第7話
午後になり、日が高く青葉を灼き、地面にくっきりと黒い影を映し出す。
そんな時分でも学内に人はまばらだった。入苑式にかこつけた全学休講で、一部の
その恩恵をシルヴェットは十分に受けることができた。本来なら今頃あちこちのパーティーに引っ張り回されてべろんべろん、右も左もわからなくなっていてもおかしくはない。
しかしバテイストが身代わりをつとめてくれたおかげで広い構内をほとんど独り占め状態なのだ。
数少ない校内を歩く学苑生で、シルヴェットの美しい髪に目を留めないものはいなかった。しかし何かのお偉方のゲストだと思いこんでいるようだ。ましてこれが渦中のシルヴェット・アルブレイツベルジェルであるなどと考える者は皆無。
「なんだ、この学校はシャイな奴らばかりだな」
「うーん……?」
サクラは答えなかった。シルヴェットと比べれば人類の98%はシャイに分類されてしまうような気がした。さらに、シルヴェットの外見の華やかさ、顔を見ただけでわかる性格の剛胆さがなおさら彼ら彼女らの人見知りを誘うとしても不思議ではない。
けど、人があまり近づいてこない理由はそれだけではなく、サクラ自身にもあるということは、本人が一番よく気づいていた。
まず、学内でこれほど女ながら男性用制服をすらりと着こなし、清潔な襟の端々にまで気品を充溢させて、セコイアの樹のようにすっくと背骨を立てているそのさま。無神経で無頓着な人間でも思わず気後れを感じてしまうほどの迫力がある。そんな王子様を絵に描いたような人間が幾らなまくらとはいえ剣を引っ提げてなんかいるものだから、その不可侵な空気たるやナポレオンをも思わせる。
もっともそれなら少しは一部の女性の人気がでても良いものだが……サクラ自身、頭に包丁を乗っければ自ずと研げてしまうほどの堅物だ。憧れよりかは怖さが先に立つという女子が多い。
アングロサクソンかケベック系が大多数を占める学内で日系が珍しいからという邪推も可能だが、その割に人種国籍関係なく男性にかなりもてるというのだから不思議だ。女性が近づかないのにはそこらへんのやっかみも入っているのかもしれない。
そう考えると、サクラの特徴的な容姿もまったくお構いなしのこのシルヴェットという人間にも男案外みたいなところがあるのかもしれない。
というより……
「なんだ、私の顔にカエデガの幼虫でもついてるか?」
「ついてたら自分で気づくでしょ……」
なにがあっても自分のペースを崩さないその姿、女性らしさとか男性らしさとかそういう枠を越えているような……
胸を張って歩くシルヴェットを見下ろしながら、サクラはそう感じるのだった。
「さぁて次はどこいく? プール? 学校にはでっかいプールがあるって聞いたけど!」
「まだ行くの……? この時期は水泳部用の室内練習場しか空いていないよ。というかこんな寒い時期に入ったら河童でもカナヅチに……」
サクラがそう言いかけたところで、シルヴェットが歩みを止めた。
「なぁ、あいつもおまえに告白しにきたのか?」
「……!」
サクラはがばっと顔を上げた。シルヴェットに気を取られていて気づくのが遅れた。そのことを後悔した。
棟と棟をつなぐ長い渡り廊下。その真ん中に、黒い影がぬらりと立ちのぼっていた。まるでこの世界の一角だけを切り取って、モノクロの切り絵をはめ込んだような。
三次元の中に迷い込んだ二次元。カリカチュア。幽霊画。そんな風体の男がひとり、燕尾服に身を包み、こちらに冷然とした瞳を向けている。
「サクラ様。ご機嫌麗しゅう。本日は珍しくサービスがよろしい……もとい、機嫌がよいようですね」
「タカスギ・・・・・・」
「はい。このタカスギ、おそれ多くも
そう言って彼は恭しく一礼した。
「なんだ、あいつも日本人か」
