第4話

 さて、そんなこんなで入苑式が何の名目もないくつろいだパーティーと化した頃。

 何も知らないサクラ・シラハセといえば、なぜか件の新入生シルヴェット・アルブレイツベルジェルに学苑の案内をさせられているところだった。

「それで、あそこが学生食堂……もちろん、ここだけじゃないけど、一番広くて利用者が多いのはここかな……?」

「うおーっ! でっか! うちの屋敷より広いんじゃないか? ぺこぺこの私のお腹には誂え向きだな!」

 そう言ってシルヴェットはカエルのようにぴょんぴょん飛び跳ねながら建物に突進していく。

「あぁっ、でも今は……」

 サクラが指摘し終わる前に、シルヴェットは閉ざされた扉に鼻っ柱をぶつけた。

「な、何で開いてない? 開けゴマ? エロイヌエッサイム? びくともしないぞ! こんな世界に誰がした!」

「いや、君が出るはずの入苑式に学生がみんな取られちゃってるから、営業してないんだよ……」

「がーん……」

 口で言う必要性が感じられなかったが、彼女の表情はわりと真面目にショックを受けている様子だった。

(しっかし、ほんとうに表情かおがコロコロ変わる子だな……)

 サクラがこの学苑に入ってから今年で何年になるか……彼女自身、そろそろ数えたくないくらいの年月が過ぎた。最近は新入生も年を経るごとにまばらになっている。そのせいか、この環境に目を白黒どころか七色に変化させる彼女の反応がよけいに新鮮に見えるのかもしれない。

 けれどそれを差し引いても、彼女の反応はまるで幼稚園の子供だった。いやより正確には……小学生くらいの活発な少年を思わせる秩序のない無邪気さ。

(最後の新入生っていうから、どんな子が来るのかと思ってたら……)

 シルヴェットの表情は万華鏡だった。なにか危うく感じてしまうほど、無防備な好奇心に満ちたその顔。

 なかでもやはり瞳は印象的で、右目に食欲gulaを、左目に貪欲avaritiaを宿しているようだった。

 けれど、詰まるところ彼女にとって欲望はその二つですべて尽きてしまっているようだった。彼女が口を開けば目にするものへの驚きや不思議で溢れ、時折考え込んだり、ぼうっと嘆息するように目の前の光景を眺めたり。そして時折思い出したように「そういえばちょっとお腹がすいたな」とつぶやくのだった。

 彼女のことを何かにつけて新鮮に感じるのは、その欲望の少なさに起因するのかもしれない、そうサクラは思った。もちろんそれは質的な単純さであって、量的にはむしろ何の慎みもないのは見ての通りなのだが。

 でも――

 なまじこの学苑の生徒には、人間関係ひとつにつけても大きな集団の利害というものが絡んでくる。だから余計に彼女のシンプルな行動が新鮮に見えるのだ。

「うーっ、むごい。むごたらしすぎる。いまならパブロフの気持ちがよくわかる。思わず呪ってしまいそうだ……」

「パブロフってのは犬の名前じゃないんだけど……」

「唾液を口にためこんで一気に飲み込んだらお腹も少しふくれるか……?」

「なに、その絶望的に子供じみた発想……」

 シルヴェットはしばらく口を閉じたままむーんとだまりこむ。本当につばをため込んでいるようだ。

「うーん、無味無臭。せめてバーベキューソースの味がしてくれればいいんだけど」

「それはそれでよけいにお腹がすくと思う……」

 そんなサクラの律儀な受け答えが終わる前に、シルヴェットはまた目を爛々と光らせて、せっかくため込んだ唾液をひと思いにごくりと飲み込んだ。

「あ、猫だ! 猫がいる!」

「ええー……」

「こっちこーい、ほらー! 飯よこせー!」

「え、ええー……」

「やはー噛まれたー! こやつめー!」

「えええー……」

 猫にしがみつかれたままぶんぶんと腕を振るシルヴェットはまるで痛みなど感じてないようにけらけら笑った。

 もっともその手首からは噴水のように血が吹き出しているのだが。

「ち、ちょっと、血、血ーー!」

 顔を真っ青にして駆け寄りながら、サクラは一つの問いで頭が沸騰しそうだった。

(いったいぜんたい、何なんだよこの子……)


 さて、例のごとく遠くから救急用のロボットが近づいてきて、ガーゼと指先から噴射される消毒液でシルヴェットの手に形式的な消毒を施す。その間もシルヴェットは目をきらきらさせてアームの滑らかな動きに見入っていたが、消毒が応急処置が終わるやいなや相手があんぐりっと大きな口を開けて自分の手を挟み込んだときには「ひゃあっ」と驚きの声を上げた。

