第5話

「……静まれ、はしゃぐな、しゃべってるのは俺だ」

 しわがれた声。独り言には大きすぎ、電話越しに伝えるには小さすぎる。

 バティスト・メセンスの声が、タイルを這って男子トイレの少し生ぬるい空気に染み渡る。

 ……自分の声が聞こえる範囲。その空間でだれもその言葉を聞く者がいなければ、それはその場所を自分が支配したのも同然、なんて考えることはないだろうか。

 ルネ・アンリにはあった。

 だから、ルネにはいま自分の存在自体が少し不気味だった。彼はおそらく入り込んでしまっている。バティストが今自分の領域だと信じ込んでいるその境界内に。

 けれど、どうやら入り込んでいるのは自分だけではないようなのだ。

「いいか、お前がなぜ勝てないのか、どうしてこんなちっぽけな貝殻の中に閉じこめられてしまったか、俺は知ってる。お前の頭に鍋蓋かました張本人の俺には、な」

 バティストはさっきからずっと独りごとをしゃべっている……ように思える。

「お前はいつも勝ちたいと思っている。けど勝ちたいって思うことは、『勝った』って思うことだ。もっと言えばそもそも『勝利に価値がある』ってのは立派な錯覚の一種だよ、俺にとっちゃ」

 でもルネはふとこうも思うのだ。ヒトは言う、「百聞は一見に如かず」。人間は自分の見たものしか信じないと。

 今自分はバティストが独り言を言っているように見える。けれども、さっきの格言に従えば、バティストはバティストで本当に「見えて」いて、「信じて」いるのだろう。

「俺は違う。俺は最初から負けてるんだ。錯覚する余地もなく、な。だから、気兼ねなく運命のサイコロを振れる。次もそうするだけさ。悪運の強さに自信はある。むろん、いつでも年貢を納めるときの心の準備はできているが」

 なら……少なくとも、ルネはバティストを妖精に拐かされたかわいそうな奴だなんて談じることのできる身分ではないのではないか。自分の目を、耳を、感覚を信じている時点で、二人は平等なのだから。

 だから……ルネは耳を済ます。どうやらずっと真剣に聞かないと、その精霊はバティスト以外に囁きかけてくれないようなのだ。

「違う。揚げ足を取るんじゃない。俺はただすべての可能性をいったん信じて、次に全部否定して……その繰り返しをしているだけだ。そうでもないと、また信じちまう……運命ってラベル貼りされた甘いガムを、味がなくなるまでかみ続けるつもりはないからな。そんなもの……」

 がらり、とトイレットペーパーを転がす音が聞こえた。洟をかもうとしているのか、それともただ手持ちぶさたか。

「そんなもの、人間ごときが気にしている資格もないことだ。少なくとも、俺みたいな下っ端の預言者ノアには。まぁ、イヴみたいな高位の方女になれば、少しぐらいはそいつの後ろ髪に触れることができるのかもしれんが」

「……っ」

 ルネは声にならない声を出した。

(こいつどうしてそれを……)

 かたん、という音がルネを我に返した。

 思わず前のめりになって個室のドアを押し出していたのだ。

(ありゃ、これはバレちゃったかな。やむを得ん。もう少し精霊さんとのお話を聞いていたかったような気もするけど)

 ルネは切り替えの速い人間だ。そんな自分がルネは好きだし、ほんの少し怖くもある。

 ルネは一気に体重をかけて扉を押し開ける。

 トイレのふたに座ったバティスト・メセンスが、まるで祈るように額の前で手を結び、俯いていた。

「やっ」

 ルネが声をかけると、バティストはゆっくりと無感情な顔を上げた。詐欺師のようにさわやかなルネのにへら顔を見て一度まばたきしたあと、すぐにまた手元に目を落としてしまう。それでもルネは、その瞳の動きから少しの怪訝さを読みとって少しほっとした。逆に言えば、これで何の反応も読みとれなければルネは会話のイニシアティブをとれる自信があまりないのだ。

(俺ってば、見た目以上に気が弱いんだから。ま、カサノヴァ気取りのサイコパスになるよか百倍ましってこった)

