん尻にぶら下げながら言われても説得力がないなぁ」
ルネが彼女の模造刀を指さすと、サクラは今度は別の意味で顔を紅潮させた。
「これはそんな下らないことに使うものじゃない! これは正義のための剣だ。たとえ持ち主の私であっても、私利私欲で振るわれるなど彼は許してくれないだろう」
「彼、ねぇ……」
どこをしゃぶっても切れ味がないなまくら刀によくそれだけ入れ込めるもんだ……とルネは逆に感心してしまうのだが、もちろん口には出さない。
「まぁ、カリカリすんなって。自分が倒すべき恋敵がいったい誰になるのか……入念に研究しておきたいって気持ちが先走りして会場に一番乗りしたはいいものの、手持ちぶさたで逸る気持ちと火照る身体をなんとか沈めようと明鏡止水、学業に励んでいるのは見ればわかるが……手に付かないのなら時間の無駄だな。ほら、掴みすぎて教科書の端が汗染みになってる」
シルヴェットはあわててテキストを閉じると、何かうらめしそうな顔でルネを見つめた。
「やっぱり……」
そうサクラは言いかけて、やめて、ルネにじっと見つめられるなかで何度か頭の上にぐるぐると渦を巻いた後、おずおずとか細い声を出した。
「やはり、私はおかしくなっているのだろうか……」
ルネはさりげなく片手で口を覆った。正直、自分の中の悪魔は吹き出すどころか、大きな声で笑ってしまうように衝動を吹き込んでくるのだが、自分の中の天使は彼女の初々しい悩みをハムスターの子供でも取り上げるみたいに慈しみ扱うように、と有り難い霊言を遣わしてくれる。そして結局僅差で天使が勝利を収めたことに、彼はルネ・アンリと言う男まだまだ捨てたものじゃない、とほくそえんだ。が、それは顔に出てしまったらしく、「なにをニヤついている! こっちは真剣なんだ!」と結局はサクラに厳しい叱責を食らうことになった。
「なんだ、まぁ、一言で応えるとするなら、今までのお前さんがおかしかったのかもよ? 生まれてこの方律儀に身をこの国に捧げてきたからわからないかもしれないが、そこらの人は多かれ少なかれ行儀よく慎めもしなければ割り切れもしない身勝手な思いを抱いているものだと偉い人が言っていた」
「その偉い人ってのはまさかお前のことじゃないだろうな……」
するとルネは大げさに両目を見開いて、
「驚いた。なんだなんだ、物知りじゃないか。この調子じゃもう勉強の必要もないな。俺とエロい話でもしようぜ」
すると、今度はここ数日餌にありつけていない鷹のように厳しい瞳で見つめられたので、ルネは「おうふ」と漏らして意味もなくネクタイを締めなおした。
「……昨日は一睡もできなかった」
サクラがぽつりとつぶやく。その深刻さに、ルネはいつもの軽口もたたけなかった。
「自分自身がこの戦いに参加するかのような気持ちだった。いけないな、全く冷静じゃない。行儀良い観客ではいられないよ。何せ今の私にはあの二人、どちらもライバルとしてしか見えないから」
「ライバルってか……
ルネの言葉に、サクラは曖昧な笑みを返す。
「あぁ、いけない、ダメだ。あの二人、シルヴェットを幸せにしたいって点ではむしろ同士かもしれないが――残念だ、彼女は一人しかいない……ルネ、私はもう決心しているんだ。例えどちらが勝とうと、次の相手はこのサクラ・シラハセだと」
「……!」
ルネはサクラがいずれ次の決闘相手に名乗り出ることは予想はしていたが、出会ってから昨日の今日でここまで決心が固まっているとは思わなかった。
「おい、もしかして今日この場で乱入するつもりじゃないだろうな」
「ま、まさか! 私だって試合と騎士道物語の区別くらいついているつもりだ!」
まぁそうだよな、とルネは息をついた。秩序と順序に厳しい彼女にそんな大仰なこと頭の片隅にもないはずだが、なぜか今日のサクラにはやりかねない迫力がある。
「まぁ、その点今日は観客の中で一番公平な目で見れるかもしれない。何せ、どちらが勝手も私にとって敵には
「そんなこと言って、結局気になるのは……」
あいつのほうなんじゃないか? そう言ってルネは前髪の右側を指でつまんでひょいとつまみ上げて見せた。
「バティスト・メセンス……」
憎々しげ、とは言い過ぎだが、サクラの口調に少し陰がさす。
