第6話

「――学苑に入学して一日目の新入生に対して決闘を宣言するとは、これまたブノアの坊ちゃんも思い切ったもんだ」

 ルネは口に手を当てて笑いを噛みしめている様子だった。そんな彼をバティストは寝不足のカバのような目で見つめる。

「何だよ、他人事なら他人事でいいが、それなら他人らしくどっか去ねよ」

「すまんすまん。なぁに、ブノアの坊ちゃんのあまりの人間くささに思わず鼻をつまみたくなっただけだ」

「そういうお前も相当俗人臭いと思うぜ」

「自分の体臭を全くの不感症な人間でも、他人の臭いには犬のように敏感になるものさ」

「そんなもんかねぇ」

「そんなもんさ。あと、ブノアごときにビビってるお前がなんだか微笑ましい、っていう親心みたいな?」

「何だよ、気持ちわりいな……」

 バティストは片頬をゆがめて嫌がってみせる。

「確かにお前はちょっと少し俺よりか先輩かもしれんが……俺は目で見ることしか信用しないからな。少なくともお前はそこらへんに転がっている学生にしか見えない」

「おもしろい話だな、お前さんの故郷では道ばたに学生が石ころみたいにごろごろ転がっているのか」

「……」

 バティストは沈黙した。

 ルネはいつも通りの軽口をたたいたつもりだったのだが、バティストの微妙な瞳孔の動きで、彼が瞬時に何か違う場所に飛び立ってしまったことに気づいた。

 バティストの脳裏には、コラージュのように次々と切れ切れの映像……切れ切れすぎて、それはほとんどイメージといっていいものだが……が浮かび上がっていた。

 道ばた。野草。砂利道……

 叫び。銃声。血……

 転がる学生……

 叫び。叫び。叫び。シルヴェット。叫び……

 離岸。叫び。血。まなざし。唾液。血……

 血。血。血。シルヴェット。血。血。叫び。血……

 青。青。青。シルヴェット。青。シルヴェット。シルヴェット。シルヴェット……

 シルヴェット。

 シルヴェット……

「……そんなわけないだろ」

 そうバティストが答えるまで、ルネはほとんど大きな声で彼を呼んで、肩を持って揺さぶってしまおうかと思っていた。それくらい、バティストは何かこの世のものを見ているようには思えなかったのだ。

「お前、大丈夫か」

 ルネに問いつめられたバティストは、その質問には答えなかった。

 代わりにふと洩れた言葉。

「……ありがてぇ」

 ルネは長年生きてきてはいるが、これほど飾り気のない感謝というものを聞いたのは、ずいぶんと久しぶりだった。

「俺はな、本当なら、とっくに終わっていてもおかしくない人間なんだ。壊れるか、ガス欠起こすか、はたまた道をはずして奈落に落っこちるか……けど、あいつが、シルヴィーがいてくれるから、なんとかごまかしごまかしやってこれた。さっきだってそうだ、ひょんなことで俺の身体の中から側溝のドブよりどすぐろい何かが沸き上がってきて、風船みたいに膨らんで……最後にはそのまま俺が裏表ひっくりかえってしまうじゃないかって思った。しょっちゅうだよ、そんなの。だけどいつも最後にはシルヴィーが……あのとき彼女が俺に差し出してくれた手が、救いをくれるんだ。だから……」

 そう言ってバティストは自分の爪をぐりぐりといじった。

「だから、シルヴィーをもしあいつに奪われるなんてことがあれば、闇だ。無だ。いや、どんな言葉でも言い尽くせない。とにかく、終わりなんだ……俺にとって、あいつは……」

 そこまで言ってバティストは黙り込んだ。今日会った相手にここまで自分の心の内をしゃべってしまったことの

気恥ずかしさもあるのだろう。そんな彼の伏し目を、ルネは興味深く見つめていた。

(シルヴェット・アルブレイツベルジェル……)

