第12話

 フリッツ・クライスラーは20世紀前半ではそのテクニック、そして表現力において、比肩するものなきヴァイオリニストとして有名だった。しかし、あるスキャンダルでそれまでの名声と同じくらいの悪名を馳せることになる。

 クライスラーは、彼の時代には知る人ぞしる存在であったバロック・古典の名作曲家の作品を「発掘」し、「現代風の編曲を施した上で」発表し続けていた。しかし突如、それがすべてなんてことはない、彼自身が古のマエストロ……ヴィイヴァルディ、W.F.バッハ、ルクレール……の作風を思い浮かべて作っただけ全くのオリジナルだということを暴露したのだ。この告白はもちろん物議をかもした。自分の名声を利用してイノセントな聴衆をだまし続けて罪の意識を感じなかったのか。古の作曲家に対する冒涜にほかならないといえよう、云々……

 しかしシルヴェットは思う。お前たち、気づかなかったのか、と。どの曲にも、どの曲にも……クライスラーの愛したウィーンの土と風の香りが、こんなにもむんむんと満ちあふれているじゃないか。こんなもの、ただの編曲で出せるわけがあるまい。本当に純粋な耳を持つものだったら、こんなみえみえの引っかけ問題、すぐに気づいているはずなんじゃないか。もし冒涜を叫ぶなら、こんな作品をまんまと騙されて信じ込んでしまったお前たちこそ冒涜じゃぁないのか……と。

 けれど、シルヴェットの心にはいま、また違った気持ちが生まれてきていた。

 クライスラー作曲、『プニャーニのスタイルによる助走とアレグロ』。

 イリアのヴィオラは18世紀の楽器にガット……羊の腸の弦を張った旧いスタイル。それに対して、彼女の双方は全くの現代風で、たっぷりしたテンポに大げさなヴィブラートをかけたロマンティックなスタイルだ。

 それに対して、シルヴェットはもともとクラヴサン……ドイツ風に言えばチェンバロ畑の人間なので、ピアノ(このホールのピアノは北米では珍しいことにスタンウェイではなくヤマハだった)の音量の変化は少なく、あくまで典雅に、けれど身体を揺らしながら、ソリストのイリアのことなどまるでかまわないように大胆なアゴーギグの変化で聴かせようとする。

 楽器、スタイル、そして楽曲すべてがあべこべになった、一見ジャンクな演奏。

 それがなぜか、奇妙なほどにはまっていた。

 お互いに完全に溶け合うことを頑強に拒みながら、互いの味を強烈に高め合っている。

 例えるならたっぷりとした牛フィレの上にこれまたどしりとしたフォアグラが乗ったロッシーニ風ステーキのようなもので、一見するとグロテスクなほどに盛り込みすぎに見えるが、ひとたび舌に乗せればその渾然一体となった旨味に陶然とさせられ、まるで魔法でもかけられたような感覚に引きずり込まれてしまう。けれど、肉と肝のどちらがメインなのか、主と従をなしているのか、そう問われるとわからなくなってしまう。

 藪から棒に持ち出されたイリアの挑戦的な要求に、シルヴェットは単なる「伴奏」を越えた演奏で応えている。その存在感たるや、ソリストのイリアと肩を並べ、ステージの中央で四つに組み合っている。

 付かず、離れず。

 互いが当意即妙を当意即妙で返しながら、しかし決してふたりよがりな自己耽溺に陥ることもない。それはまるで、宇宙のどこかに存在するという、互いの引力で回り合う双星のようだった。

 観客はそれに照らされる小惑星の群となって、まるで聖なるものをみるかのような高揚とともに、自らの身体にその恩恵をくまなく満ちていくのを感じ、打ち震える。

 最後のノートがたっぷりと劇場内を満たす。客席の再後尾までくまなく響きわたった和音を、従順な信徒たちは最後のひとかけらになるまで追い続けた。その響きが永遠に続くような気がして、いつまでもいつまでも沈黙を続けた。そしてやっと夢から醒めた、その後でさえ……拍手は不要だった。