「何だかんだ言って、俺たちはブノアの坊ちゃんのやり方を知っているからな。それに引き替え、バティストの預言者としての能力は全く不明。およそ戦いに不向きなあの怠惰、てか正直ぶっ飛んだ性格と相まって、確かに気になる存在ではある」
「……私にとってはそんなこともあまり関係ないのかもしれない」
サクラはまだ空っぽのフィールドに視線を向ける。
「私はただ知りたいんだ。なぜあの男をシルヴェットのような存在が十数年もそばに置いているのか。なぜ奴を自分のノアに任命したのか……この戦いで見えてくるかもしれない。そうすれば……」
サクラはまた後が続かなかった。そうすればどうするというのだろう。自分も彼とそのように振る舞うというのだろうか。
いや。
他人を真似てへつらうことなどサクラのプライドが許さないし、なにより無理だ。
真面目を絵に描いたようなサクラに対し、怠惰の具現のようなバティスト。これは二人の人間の対比と言うより、概念と概念の対立のようなもので、バティストの流儀に従うなどサクラにとっては自分を殺すことに等しい。
それでもサクラが彼のことを知りたいというのは……結局今の時点でシルヴェットという人間を知るためにバティスト・メセンスは避けては通れない存在だから。一見気楽かつドライ、主従関係によくある関係に見えるかもしれない。しかし彼女にとっては悔しいことだが、あの二人は一心同体の存在のように感じてしまう。
だからサクラはこの決闘。なにが何でも見逃すわけにはいかないのだ。
ルネはそこまで考えて、ふわりとした笑みを作った。
「まぁ、気楽に待てよ。そんなに客が入るとは思えないし、何なら俺が見張りしておくからさ。ずっと座ってたら疲れるぞ?」
「……そうか、な」
サクラはしぶしぶといった様子で教科書を鞄にしまうと、あまり行儀悪く見えないように、ゆっくりと背中を伸ばそうとして、ぶるりと体を振るわせた。やっぱりかなり緊張していたらしい。
そうしてルネが花にも実にもならない話を彼女の耳たぶの中にそそぎ込んだりしているうちに、もう決闘の開始まで30分を切り、いつの間にやら実況席がしつらえられ、会場の準備もほぼ完了した頃には……座席の青いシートはがらりと色を変えていた。
制服のブレザーのワインレッド、金髪、黒髪、そして少しの赤毛、それらが混じり合い、犇めいている。
「ルネ。あまりホラを吹くのは感心しないぞ」
「いやぁ、可能性は頭にはあったんだ。けど、ここまでとはなぁ……」
普通科の学生全員を収容できるこの闘技場は、わずかな予約席をのぞき、観客でみっちりと埋め尽くされていた。
「いったいぜんたいなんだこのお祭り騒ぎは……半年に一度の階級決定戦の日じゃないぞ、今日は。もしかして、彼らもシルヴェットを狙って……」
「今日も妄想に精が出るなサクラ嬢。けれどどうやら心配無用だ。見たところブノアの坊っちゃんの追っかけが3割、各陣営の偵察要因が1割、あとは興味本位ってところか……チャンネルを使った決闘も何年ぶりだよって話だし、久しぶりの新入生が昨日の今日で決闘するってんだっから、話題性も抜群だ。けど、なにより入学式のアレが相当効いてるんだろなァ……」
入学式にアーク本人が出ない、そして代理のノアがいきなり暴言を吐きちらすという前代未聞の事態。巨大な都市とはいえここは「学苑」だ。各セクト、課外活動、研究科……縦横のネットワークで一夜にしてバティスト・メセンスの名は挨拶代わりになった。そんな彼、そしてあわよくば彼がそこまで偏執する謎のノア、シルヴェット・アルブレイツベルジェルを一目見ようと、『闘技場へ行こう』が巷の流行語になったのは想像に難くない。
けれど結局は……
「ここの奴ら、プライド高い奴が揃ってるからなぁ……」
「まぁ、確かに……」
あれだけ大口をたたいた奴を、そこまで言うなら見せてもらおうじゃないか、どんなもんじゃい、と見守っている奴らも多いのは確かだろう。
すると、二人の近くで突然ワッを歓声が上がり、それに釣られてたほかの観客にもざわめきが広がる。次の瞬間には生徒全体がちょっとした興奮に包まれた。
クリームを思わせる白に近い金髪が豊かにウエーブしている。背丈は170近く、ほんの少しふくよかな全体の印象に比べて胸はそれほど大きくないが、それが逆に精悍で清潔なオーラを醸し出している。指定の制服とは異なるニットの白い上着とともに、彼女は純粋な淑女という偶像を誇らしげにまとっていた。