 その名前を、心の中で何度も反芻していた。

「そいつはすごいんだな。これだけ人の心を変えてしまうなんて。きっととんでもない魅力にあふれた……」

「ないさ」

 バティストは即座に断言した。これにはルネも少しのけぞる。

「かさつだし、身勝手だし、顔もそれほどいいわけじゃないし、声もばぁさんみたいにしゃがれてるし、取り柄といったら髪が綺麗ってことぐらいだ。あんな適当で人を選ぶような奴のことここまで大切に思える人間なんて、世界中でこの俺ぐらいしかいないだろうよ」

「うわぁ……」

 ルネは辟易でのどをふるわせた。

(こいつは独占欲だ。感謝や恩返しの心なんてうわべを取り繕うつもりもない、生のエゴイズム――こいつはブノアよりもある意味ややこしい人間かもしれない……)

 自分がいつも彼女のそばにいるためには、なにがあっても彼女のそばに人が集まるという可能性を否定しなければならない。そんなバティストにとって、ブノアは突如として現れた気狂いの悪魔にしか見えないのだろうが……

(その論理で行くと、坊ちゃんとお前さん、似たもの同士ってことになるぞ……もちろん俺は「そうは思わない」が、理屈ではな)

 そんな考えをぐっとのどの奥に押し込んでから、ルネは口を開いた。

「で、受けるのか? 決闘」

「受けざるを得ないだろうよ。あれだけコケにされたんだから」

 バティストは即答した。

「まぁ勝てる見込みはない。3秒だってもつかわからないな。で、シルヴィーをあのチビに奪われるってわけだ。何立ってんだ、畜生。あぁ、できるなら受けたくない。本来ならどんな手を使ってでも受けたくはない、受けたくはないんだが……」

 そういいわけがましく付け加えるのも忘れはしなかったが。

 ルネは少し含み笑いを片手で隠しながら、声色だけは大根役者のように中庸につとめた。

「受ける受けないはもちろん自由だが……それこそ相手の思うつぼだってのも理解しなきゃならないな。確かに決闘は学苑規則で厳密に様式は定められているが、そこはあくまで決闘だ、受ける義務は一厘もないってこともまたしっかり書かれてる」

「けど……断る奴なんて、いないんだろ?」

「ご明察、だ。こんな条文、いわゆる有名無実って奴だ」

 伝統的なしきたりが形式的な法を越えるというのはなにも珍しい話ではない。早い話、この学苑という「国」は慣例法が支配する世界で、条文は切り落とすのを忘れたへその緒のようにこの社会にぶら下がっているだけのもの。

「けど、それを言うならブノアの坊ちゃんだって同じだ。何せ、まだ預言者としての創世力の使い方さえわかってない新入生に決闘を申し込むってのは、はっきり言ってみなドン引きしてると思うぜ。別にお前が断ったって、ブノアの坊ちゃんは怒り狂うと思うが、それだけだ、みなある程度理解はしてくれるさ」

「確かに、そうかもしれない。けど……」

 バティストはぎろりと目を光らせた。

「あいつ、めちゃくちゃ言いやがった。やれ俺のことを毛ジラミだの寄生虫だの……一番傑作だったのはあれだな、あいつ俺を『黒いシロアリ』だなんていいやがった。俺みたいな怠惰で志の低い人間はそばにいるだけで悪影響を与えるそうだ。俺と一緒にいるとシルヴィーはしまいにシロアリに骨を食われるみたいにダメになってしまう。だからあいつが助けるんだと」

 ルネは「おっ」と思った。いままで絵の具の水入れのようによどんでいた瞳が、何かはっきりとした色をおびはじめた気がした。

 そこで、ルネは不意に沸き上がってきた好奇心がてら少し意地悪な質問をしてみた。

「それこそ、相手の思うつぼだろ。あいつとしちゃぁ100%勝てる気持ちでいるから、お前が受けてくれさえすればそれでいい。だからお前の気持ちを逆なでするようなことを言う。それに何となく、あいつはこう思っている気がする、『黒人は気が短いから、乗せるのは簡単だろう』なんてな。あいつはそう言う奴だ。それでも受けるのか?」

