第2話

 さて、そんなこの学苑は、世界のど真ん中に存在していた。それはかの古代ギリシャ人にとってのデルポイでもなく、ロンドンから南にまっすぐ引いた線と赤道が交わるアフリカ沖の洋上でもない。

 そもそもここでいう《世界》とは――おそらく読者諸君が住まう「この世」と呼ばれるものとは見かけ上はほとんど変わらないかもしれないが、実は決定的に違う道を選んでいる世界なのだ。

 地理的には。あくまで、この学苑でGPSを利用して緯度経度を計測すればの話だが、ここはカナダにある旧フランス領ケベック州の古都にして政治的中心、ケベック・シティーの域内を示すはずだ。けれども一般の人間がが実際に徒歩で――電車にしろ自動車にしろ、どんな交通機関を使っても同じことだが――この学苑にたどり着くには物理的に、というよりも哲学的に不可能といってもいいだろう。

 学苑へ至るには、いま我々がこの世と呼ぶ場所に設置されているいくつかの門より足を踏み入れるしかない。その門は、《対象者》が代理人の接触を受けるまで、それが存在することすら知り得ない。

 なぜなら、普段学苑はこの世から完全に遮断されているので、何の示唆もこの現実社会には与えることができないからだ。

 だが仮に幸運にも――不運にも、と言ったほうがいい場合もあるが――学苑の招きを受けた者は目の当たりにすることになる。この世と限りなく鏡写しの、けれども決定的に違ってしまっている世界を。

 ケベック・シティが高い城壁によって完全に封鎖されている。

 それ以外はまったく現代の地球と変わらない、けれど、それがゆえに決定的に異なる道を歩み始めている、そんな世界。

 この場所は現世と異界との境界線に存在する、学苑のためだけに占拠・隔絶・最適化された、完全自律の学生都市なのだ。


「なぁ、この前の入学式って『何年前』だったか?」

 ルネ=アンリの問いかけに、サクラ・シラハセは少しきょとんとした顔で彼の顔を見つめた。

「何だ、とうとうついにボケがきたか? 入学式みたいな重大イベントのこと忘れるなんて」

「ひどい言い分だな。ほら、俺らにとって、一年前も十年前もほとんど誤差の範囲じゃん?」

「知るか。私はおまえとは違ってきっちりしてるんだ」

「これはさすが日本人様は時間に精確だ」

「カナダ人だ、私は!」

 サクラは少し眉根を寄せた後、手元の腕時計に目をやる。

「それに、出自に関係なく、時間を守るということは信頼を守るということ。人間が文化的であるという証拠だ」

 そう澄ました顔をする彼女の手元にオリエントのクォーツ時計が誇らしげに輝き、エキゾチックな風貌に彩りを与えるのをルネはにやにやしながら見つめていた。

 濡れ烏のような黒髪をショートに切りそろえ、すらりとした頬の輪郭が凛々しく冴える。青年のような表情に長いまつげだけが女学生らしいほころびを与えている。ブレザーに赤いネクタイ。尾錠のついたパンツ。まったく男のような服装も、うっすらと浮き出た身体の丸みを逆に際だたせているように思えた。

 それを見つめるルネはシンプルなチェックシャツの袖からおおきな手をのぞかせて頬杖をついている。癖の強い長髪はほとんど手を加えていないようにも見えるが、方々に散らかった毛先は不思議と総体としては端正な印象を与えている。一目見ただけで育ちとセンスの良さがわかる見た目だ。

 入学式の予定時刻からすでに一時間以上時間が過ぎていた。講堂には普段あまり身につけない制服に固められ、少しそわそわした様子の学苑の生徒たちがびっしり詰め込まれている。

 サクラは主賓であるシルヴェット・アルブレイツベルジェルとやらがいっこうに姿を見せないことに苛立っていた。より正確に言えば義憤を感じていた。ルネはそんな彼女の気を紛らわせがてら質問をしたのだった。