そうつぶやいたのにサクラは答えなかった。シルヴェットは少し怪訝そうな顔でちらりと傍らを見上げる。
サクラの顔にはあからさまな嫌悪が浮かんでいた。いや、嫌悪というよりかは軽い怯えといっていい。なぜなら、無意識のうちに彼女は腰のサーベルに指を引っかけていたからだ。
それを知ってか、彼――タカスギは、ほうと、小さく息を傍らに捨てた。
「心配しなくても、取って食うような趣味はありませんので。私があなたに危害を加えるつもりはないことは百も承知でしょう」
「何度もお前に私の前に現れるなと言った。なのにまたおまえはのうのうと姿を見せた。これは危害を加えられているのと一緒だ」
「それを言ったらお互い様ですよ。いや、それ以上です。私の願いを断ることによって、あなたは私どころか、国全体の未来を傷つけているのですから」
そう言って少し目を伏せると、漆黒の瞳がさらに艶を失い、まるでダルマの目のようにサクラを見つめた。
「なんだあいつ、おっかないなー……」
シルヴェットがそう声を上げたので、タカスギはほんの一瞬ちらりと目を向けた後、サクラに問いかけた。
「新しい、お友達ですか」
「へっ?」
サクラは素っ頓狂な声を出した。今朝会って校内を一通り紹介しただけの間柄を何のてらいもなく「友達」と言ってしまうのはなんだか気が引ける思いがした。
けれど、そんな彼女が逡巡する間もなく、
「友達だ」
シルヴェットはこともなげに言って見せた。
「てか、大親友だ!」
そう言って、ぐいっとサクラの腕を引っ張って見せる。
「ち、ちょっと!」
サクラは思いっきり顔を赤らめる。小さな身体の割に力が強い……というよりも、一挙動のひとつひとつに強い意志が込められているようで、振りほどけないのだ。
(し、しかしなんだこの恥ずかしい感覚は……! 今日会ったばかりの女の子にこんなベタベタされて、だからなのか? いや、でもそれ以上に……)
シルヴェットはそんなサクラの気持ちを知ってか知らずか、ふふん、なんて鼻を鳴らしながら得意げにしている。かと思うと、突然少し寂しげな表情でタカスギを見つめた。
「しかし、お前も大変だなぁ」
「……へぇ?」
そう首を傾げたのはタカスギではなく取り付かれているサクラのほうだったが、シルヴェットはタカスギのポーカーフェイスにもかまわずこう続ける。
「お前も女だったらよかったのに。男なんかに生まれたから、変な欲が出て、ストーカーなんてくだらないことの手を出す羽目になる。女同士ならさ、『友達になりましょう』『まぁ嬉しい』で終わるのに。ちょっとだけ同情するよ」
むろん、タカスギはそんな同情など視線で袈裟斬りにして即座に答えた。
「さて――私にはとても女性同士の間柄がそんなに単純明快なものとは思えないのですが」
「そうか?」
あっけらかんとした返答に、サクラは思った。世の女性はいさ知らずだが、ことシルヴェット・アルブレイツベルジェルに関しては本気でそんなシンプルな関係性のなかで生きているのかもしれない、と。
がっしり回された腕の感触が、何か妙に頼もしいもののように感じる。なんだ、この感覚。サクラはくらくらする。本来なら、自分が他人を守る立場、騎士であるべきはずなのに……
そうだ、
彼女は騎士になりたいがために、いま自分の目の前にいる存在を全力で否定しなければならない。
サクラはゆっくりと息を吸い込んで、せめて精一杯肺の皮をぴんと張り、タカスギに言葉を返す。
「何度も、言っただろう、タカスギ。私はお前と一緒には行かない」
サクラの全身に力が入ったのを感じたのか、シルヴェットは自然とサクラから腕を放した。
「私は騎士になる。この場所で。この国で。ここの国民として、そして日系人として……私の魂がそう決めたんだ。たとえ