「あ、あぁー、大丈夫、だいじょうぶ」

 サクラはやんわりとした声を出す。

「《創世力》を使って傷の回復を早めるだけだから……」

「ふ、ふおぁあ~っ」

 シルヴェットがふぬけたような声を出すので、サクラはまたびくりとしてしまう。

「そ、そんなに気持ちいい? まぁ、最初だから確かにびっくりするかもしれないけど……」

「なんだ、これ! なんか手の甲からお酒を飲んでいるみたい!」

 サクラはあまりお酒に強くないのでその感覚はよくわからないが、確かにこの治療方法は効果抜群の上に強烈なリラックス効果があると評判だ。何でも、一般的な温泉に入浴したときの十倍以上の精神安定作用があるらしい。

「でも、こうしているとなんだかお酒が飲みたくなってくるなー。手から飲むだけじゃ、味がまったくしないし……」

 治療時間はきっかり一分。完了を告げる電子音のあと、ロボットは「まずい」とでも言いたげにシルヴェットの手を解放した。二人でのぞき込むと、蒸し立ての肉まんのようにほかほかで、血行よくピンク色に染まった手の甲が現れた。

「「ええっ??」」

 それを見て、二人は声を上げた。

 さっきあれほど深く噛まれた手の傷が、痕も見分けられないほど完璧に接合されていたからだ。

「すげーっ! 魔法みたい! 遠隔操作で創世力をこんなに効果的に使うことができるなんて!」

「い、いや……そうはおっしゃいますけど……」

 サクラは思わず口調を崩してしまう。

(救急ロボの性能が上がってるっていっても、一回の治療で傷が跡形もなく消え去るなんて考えられない。確かに、方女ノアは自分の創世力を調整チューニングすることで治療効果を高めることができるとは聞いたことがあるけど……)

 固まったサクラをよそに、シルヴェットは無邪気に自分の手を眺めている。

「気のせいか生命線も太くなった気がするし! 凄いな、学苑の技術力って奴は!」

 サクラは釈然としない顔で首を傾げながら、何か背筋にぴりっとしたものを感じた。

(最後の方女ノアか……)


 創世力とは、有体に言えば時に抗する能力だ。


 この国。この地球。この世に身をおいている限り、人は時の支配を逃れられない。

 昔とある悲観主義者ペシミストがこう言ったとか。

 人生とは一冊の楽譜のようなものだ。それはスカルラッティの小品のように短くチャーミングなものから、ブルックナーの交響曲のように途方もなく長いものまで、人それぞれ個性的な音符を持っていて、この世に産み落とされた瞬間、まだ日の光さえなれてないその眼前にぽんとその楽譜は置かれるのだ。赤ん坊は手探りで楽器を手にし、演奏を始める。彼/彼女は目食らいつくように、楽譜を眺める。次第に楽器の腕も少しは上達する。けれど、なにせ初見なのだ、楽譜を追うのが精一杯で、その音符を変えることなど思いも寄らない。せいぜい背伸びして表現をつけようとするくらいだ。やがてすぐに疲れ始め、最後にはほうほうの体で演奏を終える。人生のカーテンコール。彼は舞台袖の床に唾を吐いて二度と楽器を手にすることはないだろう。

 ここで語られるのはほとんど完全な運命決定論だ。けれど、学苑の多くの人間はこれをこの都市の教条であるかのように信じている。

 なぜなら、自分たちだけはそうでないと信じているから。

 運命の犠牲となる子羊と異なって、創世力に守られた自分たちは、もし次の小節に気に入らない音符を見つけたり、難しいパッセージにもたつきそうになれば、時を止めてふぅ、と一息つくだろう。不機嫌そうに眉を寄せながら消しゴムを楽譜にこすりつけて、てやっと敵に一太刀浴びせるようにペンを動かし、全く異なるフレーズを置く。また時が流れだす。完璧な編集による完璧な演奏が行われる。一曲終われば、たまには休憩も必要だ。うつらうつら一眠りしたあとで、ちゃっちゃと次の楽譜を仕上げて、また舞台に向かう。途中で客が帰ってしまうこともあるだろう。けれどまた新しい客がいらっしゃる。

 終わらないリサイタル。すべての曲目が思い通り。すべてが自作自演。望むだけに望むものが奏でられる、夢のような人生。

 それを、この街に住まう人間は皆手に入れている。

 そう、信じている。

 世界を外側から眺め、世界の理を書き換え、時間を超越する――魔法を超えた魔法。

 それが、創世力。

 その恩恵を誰よりも享受し……いやむしろ自分がその源となり、他者に分け与え、操作し、やがて滅びゆく世界に変わる新しい世界そのものとなる……

 それが方女ノア

 いまサクラの目の前でけたけた笑う彼女――シルヴェット・アルブレイツベルジェルその人なのだ。

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