「文化的生活、ねぇ……それで、そんなお堅い風潮のおかげで、どんな文化がこの世界に花開いたんだ?」

 サクラは一瞬言葉に詰まった後、ルネの顔を長雨の後の側溝に残った泥みたいにじっとりした目で見つめた。

「君みたいな――そしてこれからあの壇上にあがる奴のような、時間にルーズな奴がなぜか大器のように思われる風潮が生まれた」

 ルネは椅子に背中を預け、一発口笛を鳴らして見せた。

「なるほど、それは誠に素晴らしい文化だ。感心したよ! サクラには才能があるかもしれない。政治家か、もしくは弁舌家か……」

「君ごときを納得させたところで、なれるとしてもバナナの行商人がいいところだ」

「叩き売りを舐めるなよ。あれくらい舌が回れば政治家ごとき簡単になれる……で、結局何年前?」

「9年前だ」

「9年前っていうと、あれか、オペラ・コミック座が焼けた……」

「9が一つ多い。ベトナムから米軍が退散し、日本で女学生の噂から取り付け騒ぎが起こり、ユリア・バシュメト・ウザーラが入学してきた……」

「あぁ」

 何で忘れていたんだ、という風にルネは長いくしゃくしゃの髪をかきあげる。

「そりゃぁ、ずいぶん昔だ。体感的には99年前とさほど変わりやしない」

「そう思うのは君だけだ」

「そうか? いやぁしかし遠くに来たもんだ。そんで今日で最後と……いよいよ《世界の終わり》ってのも近づいてきた感じがするね」

「そんなにへら顔で言われても……そもそも、私は半信半疑だ。いままで何度も《アーク》はこれで最後だと言われてきたが、現にまた一人……」

「けど、現に9年かかった」

 ルネはふところからミントタブレットを取り出すと、容器から口へ直接ざらざらと流し込んだ。

 シリアルでも食べるようにぼりぼりかみ砕きながらしゃべる。

「俺は見納めだと思うね、新入生は。となるとあとは退屈な緊張が続くだろうな。誰がさきにこの悠久の学園生活にしびれを切らして、アクセルを踏み出すか……チキンレースのはじまりはじまりってわけだ」

 サクラは少しうつむくと、両手を少しきゅっと握って立ち上がった。

「ちょっと、出てくる。この調子だとまだまだ始まるのは先だろ」

「そうか」

 どこに行くのか聞く代わりに、ルネはひらひらと手を振って見せた。

「誰かに訊かれたら、花でも摘みに言っているとでも伝えてくれ。種類や行き先は適当でいい」

「じゃぁ、ラフレシアを取りに熱帯地方へ八十島かけて漕ぎ出したと人には告げておく」

「雨期が始まるまでには帰ってくるよ」

 そう言い残すとサクラは席を離れた。

 ぴんと凛々しく背筋を伸ばしているものの、身体が大きくないのと、なで肩のせいで、後ろから見てもサクラには何かは儚げ印象がつきまとう。

「まったく、デリケートなのに強がっちゃって、まぁそこが可愛いところでもあるが……」

 ルネは彼女を見送った後、懐から葉巻を取り出した。直後に周りから厳しい視線を感じたので、ばつが悪そうに香りを少し嗅いだ後、物欲しそうにそのたくましい体躯を眺めた。


 サクラは講堂を出て、どこか近くのベンチに腰を下ろして気晴らしに読書でもしようかと考えて……やめた。

 何となく、という風に散歩を装いつつ、大校舎前の広場に向けて歩き出す。

 すると、遠くで引きずるように気配がこちらに近づいてくるのがわかった。しかし、尾行なんて上等なものじゃない。そわそわした気配が漏れすぎだ。

 こんな闇市で仕入れたようなパチモンの追跡じゃ、亀にだって逃げられてしまうだろう。

 今の時間、生徒の大半は入学式に出席しているので、校舎の周囲に人影は見あたらない。無人の広場に奴をおびき寄せたのは、周囲に騒ぎを起こさないためと、ほかならぬ奴自身の名誉もなるべく傷つけないためだ。