「愚かですね……哀れみを引き起こすほど愚かだ。あなたはその感情が立派なストックホルム症候群だと知った方がいい」
ここまで来てやっとシルヴェットは「え? 恋の話じゃないの?」とつぶやいたが、二人はそれに答えるつもりはないようだった。
「あれだけ手厳しい差別を受けて、家も追われ、財産も失い……そんなむごい生活を強いたこの国に立てる義理など雀の涙ほどもない。いいかげん目を覚ましなさい。そうでないと罪だ――シラハセ・サクラ。刀はいくらでも研ぎ直せる。これからの新しい日本――『日本のための日本』の礎としてともに歩むのです」
タカスギの言葉にはまるで鉈を振りおろすような重みが込められていた。まるで命を削って言霊に置き換えているような。サクラはおもわずのけぞりそうになる心に檄を飛ばす。そして言葉を返す。
「確かに、あの時代のカナダ政府が良いことをしたなんて思うわけがない。そんなこと今やカナダ国民の誰も思ってない。そんなこと、思っちゃいけないことなんてわかってる、お前よりもわかっているんだ。けれど、それでも良くしてくれた人もいっぱいいたんだ」
サクラは自分が発する一言一言が、自分の本当の気持ちであることを確かめながら、ゆっくりと話しかける。
「それに、あのつらい時代、私たちの一番の願いは一つだった。『日系人の私たちを、カナダ国民として認めてほしい』ただそれだけだったんだ。日本で生まれたお前に私たちのこと、わかった風に語ってほしくはない!」
「確かにあなたたちは日系カナダ人と呼ばれています。けれど本当は日本人だ、あなたたちは。そのことから目を背け、気づいてない振りをしているだけなんです。それは、あなたの心が一番気づいているんじゃありませんか?」
「……」
サクラは強く心の殻を閉ざし、防御を固めた。いつも、そうだ。このタカスギという人間には、感情の緩急だとか、揺れだとかいうものが全く見えない。おおよそ、「交渉人」とかいう立場とは相入れないもののように思える。
相手から相応の好意――という名の譲歩を引き出すため、人はまずこちらから何か譲歩をちらつかせたり、報酬を提示したりしようとするものだと思う。けれど、このタカスギに限ってはそれがない。ただ、あなたは日本人だ、だから日本に帰るべきだ、その一点張り。まるで合意に必要なコミュニケーションを放棄していると思われても仕方がない。
しかし、これがサクラにとっては厄介だ。考えうる相手の出方の中で、一番対応しづらいのがこれなのだ。
(人間、相手が手管を尽くして自分に「YES」と言わせようとしているときはよほどの天然でない限りわかるんだ――相手が「下心」を持っていることぐらい。それでもYESと言ってしまうのは、結局人間、その下心が心地いいからだ。たとえまやかしでも、奴の言葉の10割弱が空虚な定型のおべっかで占められていたとしても、ほんの少し「それらしさ」を振りかけるだけでその空虚に笑顔で飛び込んでいくような……そんな人間がたくさんいることを、私は知っている。私だって比較的若輩だが、学苑の――こんな神仙か魔物の窟の一員なのだ、それくらいの厭世観は持ってる。けれど私は断じてそんな奴らと同じじゃない。自分の誇りと喜びくらい、自分の手で勝ち取ってみせる。私は自分自身を信頼し、自分の正義を信じているからだ。だが……)
サクラはタカスギの目を見た。それは冷酷とも、激情とも、沈思とも違う。あまりに削ぎ落とされすぎているから、サクラの経験と語彙ではタカスギの観相を言い表すことはできない。
(……似ているんだ)
サクラは認めざるを得ない。