 しかし、バティストはわかってないとばかりに首を大きく横に振って見せた。

「あのな、勘違いしているみたいだから言っておくが、俺は俺自身の名誉なんてちっとも気にしちゃいねえ。というか、そんなもの無いも同然だ。あいつにも言ったが、黒人やグアドループの奴らはまだしも、俺自信がとんでもない怠け者のダメ人間だってことは事実だ。俺自身一番よくわかってるさ。だからいまさら俺をどうこう言われたって痛くも痒くもない。ただな……あいつ、シルヴィーのことをバカにしやがった」

 そう言って、ぎょろりとトイレの壁の向こうにブノアをにらんだ。

「シルヴィーは、俺がいっしょにいるくらいで壊れたりはしない。たとえ俺が豹だろうが蟻だろうが、あいつは平然と同じ生活を続けてられる。シルヴィーってのはな、そんな人間なんだ。だから俺はシルヴィーと一緒にいてもいい、そう強く思えるんだ」

 ルネは何か軽い寒気のようなものを感じた。

 もっともそれは恐怖とか畏怖とかそういうものではなく、何か砂利の中に翡翠を見つけたときのような感覚。

 早い話、ルネは久々に心が躍っていた。

「シルヴィーが俺に手をさしのべてくれたとき、あいつは笑っていた。こんな鍋底のこびりついている焼けカスみたいな俺を引き取ろうってのに、その目は迷い無く俺を受け入れてくれた。あのとき俺はシルヴィーの強さを知ったんだ。ブノアはそんなあいつの強さも、優しさも、そして選択もすべて否定した。これで……これであいつに張り合わなきゃ、俺が耐えらんねぇ。壊れちまう。ダメになってしまうんだ、いよいよ……」

 バティストの瞳からまた大粒の涙があふれ始めた。彼の黒い目元がてらてらと濡れて、彼の顔自体がなにか黒曜でできた仮面であるかのように光輝いて見えた。

 ルネは失礼だと思いつつも(そしてそう思える良心がまだ自分の中に残っていることに幾分安堵と感動を覚えながら)、笑いをこらえながらそれを眺めていた。

(これだから……これだから長生きはするもんだって思うよね。世の中にはまだまだ、こんなねじくれて、まっすぐな人間が存在しているんだから……! あぁ、俺にさげすみの目を向けながら去っていったも、あぁにも、見せてやりたいよ。このにやけ面を! 長生きってのはするもんだ。世界には、永遠でも足りないくらい、見たこともないものが溢れているんだからさ! あぁ……)

 もう、限界だった。ルネは今までぎゅうぎゅうに押し込んでいた笑顔を一気に爆発させると、

「気に入った! おまえ、気に入ったぞ!」

 そう言ってバティストに顔を近づけた。相手がカメムシとにらめっこしているような顔になっても気にしない。はっしと手を取って言い放つ。

「いまちょうどいいことを思いついたんだ。そう、とってもいいことだ。おまえに紹介したい奴がある」

 バティストが「おい、人の話を聞け」と恐怖に近い怪訝さをたたえた顔をしているのを後目に、ルネの頭の中にはいま鮮やかなパレットが広がっていた。

 長い間絵の具が置かれずに色あせていた前頭葉のカンバスに、七色の爆弾が投下された。

 この学校にあまた存在する、バティストと肩を並べるくらい、いや正直それ以上の変人奇人のたぐいを頭に思い浮かべながら、それでもルネはこう思わざるを得なかった。

(こりゃぁ、学苑も最後の最後にとんだ大物を釣ってきたかもしれないぞ。アポカリプス前の最後の大騒ぎ、思う存分満喫できそうだ! そう思うだろ、シラハセ嬢!)

 

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