 いきさつは――ルネがこんな忍者かかそうでなければ変態じみた状況に至った理由はこうだ。

 いつまでも帰ってこないサクラを探しに出ていたルネは、代わりに渦中の男が校舎に入っていくのを発見した。後を追ったのは興味本位が半分、もう半分はさっきとうってかわって彼が波に遊ばれる海藻のようにおぼつかない様子に見えたからだ。彼がトイレの個室の中に入ったのを見てためらい無く外で待ち伏せ。しかしなかなか出てこない上に中から声が聞こえてきたので、もしや誰かと逢引きかと勘ぐって興味本位で入ってみたところ、図らずも彼の独白劇の上演会場にお邪魔してしまったというわけだ。

「……お前、」

 バティストがそう言いかけると、ルネはさっと手を差し出して制する。

「あぁちょっと待て。自己紹介はされる前にやる主義なんだ」

 そう言って、大げさに片目に手を当ててポーズを取ってみせる。

「俺は、ルネ=アンリ・シャルパンティエ――この学苑のトリックスターにして陰の支配者。世のすべての女性の味方。『フェミニストの本来の意味を思い出す会』名誉会長。そして、『サクラ・シラハセの奮闘を温く見守る会』理事長にして彼女の悪友さ」

「どこかの国の独裁者みたいに肩書きが多いな」

「人は誰でも自分というレァルムの独裁者になりたいものだろ? 自然に肩書きは増える」

「で、何の用だ?」

「急かすねぇ。会話に余情ってものがまったくない。せっかちさんはモテないぞ?」

「男にモテる趣味はないな」

「何と! そんな趣味はお持ちでないと!」

 ルネはおおげさにはっとしてから、またにんまりと笑って見せた。

「何を隠そう俺にもそんな趣味はないんだ。仲良くやれそうだな」

 もちろんバティストは手元に目をやったまま。それでもルネは嫌な顔ひとつせずに話を続ける。

「用って言うかな、連れを捜していたんだ」

「連れ? 女??」

「穴が三つあるってことは一応は女なんだろ。まぁ俺もこの目で見て確かめたわけじゃないが」

「なのに男子トイレを探していた?」

「あぁ」

「意味が分からん……」

「『一応』、って言ったろ」

「はぁ?」

 ここで初めてバティストが何なんだよという風にルネの顔を見たので、ルネはおっと心の中で苦笑した。 

(これくらいの会話で俺につき合っちゃうとは俺って人のいい奴。まぁ、悪いことじゃないが)

「で、お前は?」

「……」

「何してる? こんなところで」

「シルヴェットを……主を、探していた」

「なのに男子トイレに? へぇ?」

 ルネがあげつらうと、バティストはふらっと眉間を押さえた。

「言われてみれば、シルヴィーなら男子トイレでも何でも興味本位で覗いて回りかねん……」

 真剣に頭を抱えるバティストを見て、ルネは吹き出しそうになった。

「またいろいろと大変みたいだな……ま、お互い、ってことだ」

「お前と一緒にするな」

 バティストは三白眼をさらに警戒で湿らせてルネをにらんだ。

「あと、これは決してシルヴィーに文句を言った訳じゃないからな。俺がシルヴィーに愛想を尽かすことを期待してるのかもしれないが、諦めろ」

「わぁ、大らかかつ破天荒と巷で評判のこの俺でもちょっとビビる思考の飛躍」

「このバティスト・メセンスがいる限り、シルヴィーにはどんな悪い虫もつかせない」

「その割に、ずいぶんと見失ってるようだが……」

 指摘されて、バティストは一瞬固まったようにルネの顔を眺めた後、無表情のまま少しぶるぶると震えた。ルネがやばい、と思ったときにはすでにバティストの瞳からぶわっと涙がこぼれ落ちた。

「い、いいいいいんだよ。どうせ俺みたいなクズがお嬢様のそばにいること自体、何かの間違いだったんだ、そうだったんだ、ハハ……」

「お、おおおおおおお落ち着けって」

 バティストが心を落ち着かせるまで、ルネは便器の横に座り込んで相手を慰める羽目になった。


「決闘を申し込まれた、ねぇ……」

 ルネは腕組みをしながらため息をついた。もっとも頬の端々にこらえきれないにやつきを含ませてはいたが。

 バティストは立て板に水を流したばかりで息が弾んでいる。

 彼が語ったいきさつはこうだ。


 学苑をほんの少し震撼させたあの入苑式での演説の後、バティストは正門近くで待ち合わせをしていたシルヴェットを迎えにいこうとした。けれど、約束の時間をいくら過ぎても待ち人来ず。それでも律儀な彼は日が暮れるまでそこにとどまるつもりだったがそれは全校生徒の七割近くが下校で使用する正門前では目立ち過ぎる。