(今まで、騎馬警察の一員になるという私の夢に文句を付けてきた奴の声なんて少しも聞こえなかった。私の中でそいつらは、同じ土俵で戦うべき人間とは思えなかったからだ。けれどこいつは、私の真っ向に立って、塩を撒き、正々堂々と仕切り線に手を置いてくる。私の信念に、こいつの信念でぶつかってくる……私と同じくらい、いやもしかするとそれ以上にこいつはバカまじめなんだ。だから、やりにくい)
そんなサクラの心を察してかはわからないが、タカスギの口調はさらに力強さを増していく。
「あなたの言う騎士道精神とやらも、国と市民を守りたいという強い情熱も、国民の範たる気高き姿を示したいという高潔さも。すべて名と装を変えれば一言に凝縮されます。『大和魂』それだけで十分なのです、サクラ・シラハセ。あなたが頑と主張するその『夢』こそが、あなたが日本人であること、日本に身を捧げることこそあなたにとっての救いであるなによりの証拠なのです!」
「……」
サクラは言葉を返すのをためらった。何か、迂闊には返せないような、そんな妙な迫力がこの男には、ある。
(別に、奴の言うことに納得している訳じゃない、けど……私にはわかる。私が引きさがれないのと同じくらい、いや、認めたくはないがもしかするとそれ以上に、こいつは自分の生き方に迷いがない。だから、途方に暮れてしまうんだ。私は誰にも私の心を殺させやしない。でもだからといって、こいつの心を殺すなんて……)
まるで二人は見つめ会うふたつの城壁のようだった。兵士が互いの頂にのぼって言葉を浴びせかけるが、いっこうに城門を開き、兵を出すことはできない……永遠に。
そんな膠着状況の中で……
「……」
シルヴェットはぶすっとした顔で腕を組み、二人の間にたたずんでいた。
「……、…………」
二人の視界をふさぎ、時折まばたきをしながら、眉間の間にじりじりと力を溜めているのがわかる。
「……わからん!」
シルヴェットは真っ二つにしたキャベツの断面みたいに顔をくしゃくしゃにした後、くわっと言い放った。
「いったい何を言ってるんだ? 日本人っていつもこうか? さっきから妙に理屈っぽいことばかり話してる気がする。良い車を、テレビジョンをたくさん作れるのもそのせいなのか? わからん。
シルヴェットはそう言ってタカスギに向き直った。
「人にものを頼むときはもう少し、なんて言うか、言い方があるだろ! 何だよ、何が『いい加減目を覚ませ』だ! お前はサクラに一つ夢を捨てさせようとしてるんだ! それが悪いことだとは思わない、思わないけど、それは大変だ、とにかく大変なことなんだぞ! そう、優しさが、優しさが足りないんだおまえは! 確かに最近甘い奴が多いかもしれないが、それにしても、それにしてもだ、まずはその怖い顔をやめろ! わかったか!」
タカスギは何も返事せず、ギリシャの彫刻のように微動だにしない鼻筋を見せつけていた。けれどもシルヴェットは言っただけで満足したのか、ふぅ、と息を吐くとそのままサクラに振り返った。
「そんでサクラ!」
「は、はいっ!」
サクラはシルヴェットがタカスギに説教するのを唖然と眺めていたので、自分に矛先が向けられることにはちょっと無防備だった。
「なんていうか、なんか……真面目か! なんで奴の言うことにマジになって答えようとしてんだよ!」
「え、えっ、でも……タカスギだって真剣なんだし」
「バカたれっ!」
シルヴェットは少し背伸びして、ゆるいチョップをサクラの頭に叩き込んだ。サクラは「うわっ」と目を閉じて、後ずさる。まったく勢いのない遊びみたいな攻撃なのに、なぜか痛く感じた。
「あいつを理屈で止めようだなんて思うもんじゃない。人間が論理や道理だけで動くってんなら、それは
「・・・・・・」
サクラにとってはタカスギの瞳は相変わらずの奈落で、得体の知れないものにしか見えない。シルヴェットには違うものが見えているのだろうか・・・・・・?
