第8話

「ルネ、私は——」

「あー……」

 サクラが話しかけようとした出鼻、ルネがふぬけた声を出したので、彼女の決死の告白は喉元で押しつぶされた。

「……なんだ?」

「いや、ごめん、なんでもないさ。サクラこそどうした、思い詰めた顔して? あ、もしかして俺への愛の告白?」

「誰がするか!」

 サクラはほつれたセーターの毛糸のように声をくしゃくしゃにした。

「お前私のことバカにしてるだろ、そこそこ。確かに私はがさつかもしれないが、他人に思いを伝える時と場所くらい心得ている」

 日は傾いて、平日でもそろそろ課外活動が終わりかけているはずの時刻だ。

 だがサクラとルネが所属する馬術部は今日活動がないので、部室には二人だけだ。それでも独特の獣臭さが充満しているものだから、ロマンティックな雰囲気とはほど遠い。

「そう? 俺は別にかまわないが? 可愛くてついでに俺のことを好いてくれる女の子がいれば俺はいつでもハッピー。でもまぁ、サクラの気が乗らないっていうなら、また今度に期待しておくよ」

 いつもならここでサクラがもう一言二言茶々を入れるところ。だが彼女はそれをぐっとこらえて、左効きの手のひらでぐしゃりとポケットを鷲掴みにした。

「悪いがルネ。その期待は永遠に果たされることはない」

 そして、もう一度気合いを入れ直すように息をした。

「なぜなら——」

「あー、なぜなら?」

 ルネはわざとその膨らんだ気合いにとげとげした声で針を刺した。

「ずばり、好きなんだろ? あのシルヴェットとかいう新入生が。バレバレだって」

 サクラは目を点にしてぴたりと固まった。ゼンマイを逆向きに巻き上げてしまったオルゴールのように。ゼンマイが壊れて動かない、そんな感じ。

「ど、どどどどうして……」

「あのな、俺だっていったん我慢したんだぞ? サクラがちゃんと決心をしたんだったら、今回ばかりは意地悪をやめてお前の口から決心を聞こうじゃないか。そんなおもんぱかりでこの欲望にまみれた俺が自制を……あぁ、俺の脳味噌からこんな概念が飛び出すなんて驚きだった、して無粋を言うのをためらったのに、お前と来たら何が『その期待は永遠に果たされることはない』だ。格好付けた言い回しで、俺の綿菓子みたいにデリケートなハートに熱々のエスプレッソをぶちまけやがって。こうなったら目には目を、恥には恥をだ」

「そ、そういう意味じゃない! あぁ、私としたことが、そんなに態度ににじみ出ていたのか? あぁ、恥ずかしい。穴があったら埋まりたい……」

 サクラは顔を覆ってうずくまった。すると腰に下げていたサーベルが地を打ち大きな音を出したので、「ひゃっ」と声を出してそのまま中腰で固まった。

 ルネは笑いをこらえながら言った。

「あきれたな……あの男どもを言語道断でばっさばっさ切り捨ててきた処女峰のサクラ・シラハセがまさかあんな小娘一人にこの体たらく……いったいどういう運命のいたずら? どんな風の吹き回しだ? お前は確かに男っぽくはあるが、それでも恋愛に関してはヘテロだとは思っていたが」

「……わからないんだ」

 顔を覆ったままサクラは絞り出す。

「そもそも、今の自分の気持ちが何か言葉で表現できるのかさえよくわかってないというのが正直な気持ちだ。私は今まで恋なんて感情とは無縁だった。この国カナダに身を捧げる覚悟はあっても、何か特定の個人に同じくらい深い感情を抱けるものだろうかと疑っていた。そういう感情が、何か不健康なもののようにさえ思ったこともあった。ただ……私もとしを重ねればいずれ誰かと心を通わせ、結ばれるかと、そう霞のように曖昧な未来予想図を描いていただけだった」