 で、案の定、絡まれた。

「おい」

 相手は声を低く威圧的にするように精一杯努力している風だったが、それでも男声テナーというよりかは女声アルトに近く聞こえる。背丈はかなり小さく、学苑で平均的な上背のバティストから見ても肩で会話をする風だ。

 もっとも相手はそんな明らかな体格差など毛ほども気にかけていない様子だった。

「そこで何をしてる」

 くしゃくしゃの前髪からぎらりと灰色混じりの碧眼がのぞき、口調には多少の不穏さが漂っている。だが鈍感なバティストはそれに最初気づかなかった。だからバカ正直かつ簡潔に、

「シルヴィーを待ってる」

 そうぶっきらぼうに答えた。

「『シルヴィー』……?」

 それがいけなかった。

「この僕でさえ言うのをためらうその名前をいとも簡単に、素っ気なく……」

 わなわなと震え出す。バティストはここで彼が怒っていることに気づいたが、当然ながらどうして怒ってるのか理由はまったく思いつかなかった。

「シルヴェット……!」

 いきなり彼が大きな声を出すのでバティストは思わず心臓を取りこぼしてしまいそうになる。あわてて胸に手を当てて押し戻し、平静を装った。

 直感的に――こいつの前で弱みは見せてはならない。見せたくない。そんな気がしていた。

「ブノア様……」

 周囲の女中のような格好をした生徒が小声で話しかけると、彼ははっとしてばつの悪そうにうねった前髪を左手でなおして見せる。さらに何のアピールなのか懐から手鏡を取り出してささっと襟を正すと、ナポレオンの肖像画のようにきりりと顔の筋肉を整えて、最後に意味もなくふふっとほほえんで見せた。

 そのほほえみのまま、バティストに対して手を差し出してみせる。

「僕は、ブノア・アンテノール。登録区分は預言者ノア。学年なんてここではほとんど意味を持たないが、年度で言えば、1339年度。所属は『ソサエティ』。ニース生まれのフランス人だ」

「……どうも」

 バティストはやんわりと手を握った。その瞬間、ブノアが苦虫を噛みつぶしたような顔になりかけたのをさらに上から噛みつぶしたのも見逃さなかった。

 ブノアはなかなか手を離さない。胸の中で何か逡巡があるようだ。

「お前、グアドループの出身か?」

「……ああ」

 バティストは少しためらいがちに言う。

「ま、ってことで。よろしく頼む」

 するとやおら、

「きっ……!」

 ブノアは歯と歯の間からリスのような呻き声をあげた。

「同郷……おまえが?」

「おっと……」

 バティストは特段驚かなかった。いや、確かに少しは驚いてはいたが、何となくこいつがそういう人間だと予想はついていた。

 だからといって、ここまであからさまだとは予想してはいなかったが。

 それでもバティストはバティストなりに言葉を濁して予防線を張っていたつもりなのだ。

 それでもあえて「同郷」という言葉を使ったのは、「本土」暮らしが長かったバティストにとってそれがまぎれもない実感だったから。

 バティストは嘘を吐くのが苦手だ。他人ひとが食べかけのロブスターの頭を啜るよりも苦手だ。

 だからバティストはさらに予防線を遠くに張ろうとする。

「俺の言い方が気にくわなかったすまなかった。お前がそう思ってないならそれでいいんだ。お前とは生まれも見た目も違うし、同じ国の人間とは思えないってのもわかる。他人が俺の属性を決めてはいけないって法もないしな。さっきのはただ俺が心の中で決めていることにだから気にするな。俺はお前を怒らせたかったわけじゃない」

 むろん、この物言いがブノアの神経を逆なでするのは効果抜群だったのは言うまでもない。

「ぐだぐだぐだぐだはっきりしない物言いして、一体君は何なんだ?」

「そんな哲学的なこと考えたこともない」

「きーっ! お前、僕のことバカにしてるだろ」

「俺は出会ってすぐの人間がバカかどうか見極められるほど目は肥えてない」

「またそういうことを言う! バカにしてる! バカにしてるな!」

 バティストは自分が言葉を発するたびにブノアの怒りのボルテージが何速にも上がっていくのを感じた。だからといってバティストは焦るのでも何を考えるでもない。ブノアの形相も、呆れたような周囲の顔も、何かフィルターを通したように遠くに感じる。