「ここまでくると後は理屈じゃない。情の世界だ。夢を与えるのが情熱なら、それを変えられるのも情熱しかないんだ。だったらこいつはサクラの夢を変えたいと頼みこむ側だ。なのにこいつは礼を失した。だから、サクラはこいつの言うことを真面目に聞くことはない。同じリングにあがることはないんだ……サクラ、自分の夢をそんな簡単に賭けに出すもんじゃない」
シルヴェットが言い終わったあと、サクラもタカスギも何も言わなかった。タカスギはそもそもシルヴェットと会話するつもりさえないようだったが……
(理屈じゃない、たしかにそうだ。だけど……)
サクラにとって、シルヴェットの言うことはとても正しく思えた。頭でも、心でも。
(でも、そうじゃない。私がこのタカスギという男と張り合わずにはいられないのは……)
怖いから。この得体の知れない男に、自分の夢ごと、自分の存在そのものがかっさらわれてしまうのではないか。タカスギと会うたびに、そんな妄想じみた不安が胸の奥から沸き上がってくる。その雲を払いとるためには、精一杯理屈をこねて、強がって、ガチガチ防御を固めているつもりにならないと……怖くてしかたないのだ。
そうサクラは告白してしまいたくなった。けれどだめだ。
タカスギに弱みを見せたくないから? いや、不思議なことにそれよりも、シルヴェットにそんな心をさらけ出すのが恥ずかしいという気持ちが別の雲となっていまは胸の中で混ざりあっているのだ。考えれば考えるほど、心の景色は色を変えて、ぐちゃぐちゃになって、身動きがとれない……
「大丈夫だ」
呼びかける声に、サクラははっと目を開いた。
いつの間にかまた、シルヴェットががっしりとサクラの腕をつかんでいた。
シルヴェットは穏やかな笑みをたたえて、タカスギの姿を眺めている。少しの緊張もない、人が人を宥めようとする時のあの独特の力みもない、くつろいだ表情。
「私がいる限り、サクラの夢は誰にも壊させないさ。サクラが忘れても、私が覚えてる。だって・・・・・・」
そう言って、またゆっくりとサクラを見上げた。
「親友だからな」
「シルヴェット……」
サクラは少し声を震わせた。
音が聞こえた。
澄んだハーモニー。ピアノの弦に絡まっていた異物が取り除かれたような。ずっと忘れていた音を、思い出したような……
貝のように閉ざしたサクラの心。そのほんの隙間から、じっくりとシルヴェットの優しさが、穏やかな心がしみこんでくるのを感じた。
あぁ、駄目だ。
サクラは心の中で叫んだ。
「シルヴェット、君は……」
そうサクラは言いかけた。
そのとき。
「くぅう~おらぁーーーーーっ!」
まるでバイソンの群のような足音を一人で響かせながら、近づいてくる黒い影があった。
「お前等、シルヴィーに何してくれてんだぁあああーっ!」
「なっ、何だ!?」
そうサクラが引き気味に叫ぶのと同時に彼は――バティスト・メセンスは助走をつけてこちらに飛び込んでくる。ちょうど三段飛びの要領できれいフォームで1・2・3と流れるように跳躍……という風に見えたのはサクラの錯覚で、実のところバティストは途中でつま先をピカピカに磨かれた学苑の床にひっかけて体勢を崩し、そのまま前のめりになりながらも、この勢いを利用すれば威力が上がるんじゃないか? という恐ろしいほど機転の良い素人考えを編み出して、精一杯の跳び蹴りをサクラに食らわせようと、獲物に襲いかかるプーマのポーズを芸術的に決めて見せた後、五センチほど浮き上がってそのまま顔ごと地面に飛び込んでいった。
「え、えぇえっ。なに、何が起こった!?」
サクラはここまできても真面目すぎる気質を存分に発揮して何かの罠ではないかと身構えていたが、
「あー大丈夫。こいつ、身内だから」
そんなシルヴェットの苦笑いを聞いて「えぇ?」とかわいい声を出した。