「ところが、あの機関車娘がその霧をみんな追っ払っちまったわけだ」

 サクラはネズミの会釈のようにほんの少し首を前に降った。

「たぶん今でも、私は同性愛者ではないと思う。そう思わないと失礼だ。だって今の今まで女性に対してこんな気持ちを持ったことはなかったからだ」

「けど、男にもなかっただろ?」

「確かにそうだ。けれど私は、仮にシルヴェットが男だとしても同じ感情を抱いただろうと、そう確信している」

「その仮定はだいぶん無理があると思うが……まぁこの際いいや。それで?」

「私は……シルヴェットという存在すべてを守りたい」

 サクラは覆った顔を隙間から、爛々と揺れる瞳をのぞかせた。

「これを騎士道と呼んでいいかはわからない。すべては私の独りよがりなのかもしれない。でも、そうだとしても……。そんな気持ちが無限にわき上がってくるんだ。まるで心の水脈を掘り当てたみたいに……今ほかに言えるものは、ほとんどない。この気持ちがたぶん私のすべて……」

 ルネは途中から葉巻でもくわえるみたいに口に手を当てて話を聞いていた。そして、サクラが自分の言ったことの大胆さにルネと目を合わせられないでいるのを目の当たりにすると、憮然とした表情を隠すように今度は両手で口元をがばりと覆う。

「いや、すまん……なんてか、正直最初は笑って聞いてたんだが。そこまでまっすぐな気持ちを聞いちまうとこちらとしては言葉が思いつかん。いや、確かにお前は生真面目ってか、頭と腹筋と股ぐらが一年前の焦がしたドイツパンみたいに堅い奴ではあった。だが、そんな熨斗付きで王室御用達の生娘が……」

「きっ生娘は余計だ」

「じゃぁこう言い換えよう。地獄の釜でぐつぐつ煮込まれみたいな固ゆでハードボイルドの女騎士が、ただの恋一つで焼く前のフレンチトーストみたいにふにゃふにゃになっているのを見りゃぁ……何だろうな、ポワティエで祖国がイングランドに負けたときと同じ気持ちだよ。俺にとってはそれくらい衝撃だね」

 サクラはルネの言葉にもう少しでそっぽをむきそうなほど顔を赤くしたが、めいっぱい心の標準を定めてルネを見つめる。

「私は何も変わっていない。愛するものを、国を、人を守りたい。それだけだ」

「あいつぁ守られるって柄じゃぁない気がするけどね。それにしたって、あいつには元々ノアがいる。バティスト・メセンスっていう立派な預言者がな」

「……シルヴェットには悪いが、私にはあいつが彼女を守るに足る存在だとは思えない」

 サクラの表情が羞恥から、少しの憤りの色に変わった。

「というかいったい何なんだあいつは。服はぼろ切れ、顔も声も覇気がない、姿勢の悪さといったら三角定規でも見てるようだ。あんなにだらしない男この学苑にはいないだろう。ロンドンの地下鉄の隅で寝っころがっているくらいの手合いだろ、あれは」

「で、そんな奴がシルヴェットのノアで、いつも一緒にいるのが気に食わない。ぶっちゃけ嫉妬するってか」

「……悪いか」

「言うねぇ」

 ルネが口笛を鳴らすと、サクラはあからさまに眉をぴくぴく怒って見せた。

「そもそも、私はタカスギもバティスト・メセンスも気に入ってないが、今一番怒っているのはルネ、おまえに対してだ!」

 そういって鼻先にずいっと指を突きつける。

「あろうことかタカスギみたいな底知れないやつにシルヴェットを巻き込もうってのか、お前は! あいつは危険だ。どう利用されるかわかったもんじゃない」

「なぁに、ならこっちから先手を打って利用してやった。それだけだ」

 ルネのしれっとした答えにサクラはため息をついて、自分の黒髪を梳くように頭を押さえた。

「……足下を見られるぞ。今の私にとってシルヴェットは弱みだと、確実に奴は思うだろう。シルヴェットがタカスギと懇意にでもなれば、私はタカスギのことを無下にはできなくなると踏んでいるかもしれない。いや、シルヴェットやバティスト自身、人質にされたり、何かの担保にとられたり……タカスギはそういう奴だ。手段は選ばない」

「奴が本当に手段を選ばないやつなら、いまごろお前は簀巻きにでもされてるだろ」

「簀巻きって……」

 サムライ映画でもあるまいし、という言葉をサクラは飲み込んだ。

「まぁ奴の能力なら騎士一人誘拐することはたやすいだろうが……」

「認めるのかよ」

 ルネは苦笑しながらぽんぽんとサクラの横顔を叩いた。

「さっきあれだけの啖呵を切っておきながら、変なところで弱気なんだから。まぁ、そこが可愛いといえば可愛いけど、もうそんな風に言われるのは飽きただろ? きれい、とか可愛い、とか」