 そんな自分に、バティストは自分で驚いていた。

(久しぶりに屋敷の外へ出てみたが……驚くほど、何も感じない。どうして俺はここにいる? ってやつはどこに行ってしまった? 屋敷の女たちは俺がまるで夢の世界に住んでいるかのように言うが、これじゃ、まるで……)

 そんな想いがもんもん雲のように頭に沸き上がってくるが、表情はマスクのように固まったまま、不機嫌でも上機嫌でもなく、ただ前を見つめている。

 ブノアはそんなポーカーフェイスを少しでもヒクつかせようとまくし立てた。

「確かに今のフランスは民族で分け隔てはしない。フランス国土に住む人間はみなフランス民族だ、それが国是でもある……けれどバティスト、君みたいな海外県の奴らはもう少し慎みというものを知った方がいい」

「……慎み。」

「そうだ、一体どれだけの補助金があの小さな島々につぎ込まれていると思ってる。その金で、お前らグアドループ人は遊び放題じゃないか、仕事もロクにしないで……」

「いや、俺は……」

 生まれ島といっても、もう島を離れて十年以上。補助金なんて何の話だか……いや、むしろ。

 俺に、グアドループの人間を名乗る資格なんて……なんたって。

 俺はあの島を裏切っていまこの場所にいるのだから。

 バティストはそう言おうと思った。思ってやめた。グアドループと俺は無関係だ、そう言い切ってしまうことに対する強い罪悪感。

 なぜそんな気持ちになったのか自分では理解できなかった。少なくとも、子供の頃彼はあの島でいい思いなんて少しもしなかったはずなのに……

 シルヴェットに出会ってからの日々と比べれば、なおさら、なおさら……

 だから、代わりの言葉を探すのにちょっと時間がかかった。

「……見てきたかのように言うんだな、俺の田舎を」

「お前を見ればわかるさ。怠惰、気位の低さ、人をおちょくったようなその慇懃無礼な態度……典型的なカリブ人じゃないか」

「んー……」

 何を言っているんだろうか。ブノアは自分の物言いを「おちょくっているようだ」というが、奴の言っていることこそ何だか言葉と理屈を弄しているようにしか思えない……バティストは首をかしげたくなる気持ちを抑えて返した。

「確かにお前にとって俺は典型的なフランス人には見えないかもしれないし、実際俺も純粋なフランス人かって言われると自信はない……けれどブノア、それと同じくらい、いやそれ以上に俺は自分がグアドループを代表しているだなんて思ってないさ。俺は政治家でもないし、サッカーが上手いわけでもないんだから。いくら小さな島だからって、その名前背負しょって立つってのは結構緊張するモンなんだぜ? 。そんな風に勝手に代表にされちまうのは」

 そうもごもごした口調で流し流し言ったあと、バティストはほんの少しだけ声を大きく。早口にした。

「それにだ。仮にお前の言うとおりグアドループが補助金をもらってばかりの怠け者だらけの島だとして……まぁそれは大いにあり得るよ。俺だって本当に長い間あそこには帰ってない。だから見てきたかのようには語れない。けれど、そいつらと比べても俺はたぶん筋金のはいった怠け者だと思うぜ? なぜならそれは俺がグアドループ生まれだとか関係なく、俺は俺で、バティスト・メセンスだからだ。そしてそのバティスト・メセンスってのは天下一の怠け者で引きこもりでジグソーパズルを集めることだけが趣味の慢性倦怠病患者だってことだ。それ以上でもそれ以下でもない」

 ブノアはどんどん滑らかで曖昧になっていくバティストの口調を聞くうちにだんだんとすました顔に戻っていった。すべて言い終わったとき、バティストは落ち着いた表情の彼をみて少しほっとすると同時に、何か居心地の悪さを感じた。

「そうか、お前の言いたいことはわかった」

 ブノアは冷静な声、いや、冷静を装った声で言った。

「なら、余計にそんな下らない男にシルヴェットをやるわけにはいかない」

「おい、お前なんで……」

 バティストはいきなりシルヴェットの名前が出てきたことに戸惑ったが、次の言葉にはもっと驚愕した。

「決闘だ。学苑規則第79条に則り、貴殿に決闘を申し込む」

「は? 決闘?」

 バティストはいつの時代だ、と叫びたくなったが、ブノアが息も荒くそれを制する。

「あぁ、そして僕が勝った暁には……」

 ブノアは少し息を整えた後、横に提げたサーベルを強く床に打ちつけた。

「シルヴェット・アルブレイツベルジェル……彼女にかしずくノアの地位を、おまえから譲り受けさせてもらおう!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る