バティストは黒い鼻頭を真っ赤にしながら立ち上がると、客にアピールするラッパーのように人差し指をぴんと前につきだしてぶんぶんと振り回した。
「おい!」
だんだん頬っ面も紅潮してくる。
「お前ら、俺の……」
言いかけて、一瞬静止。指先も誰を指すでもなくふわりと漂っている。たまたまそこに通りかかった霊が不意をつかれて「えっ、俺!?」と声を上げたが、もちろん誰にも知る由がなかった。
「俺の……?」
バティストは一瞬自問自答したあと、周囲の生ぬるい視線に気づいて「と、とにかく!」と強い声を上げた。
「シルヴィーに近づくんじゃねぇ、このケダモノども! どうせシルヴィーの優しさに勘違いして、どちらがふさわしいかって取り合いになったんだろうが……安心しやがれ、シルヴィーはな、お前らのことなんてほんの少しも眼中に――」
そう言いかけたとき、まるで銃声のように澄んだスパァーンという音がその場に響きわたった。
「い、痛ったぁーっ!?」
バティストは思わずお尻を抱えてうずくまった。サクラもおもわず「うわ……」と声をあげてしまうくらい強烈に、シルヴェットは自分の履いていたローファーでバティストの臀部をひと思いに打ち抜いていた。
「駄目だぞ、バティスト」
えげつない仕置きとは裏腹に、シルヴェットの口調はミディアムレアを頼んだらレアを出されたというくらい、ほんのわずかな拗ねが混ざっているくらいだ。
「
けれど、その言葉を聞いた瞬間、バティストは座禅を組む僧のようにぴしりと背中を伸ばした後すっくと立ち上がって、そのままシルヴェットの背後に回ると、パルテノン神殿の柱のように物言わぬ棒になってしまった。
「入苑式の首尾は?」
シルヴェットが聞くと、バティストは一度生唾を飲み込んだ後、
「……上手く行った。ばっちりだ」
そう言ってまた沈黙。せっせと生唾を口の中に溜め始めた。
そんな蛇ににらまれたカエルにシルヴェットはほんの少し笑ってみせる。
「さすがバティだ」
それだけ言うと、背後にバティストを従えたまま、くるりと向き直った。
「すまないな、二人とも。うちのが失敬して」
「こいつは……」
サクラは初対面の人物を「こいつ」呼ばわりした自分に驚きながらも、バティストを怪訝そうに見つめた。
「バティストは、私のノアだ」
シルヴェットはさらっと言ってみせる。
「だから、こいつが起こしたことはすべて私に責任がある。私が起こしたことの責任もある程度こいつにある。ま、二人ともどもよろしくってことだ」
「ノア……」
サクラはシルヴェットが言った言葉の意味をよく反芻しながら、もう一度バティストの顔を見た。
その表情には明らかに覇気がなく、体格もひょろひょろして頼りない。無理にぴんとのばされた腕の筋肉は、ときおりぴくぴくと震えている。
ただ、瞳の奥にある棘のような視線だけが印象的だった。
すると、バティストが来た道の向こうから聞きなれた声が響いてきた。
「すまんすまん、なら俺も謝らなきゃいけないな。どうもうちのバティストが粗相して」
「る、ルネ!? どうしてここに!?」
「やぁ、サクラ。ラフレシアは摘めたかい?」
予想外の人間だったということもあるが、それ以上にこの場をルネに見られるのがひどく恥ずかしい。けれどなぜそう思うのか、自分がこんなに動揺している理由がわからなかった。
「ちょっくらバティストとマブダチになったのはいいものの。いや、予想以上にこいつ、なんてか、愛情の深い奴だな。俺の経験測から言わせると、愛の深い奴に悪い奴はいないんだ。ただちょっと周囲よりも早く走りすぎてしまうだけで――俺からも軽く謝っておくよ、ほんの軽く。だからどうかお二方は大目に見てくれないかな? そうすればアフリカの非識字者100人にノートと鉛筆を送ることができる」
「そんなことはいい!」
サクラはあからさまにたどたどしい声でルネに詰め寄った。
「どうしてお前が、シルヴェットのノアなんかと知り合いになってるんだ?」