 代わりに満ちたのは、まるでこの世の終わりを目にしたかのような、叫び、狂乱、そして嗚咽だった。

 彼女たちは確信しているようだった。突如イリアともに現れたこの女生徒が、その自分たちの主と互する技量と精神性の持ち主だということ。

 そして……

「現れた」「現れた」

 そう口々に言う、

「なんて悔しい」「けれど待ちこがれてもいた」

 そうも口走る。

「彼女こそ、預言者さまの数世紀の倦怠と陰鬱を癒す存在……」

「彼女こそ……」

「彼女こそ、預言者イリア様の永遠の伴侶……!」

 そう誰かが金切り声で叫ぶと、また所々から「妬ましい」「羨ましい」「あぁ嬉しい」と爆竹のような歓声が上がる。

 シルヴェットは当惑した。おそらく彼女はいまこの劇場の中でただ一人平静な心を保つ人間だった。というより、彼女一人の冷静さでこの場すべての熱量をあがなえるくらい、心が何か別の遠くに行っているような感覚だった。

(そうだ、私がクラヴサンを弾くとき、私は違う場所にいる。「いつもと違う場所」じゃない。「こことは違ういつもの場所」に……故郷のナルヴァ、そしてグアドループ……私にとってクラヴサンってのは演奏するものじゃなくって、祈りを捧げてものを食べるのと同じ、生活だった。だからよけいにこう思うんだな。「あぁ、なんて非日常だ……」それにしても、こんな大勢の人前でコンサートを開くなんていつ振りだろうか……)

 椅子から立ち上がることもせずに、じっとクラヴサンの黒い鍵盤に目を落としていると、イリアがヴィオラを持ったまま少し屈んでささやいた。

「その様子だと、僕のことはあまり思い出してくれなかったみたいだ」

「いや」

 シルヴェットは首を振って、

「思い出した。けっこうくっきり目に」

 そう何ともなく言って見せた。

 イリアはなにも言わずに少し苦笑いをした。せっかく自分のことにやっと気づいてくれたのにこう反応が薄いと喜びも中くらいだろう。

「それで、どうして私がここに導かれたのかもわかった……これは、なんとなくだけど」

「そう。で……君の答えは?」

 シルヴェットはゆっくりと立ち上がると、ほんの少し背の高いイリアを見上げてにっこりと笑ってみせる。

 それを返答の一種と受け取ったイリアも、また形式じみた笑いを返しながら、ゆっくりと一礼して彼女を舞台袖へ導いた。

 ぱたぱたと、少し駆け足で舞台袖へ去っていくシルヴェット、ローブの後ろでリボンがぱたぱたと揺れる様を、イリアは夢でも見るような面もちで見送った。彼女が去った後も、ずっと、ずぅっとみていたい衝動にイリアは駆られたが、帽子の端をぎゅっと握りしめて押しとどめ、観客席の方に向き直る。

 その表情を見て、女生徒たちは突如しぃんと静まり返った。

 彼女のその帽子で半分隠された微笑みが、まるでその身のすべての汚れが洗い落とされたような、ずぅっと背負っていた荷物をそっと下ろしたような……安らぎに満ちていたからだ。

 彼女たちは思い知らされた。いままでイリアがこの「集い」の場で見せてきた表情——それはいつでも微笑みと慈しみに彩られていたものだったが——それが、彼女の感情ほんの皮相しか見せてなかったということに。

「……諸君、僕は今まで君たちに苦労をかけた」

 シルヴェットは低く、けれどビロードのように柔らかな声で呼びかける。

「僕は待ち続けていた。このちっぽけな自分の心の中に、まことのつながり、他者との絆の芽を見つけようと、暗闇をはいずり回っていた。君たちの愛の形と、それが奏でる調和の響きに耳を傾けた。来る日も、来る日も……それは温かな日々でもあったが、むずがゆい時でもあった。君たちがいくら女の激情と愛欲を僕に見せつけようが、知性は満たされても、心は冷たいままだったから……けれど、それももう今日で終わりだ」