「生徒会長……」
「こりゃまた大物がいらすったもんだな」
学苑第88代生徒会長、ナナ・ネアルコス。生徒全体を扱う自治組織としては唯一の《アレイオス評議会》の長である。生徒会長になって今年で三年目、ふつうの高校なら任期どころか卒業してもおかしくない年数だが、前任が26年間、そしてその前が上限いっぱいの30年勤めあげたことからすると、まだ新任といっても差し支えない。
同じギリシャ出身の前生徒会長の支持基盤と政策をそっくり受け継いでいるせいで、実績としてはまだまだ印象は薄い。しかし何せ強腕豪傑の印象が強かった前職に引き替え彼女はビロードのように人当たりがよくしかも美人と評判で、人気としては歴代トップクラスを誇るという。
「しっかし、ずっとずっと思ってたんだが、なんでギリシャ人なのに金髪なんだ? 地中海出身はみんな真っ黒髪と相場が決まっていると思ってたが」
「こら、ルネ、声が大きいよ。今ちょうど近づいてきているところなんだから。そういう話は後に……」
「って、マジで近づいてきてねぇか?」
彼女を見ているとあまりの優雅さに時間感覚が狂う。絹のような印象の髪と肌がするすると周囲を滑りぬけるように近づいてきて、いつの間にかサクラの横にゆらりとたたずんでいた。
「ごきげんよう。お隣、失礼していい?」
「し、失礼しました会長」
ぴしりと一人で隊形をとるサクラを見ながら、ルネは「誰も失礼なんてしとらんだろ」と言いたげにあきれ顔を作った。
「もちろん、光栄です。全校生徒の規律と厚生を司る評議会の長と同席できる機会が来るとは」
そういった後、サクラは「お前も何か言わないか」と言いたげに左手でルネの腿をたたいて見せた。
「俺たちは昼間から待ってたのに、先に席を取っておくことができるなんて、さすがはお偉方だ」
「ルネ!」
サクラがきっと睨みつけると、ナナは「いえいえ、その通り」と両眉を少し下げて見せた。
「けど、今日ばかりは私も見届けたくて。公務があったから、ギリギリにまで来ることができなかったのよ。ごめんなさい。えーと、従僕科のサクラ・シラハセさんと、普通一科のルネ・アンリさんで良かった?」
不意に名前を呼ばれて一瞬固まったサクラの代わりに、ルネが「よくご存じで」と手を叩いて見せる。
「歴代生徒会長は1500人を越える学苑内の生徒・職員すべての顔と名前を記憶しているとは聞いていましたが」
「先代はともかく、私はまだまだ。これから何かとお世話になりそうな人間だけはあらかじめ憶えているけどね」
「お世話だなんて、そんな……」
胸の前で手を振るサクラの隣で、ルネは無言で彼女にウインクして見せた。ほんの少し、微妙な一瞬。
多かれ少なかれ、学苑なんて特殊な場に入学が許されている時点でどの生徒もいわくがある人物ばかりだ。だから、こうストレートに「これからよろしく」と会長に宣言されて、素直に喜べるだけの脳天気はここにはいない。ルネも、サクラも、もちろん。
(だから……そんな見え見えの取り繕い、やる方が嫌らしいってもんだ、サクラお嬢様)
しかし、ナナはほんの少し眉の下がった笑みを絶やさぬまま、サクラの胸の前で揺れたまま行き場を失った両手をぱっと掴んで見せる。すると、サクラがのどの奥で小さく声を出して体を反らして、ほんの少しつま先を伸ばして見せた。こういうスキンシップになれていない感じはいかにも日本人だ(と、ルネは思う)
「いえいえ、お世話よ。なにせ、私はまだまだ経験も浅いし、何よりこう、ふわふわというか、抜けてるってみんなに言われるの。あなたみたいな芯の通った方には憧れるわ。あなたの学苑生活に関する態度も模範的だと聞いているし、何か機会があれば、評議会に関わってもらうこともあるかもしれないし、どうかこれからも……」
そういってほんの少しかがみ込んで上目遣いにサクラの目を見上げてから、
「よろしくね」
そうねっとりとした声で読み上げて見せた。
(うっっわー……)
ルネは思わず透明な蝶々を追うように目をそらした。
サクラは「は、はい……」と緊張した面もちで答えているが内心は自分と同じだろう。むしろそうであってくれなければいくらなんでも脳味噌が快晴すぎる。