「お嬢さん、それはこっちの台詞よ?」
ルネは大げさに肩をすくめて見せた。
「今や学内で知らぬものなし、なのに見たものもなし。入苑初日で都市伝説と化した『最後の入苑生』と、いつのまにしっぽり仲良くなっちゃんてんの」
「い、いやこれは……成り行きというか、不可抗力というか」
「あぁ、なるほど」
ルネはパン、と手をたたいて合点した。
「
「かっ、からかうな! いくらルネでも怒るぞ!」
「わお、ご褒美?」
「お前な……」
サクラは顔を真っ赤にして拳を握りしめる。こういうときは刀に触れないんだな、と隣でシルヴェットが見つめているのにも気づいてないようだ。
「わざわざ私をからかいに来たのなら、今すぐそのマブダチとやらを連れて帰ってくれないか」
「なぁに、今はそこのタカスギ師範に用があって来たんだ。あ、もちろん俺自身はいつでも、四六時中サクラといちゃつきたいと思っているけど? それはまた後でじっくりとな。その白磁のような頬とガーネットのような髪を撫でてかわいがってやるから」
「牛乳石鹸のお腹でもさすっとけ。しかしどうしてお前がタカスギに?」
「タカスギ先生は魔術師だからな。東洋の神秘ってやつだ。だからちょっとその秘法のひとかけらでもこいつのために伝授いただけないかと思って」
ルネはバティストがブノアという少年の決闘を受ける羽目になったいきさつを端的に説明した。その間バティストは股間の前で両手を組んだまま、まるで自分のことではないようにそっぽをむいていた。他人事のようなのはシルヴェットも同じで、聞いているのか聞いていないのかわからないくらいむすっとした表情をまったく崩さなかったが、ルネが話し終わるやいなやにかっと口角を上げて後ろのバティストへ振り向いた。
「面白いことになったじゃないか、バティスト」
「あぁ、とても楽しいことになった」
バティストが憎々しげに言うと、シルヴェットは何か満足そうに目を細めてみせる。
「本気を出してくれるんだろ? 私のために、久々に!」
「さぁ? 俺のやる気次第だ。もし興が乗らなかったらおさらばだ」
「あー楽しみだなー。バティって必死になるなんだかんだ言って格好良いし、頼もしいし、面白いもんな!」
サクラは会話の緊張感のなさに思わず足から力が抜けそうになった。ルネはというと、さっきのバティストの吐露を聞いていたぶん、バティストの頬の端に絶えず浮かんでいた力みを見逃さなかったが。
(というか、さっきあれだけの啖呵を俺に切っておいて、本人の前では気取ってやがんの。ま、シルヴェットちゃんならそれくらいお見通しでもおかしかないが、心地いいんだろ、お互い)
そしてタカスギはというと相変わらずの無表情。まるで何も聞いていないように動かないが、その周囲に満ちる気品と風格は、木偶というより木鶏の空気がある。
「それで、この男に稽古をつけろと?」
「イヤか? こいつらが払わないんなら俺が報酬を払わんでもない」
「嫌ではありません。かといってそこまで乗り気でもありませんが。これが私の仕事ですので」
「そこんところをお願いしたいんだよ。決闘の仕組みや創世力の使い方なんて平々凡々の無難なレクチャーだけじゃダメだ。こいつには時間がない。きっちり、明日の午後5時の決闘時刻までに、こいつがブノア・アンテノールに勝てる方法を編み出してやってほしい」
「そこまでする義理はありませんし、それは不可能です」
タカスギはきっぱり言い放った。
「一夜漬けは嫌いか?」
「イカなら好きです」
「ならちょうどいい。実はこいつもイカなんだよ」
「こんなに黒い烏賊は見たことがありません」
「墨でも吐いたんだろ」
「おい、ちょっと!」
しびれを切らしたサクラが二人に割って入った。
「なんでこんな奴にシルヴェットのノアを紹介しようとしてるんだ」