 所々で息を呑む声が聞こえる。彼女の言葉は、もはやこの会の集まりが終わり、彼女たちがイリアにとってはもはや「用なし」に成り下がることを意味しているから。

 しかし小さな水紋が大きな波に流されるように、彼女たちの間には落胆以上の熱量に満ちた期待がふつふつと沸き上がってきていた。ある物は自然に隣の女生徒と手を握り、ある者同士は自然に肩を抱き合う。イリアの言葉に腰を抜かしてしまわないように支え合い、身構える。

 そしてその言葉をイリアは放った。

「今日僕は確信した。僕にとって、シルヴェット・アルブレイツベルジェルとともに音楽をかなえることこそ、僕の唯一のだということを。諸君、今日から僕は彼女との絆を取り戻すために少しだけがんばってみようかと思う。君たちにはもう少し待ってもらうことになるが……長くはない。新世界への扉はもうすぐそこに迫っている。自分の言葉には用心深い僕だが、そのことはあえて断言しよう」

 そう言った瞬間、ホールを押しつぶすかのような轟音……もとい、涙混じりの歓声が爆発した。頭を振り乱し、口から嗚咽とともに垂涎し、ただただ叫ぶカオスの中から、イリア様、イリア様と呼ぶ声が生まれ、最後には称えよ、称えよ、と一つの意志でつき動かされているようにはっきりと何度も何度も唱和し、そのたびに舞台の壁が、骨組みがぐぁん、ぐわぁあんと音を立てて震え上がった。

 その狂乱の中で、イリアは満足したような顔を少しうつむかせて、自分のつぶやきを歓声にかき消させた。

「君たちと違って、そう簡単に成し遂げられるとは無邪気に信じられないけど……それでも僕はやるんだ。失われた世界を、この僕の瞳にもういちど焼き付けさせるために……」

 

 シルヴェットは気が付くと元いた茶会の場所に戻っていた。もちろん椅子もティーセットも消え失せて、机の足の跡すら残っていない。ただガス灯一本のみがぽつりと立っていて、もちろん灯かりはもう消えているのだが、何かぼぼんやりと残り火——そんなものはあるはずがないのだけれど——が燃えているかのように温かな色味を擦りガラスのフードがたたえている。そしてよく見れば、周囲はほんのりと明るく、夜はさっきよりも深くなっているというのに帰る道を見つけるのは思いの外難しくなさそうだ。さきほどは見えていなかった街灯も視界の角にちらりと入り、シルヴェットは胸をなで下ろした。

(もしかしたらあの不思議なハーモニーを耳にしたときから、私は知らぬうちにあいつの……イリアの「世界」に踏み入っていたのかもしれない……それでもこうやって穏便に帰してくれるってことは思いの外ジェントルマン……いや、ジェントルレディーってことかな?)

 シルヴェットが壁を見やると、さっきと同じように団子虫が夜闇などかまうもんかとかさかさうごめいて、なにか米粒のようなものを運んでいる。

(けれどこの世界、いくら演出を施しても、こういうところはカッコつけれないよな。まぁ、それがこの世界のいいところなんだけど)

 そう心の中でつぶやいて、シルヴェットはやべ、と口走った。

(もう遅い。バティストのやつ、今頃血眼になって探してるかもしれん。ここは私も少しはジェントルレディーなところを見せて、闘士に安息を与えてやらねば。そういや男はジェントルマン、女はレディー、いったい女の貞淑ジェントルさはどこにいったのやら……それとも女性がそもそも貞淑なのは言うまでもない、ってことか? それはそれで女を買いかぶりすぎだが……)

 シルヴェットはまた悪い癖、珍妙な好奇心が自分の頭を満たしていくのを感じながら、ふふっとほほえんでスキップを始める。それがリズムに乗れば乗るほど、あの劇場での出来事が、何か一枚の絵か映画のワンシーンのように記憶の中で遠ざかっていくのを感じるのだった。

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