この針のむしろからいかに酒脱に脱出して見せようかと思案していると、渡りに船か、あたりの喧噪がほんの少し静まり、耳に涼やかな音色が聞こえてきた。学苑のハンドベル部が機械時計の人形のようにかくかくした動きで開演直前を告げている。その音色に、生徒たちも最初はじっくり耳を傾けていたが、次第に四方からちょっとしたざわめきが広がっていた。
この闘技場の観客席は入り口が東西南北一つもうけられているのだが、そこから同じワインレッドのゴシックドレスを身につけた女生徒が一人ずつ、右手にビデオカメラ……というよりも、映画装置といったほうが適当だとすらおもえる古めかしい機械を手に、つ、つ、とつま先を引きずった様式的なステップで通路の中ほどまで進んできたかと思うと、跳ね上げられた撃鉄のようにばちりと立ち止まって、息を飲む周囲の静寂の中でフィルムの巻きあがるちぃぃという音を一斉に放ち始めたのだった。
「ブラボー」
そのあまりに様式的な挙動にルネだけが思わず手を叩いて苦笑してみせたが、それは静寂にほんの少しだけざわめきを取り戻すぐらいの効果しかもたらさなかった。皆は本当にかぼそい声でこうささめきあうのみだった。
「《
「これでアカの奴らまで来ればグランドスラムってところだが……」
「それはさすがにないだろ。けれど、こんな下位の決闘にこれだけ大物が集まるとは……」
「バティストとやらも気の毒だな、目ぇつけられる羽目になって」
「いや、あの入苑式を見たら自業自得でしょ」
サクラは無意識にレイピアの柄を親指になでながら憮然とした顔をして見せた。
「アイガクの会……不気味な奴らだ。何ら法にも学則にも反することはしていないし、騒ぎも起こしていない。これだけなら穏健なただの学内圧力団体だが……噂では構成員の勧誘のために催眠術や洗脳を使っているだとか、生け贄に近い人体実験を行っているだとか、夜な夜な集団で倫理に外れたまぐわいを行っているだとか、黒い噂ばかりだ。けれどそもそも、私が入苑してからこのかた、会長のユリア・バシュメトの顔すら見たことがない。なまじ全貌が見えてこないだけ余計……不気味だ」
「とサクラさんはおっしゃっていますが、本心は胡散臭い奴らをひと思いに切り捨てられないもどかしさで気が狂いそうなだけのようです」
「人を辻切りみたいに言うな!」
しかし、ナナはルネの言葉にゆっくりとうなずいた。
「もどかしいわ。評議会としても、いろいろ噂があるのはもちろん知っているのだけれど……なにせ普段の活動場所から正確な会員数までそっくりわからないのだもの」
「おいおいしっかりしてくださいよ生徒会長。我々ヒラの生徒とてあんたたちだけが頼りなんですから」
こんどはかなりきつく剣の柄を尻の頭にねじ込まれて、ルネは「アウゥ」と声を出した。
ナナはまた困ったように眉を下げて、
「そうよね……けれど、こんな生徒会長でも、学生活動の治安と平穏を守るために不確定要素はできるだけ排除していくつもりよ。さすがに言えることは限られているけど……それでも、この学苑都市の自由だけは守り抜く、それだけは生徒会長の地位を受け継ぐものとして、断言できるわ」
その言葉を聞いてルネは笑いもしなければ怒りもしなかった。サクラは同じ何も言わずでもぴしりと姿勢を正して彼女の態度に敬意を表していたが。
ルネにとって彼女の言い分はこう翻訳できた。今の時点で我々評議会は学内の危機について何もつかんでいないわけではない。けれど、平民のおまえたちに下賜できる情報などひとつもない。けれど、どうか我々を信じておまえたちはのんのんと無防備でモラトリアムな学苑生活を楽しむがよい。
けれど、思えばそんなもの、この場所に限ったものでもないじゃないか。そうもルネは思う。国家というものは、結局政府や警察や軍やインフラ機関への絶対的な信頼なしには成り立たない。それが一匹狼を気取った不適合者以外にとっての社会の姿というのものだ。けれども、その信頼にたる国家が果たしていまの世界にどれほどあるのか……
ただ一つ断言できるのは、少なくともそんなものこの学苑にはないということだ。
(だから……)
だから、ルネはこの学苑にやってきた。いや潜り込んだのだ。
(そのついでに……このかわいらしく純粋な存在をどうにかして守ってやらないと。あぁ、ついでと言うにはちとキツすぎるタスクだが……ついででも人助けができるのがヒーローよ。もしこの想い叶えられたなら、俺ってかなりカッコいいぞ?)