「何でって、サクラ。お前の知り合いでこいつ以上に腕の立つ講師なんているか?」
「確かにこいつの腕は信頼できるかもしれない。けれど心は信用できない」
「お前にとってはな。けれど客観的に見れば、こいつほど義理堅い奴も珍しい。与えられた対価分、いやそれ以上の働きはきっちり返してくれる。ま、その分余計なことはまるでしないが、その方が下心が見えない分好ましい」
「だっ、駄目だ……!」
サクラは声を荒げた。その大きさに、シルヴェットが「わっ」と小声でのけぞる。サクラはそれを聞いて一瞬怯んだような顔を見せたが、意を決したようにルネの片襟を鷲掴みにして、言った。
「これ以上、シルヴェットをこっちに招き入れるんじゃない・・・・・・!」
サクラの顔は必死に睥睨の相を作っているが、その下にある何か怯えのようなものを隠し切れていない。
ルネはその顔をじっと眺め、少し、ほんの少しだけふふっとほほえんだ後、なにも答えずにタカスギに振り返った。
「どうだ? お前にとって悪い話ではないと思うが?」
タカスギのあっけらかんとして表情とタカスギの彫刻然として顔がしばらく向かい合う。視線も動かさず、瞳に移る光の色さえも変えないまま、タカスギは口を開く。
「今回のことで、人が悪いのはルネ・アンリ、あなたです」
「わかってる」
「なら、稽古を付けましょう。今すぐにね。バティスト・メセンス、私の好意が無駄骨に終わらないように、せいぜいがんばってください」
「だ、そうだが……」
バティストはシルヴェットをちらりと見下ろすと、彼女は何のためらいもなく親指を上に立てて見せた。
「グッドラック」
「はぁ……少なくとも俺の得意なタイプじゃないんだが。仕方ないか……」
「おい! おいって!」
サクラはさっきからしきりに声を挙げていたが、誰も反応しないので半分泣き声のようになっていた。しかし、タカスギとバティストが校舎の中に消えるのを見届けると、力が抜けたようにその場にへたりこんだ。
「シルヴェット、どうして……」
どうして、あんな得体の知れない男にバティストを任せたのか。利用される可能性なんてまるで全く考えないみたいに。そもそも、どうして自分のノアの「決闘を受ける」という選択に全く反対しなかったのか。続く言葉を出そうとしたが、何かのどが押しつぶされたように声がでなかった。自分のなかでこれほどまでに大きくなっていたのだろうか、タカスギの存在感というものが。
タカスギの? いや、たぶん、これは……
「大丈夫だ」
シルヴェットはそう言って、サクラの頭をぽんぽんとたたいた。
「バティストは強い奴だ。確かに体はひょろっちいけど、心は違う。情けないやつ、弱虫だってみんな言うけど、それはいざという時のために心のバネに力を蓄えているだけなんだ。見てろよ、サクラ。奴は必ず勝つさ、ブノアにも、タカスギにも……だって」
シルヴェットは腰を屈めて、サクラの顔を横からのぞき込んだ。
「バティストは、私にとって、ヒーローだからな」
屈託なく笑うシルヴェット。その表情を見て、サクラは全身から毒気が抜けていくような感覚になった。
シルヴェットの手。ほんの小さな、かわいらしい手なのに、いまサクラの頭に乗せられている手は、ルネのものと同じくらい、いやそれ以上に、暖かく大きく感じる。
心の安らぎ。彼女のローブから漂うハチミツと葉巻の香り。そして彼女がバティストについて話すたびに下の付け根で小さく爆発する、胡椒のようにぴりぴりした気持ち……
サクラは何度も何度も再確認する。あぁ、この気持ちはまるで……
この瞬間、サクラにとって守るべき存在が一人だけ増えた。重荷には思わなかった。むしろ、何か空を飛んで風を切っているような心地……
春の嵐が、サクラの心の中に吹き荒れていた。
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