「……飽きたと言えば謙虚じゃないが、正直好きじゃない」

 サクラはむすっとしてルネの腕を払いのける。

「お前にも、ほかの男にもだ」

「ならもっと自信を持たなきゃ。自分を信じろ。さっきだってお前はシルヴェットが弱みだって言ったが、それだけじゃないだろ? 少なくとも、さっき俺に話してくれたときのお前は、ちょっと格好よかったぞ」

「……素直に喜べないな。少しでも顔をほころばせばまた可愛いと言われそうだ」

「強がってもそれはそれで可愛いから一緒だ」

 そう言ってもう一度、今度はぽんぽんと頭を叩く。

「サクラ嬢よ、シルヴェットはお前にとってだ。もしあいつと出会ったことが運命なら、たぶんお前はあいつの傍らで今よりずっと強くなれる。でも、そのためにはあいつを、バティストを越えなきゃならない。だから、よく見ておけよ、今度の決闘を。もしバティストが負ければ、お前がブノアに決闘を挑み直して、シルヴェットのノアの座を奪い直せばいい。お前とタカスギの関係は良くも悪くも有名だ、タカスギの弟子と偽って、敵討ちの体で挑めば文句はないだろ」

「お前、そんなこと考えて……」

 驚きと非難の入り交じった声を、ルネは「でも」とかき消した。

「もしバティストが勝ったなら、よく目に焼き付けておくんだな。お前が乗り越えなければならない壁の高さってやつを……」

「……」

 サクラはもう一度、ルネの腕をぱしりとはねのけた後、部室を早足で出ていった。

 そして隣の厩舎で自分の愛馬に鞍をつけると、そのまま大きくいななかせて一気に馬場を抜け出す。

 自分の寮へ向かう坂道をかけながら、サクラは考えていた。

「バティスト・メセンス——あいつがどれほどの男かはわからないが、もしルネの言うようにただの男でないならば……」

 サクラはつまずきそうになる思考をなんとか引き起こしながら、自分に言い聞かせる。

「いや、何も考えるな。私はサクラが幸福になる道を選ぶべきだ。私の幸せでも、ましてやあの男の幸せでもない。私は何も変わっていない。私は私のまま、騎士のまま、彼女を愛するんだ。ルネにそう言った。そうなんだ……」

 胸騒ぎがした。自分が悩みと不安のなかにあるのも感じた。

 けれど悪くない気分だった。

 人生のなかで、悩むことが楽しいと考えたことなんてなかった。そう思うと、今までの悩むことがと思っていた自分がなにかひどく滑稽なように思えてきたけど、やっぱり真面目な自分は何を思っているのだろかとそれを必死に打ち消しもする。けど、そんな思考そのものもすべて、なにか小気味いい。

 袖を風が通り抜ける。ペガサスにでも乗ったような気持ちだ。いや、翼が生えたのは自分かも。

 このまま風になって、今すぐにでもシルヴェットに会いに行きたい気持ちだった。

 

「あいつ、馬に乗ったまま帰りやがった……」

 ルネは一瞬はにかんだ後、ふと真剣な表情に戻る。

「さて、俺は果たしていいことをしたんだろうか? 悪いことをしたのか? サクラとバティスト、両方の肩を持つようなまねして……でもこれはひょっとすると、逆に両方に対して裏切っているともいえるが……いや」

 ルネは荷物を持って立ち上がる。

「俺は俺の良心に従ったまで。そもそもまともな良心を持っているやつなら、一人の人間にいれ込むなんてなこと、臭くてできるはずないんだ。なぁ、俺様よ……」

 そう言って壁にぶらさがっている馬蹄を棒で叩く。

 水晶のように澄んだ音が部室に広がった。

「本当にいかれた奴だったぜ、お前……」

 馬蹄の音に乗り、部室の塵に紛れ、ルネは心の澱が自分を離れ、どこまでも広がっていくような気がした。そのさっきまでの自分の心の汚れは天高く上っていって、太陽の光を浴びていつかきらきらと輝く星座になるのだ。

 ルネは深呼吸をしながら、ずっと、ずっとそんな想像に身を浸していた。

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