ルネはそう思いながらサクラの横顔を眺め、目を細めるのだった。視線に気づいたサクラにいぶかしげな視線を向けられ、思わずいつもの軽口を言ってしまうまでは、ずっと。
「大変長らくお待たせしました!」
時間きっかりに始まったにも関わらず、司会役の生徒はそう高らかに歌いあげた。
「いやー、久しぶりですね! この空気、このざわざわしたお客様の熱気の肌触り! 年に一度の順位決定戦ももちろん一番盛り上がるのですが、何せ今回は……4年、いやほとんど5年ぶり? の新入生徒のデビュー戦! それも、入苑翌日に決闘の申し込みを受けるというまさに前代未聞、まさに春の椿事といった状況ですが、またその決闘を申し込んだ相手があの一部のへんた……失礼、好事家に熱狂的な人気を誇る学苑いち可愛い男子ことブノア・アンテノール、その実力はみなさんよぉーくご存じでしょう! 昨年度の順位決定戦では学内31位、さすがにトップランカーに対しては分が悪いものの、今まで三桁のランクに対しては無敗を誇るという安定感は賞賛されるべきものでしょう! これに対し、能力的にはまったくの未知数、あの黒歴史……もとい伝説の入苑スピーチで大いに名を、悪名を轟かせたバティスト・メセンスがどう立ち向かうのか! 両者入場前から、場内の熱気は錬金術師のアマルガムのようにぐつぐつと煮えくり返っています!」
ルネは思わず耳をふさぎそうになった。ただでさえ
「それではまず、挑戦者を紹介しましょう! 今日は順位戦ではありません。互いにとある権利を求めて戦う決闘! なので申し込んだ側が挑戦者となります!」
ルネは深呼吸し、つとめてあの耳障りな実況音声が心の中に紛れ込まないようにした。どうやらサクラも同じ心境らしく、少し唇をとがらせて薄目でうつむいている。剣技を披露する前でも、授業中でも、彼女が集中するときにはいつもこうなる。
しかし、そんななかでも、ブノアが入場してきたときの歓声は耳に入った。思わずふと目をやって、ルネは「ぶっ」と吹き出してしまう。
ブノアは付き人の女性を数人引き連れて、自信は鈍く光る甲冑を身につけていた。それも、百年戦争かと思うような古びたものだ。しかし、上に見ても十代前半くらいしかないブノアの身体にはあからさまにぶかぶかで、彼が歩くたびがっちゃがっちゃと締まりのない音が響きわたった。もっとも本人は胸を張って得意げに場内へ向かっている。鎧の音も自分の雄々しさを引き立てる効果音だなんて思っているかもしれない。
むろんあのまま戦えるわけもなし。アレはブロレスリングの入場と同じ、まったくの演出だ。
すると、横でサクラが真剣な表情でつぶやいた。
「あの鎧、名工の作だ。いったいいまの時代、あれほどのディテールを表現できる職人がいるか……」
「……いや、やっぱりサクラさんといると心が洗われますな」
「なっ何だ……気持ち悪い」
会場からは一部の熱狂的なファンから黄色い声援と金切り声が響いてきたが、それを差し引くと失笑3割、苦笑3割、嘲笑も3割であとは爆笑だった。さすがに爆笑はかわいそうだろうとルネの心の天使が形だけの義憤を示して見せた。
すると、反対から今度は別の歓声が広がった。ブノアの時のものと似ているが、さらなる驚きと嘲笑、それすらも通り越して騒然とした空気が広がった。
バティストが身なりに気を遣わない人間だと言うことは入苑式でみな印象づけられていたが、今のバティストの姿はそれだけでは片づけられないものだった。昨日とは違い猫背という訳ではなかったものの、背骨はぐにゃぐにゃと揺れて足もとはふらふら。その足はなぜか靴下もない裸足だった。もともとやる気の感じられなかった顔はからは生気がさえも抜けて、目の下には炭のような肌よりもさらに深いブラックホールのようなくまがどかりと居座っている。
「タカスギの奴……いくらなんでもしごきすぎだ!」
サクラが思わず声をあげた。
「あれじゃぁまともに相手を見ることすらできなさそうね……」
ナナも頬に片手を当てて不思議そうに首を傾げる。
しかし、ルネだけはじっと、疲労にだぶついたバティストの瞼の奥にあるものを凝視していた。そして、ふふっと笑みを漏らす。
「ルネのやつ……睨んでやがる。黒豹みたいな瞳で、ブノアの奴を喰い殺そうとしてやる。ハッタリか? それとも……?」
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