「ムッシュー」

 サクラが低い声でいうと、物陰の向こうの肉塊がはじけたように痙攣した。

「あまりいい趣味ではないな、遠くからじろじろ人のプライバシーを覗き見しようとするのは」

 その声があまりに有無をいわせない風だったので、相手も誤魔化す気を削がれたらしい。大人しく薔薇垣の後ろからおずおずと現れた。

 いかにも頼りなさそうな感じの、メガネを赤い鼻先にひっかけた少年だ。

「し、しし趣味なんかじゃない、よ……」

 食べかけのクリスマス・プティングのようにぼろぼろ崩れた声色で、それでも何か決意のこもった口調でそいつは言い放った。

「これは愛だ……! 僕にとってはまぎれもない……だって趣味でこんなこと、できるはずないじゃないか……僕だってシンジケートのお世話になるようなことはしたくないし、もちろん君に気持ち悪がられるのも嫌だ、本当はなにより嫌なんだ。けれども仕方ないじゃないか……君は僕の愛を拒絶した。けれど、僕は君しかいないんだ。どうしようもないじゃないか、こうでもしないと、窒息して、情欲の悪魔にくびりころされてしまう……僕も命が惜しいんだ。わかってくれ、僕の愛する人……」

(なるほど……こう来る日もあるか)

 彼の訴えを聞き流しながら、サクラはそう思っていた。

 というのも、彼女がいわゆるストーカーと相対したのは今日が始めてではない――

というか日常茶飯事といってよかったからだ。感覚としては雨が降ったから傘を差すのと、それほど変わらない。

 ここ最近は屈強なスポーツマンといった風情の男子が多めだったので、このようなパターンは久しぶりだった。だから意外に思ったのだが、よく考えるとほんの一ヶ月前はこんなパターンも多めだった気がする。

(って、だいぶ感覚がマヒしてきているな、ダメだダメだ・・・・・・)

 サクラは首を振る。彼女にとって――というより彼女の夢にとって、常識(コモン・センス)を保持するというのは従うべき規範の一つだったからだ。というのも、彼女の目指す職業は、ひとえに庶民を指導する立場にあるからこそ、彼らに心から寄り添わなければならない。それが彼女の矜持でもある。

 なのである意味、目の前のストーカーとやらは、彼女の常識、まっとうな感覚を揺るがすものとして、断固として処理しなければならないものだった。

「愛というものは確かに美しく、この上ない喜びなのかもしれない。けれど、相手の気持ちを鑑みて、その愛を昇華させて、凛とまた別の道を歩むことは、愛よりも気高く美しいと私は信じる。私の好意を勝ち取りたいと考えるのなら、君は気高い道を選ぶべきだ」

 サクラは直立不動で、鷹のような瞳で言い放った。ルネはもう少し温厚ではぐらかす言い方を奨めてくるのだが、こればかりは性格なので変えられない。ルネは「それは自分に酔っているだけだけどなァ……」とさんざんからかってくるのだが、彼女としては紳士淑女の見本たるためには誤魔化しは無用との信念、それだけが口を動かしている。

 しかし……

「君は、いつもそうだ。圧倒的に正しくて、格好よくて、きれいで、それが僕の心をどんどん狂わせる……」

 相手の表情はさらに鬱屈したようにねじ曲がり、身体は焦燥にうねった。まっとうな口撃というものは一撃必殺ならいいが、わずかでも急所をかわされてしまうと効果がないばかりかよけいに激昂させてしまうものだ。

「確かに、しおらしい態度をとれば君の僕に対する評価もましにはなるかもしれない……でも、それが何だ! それじゃほかにいくらでもいる君に懸想し、群がろうとする有象無象の一人にしかすぎない……そんなカマキリの卵の一粒に成り下がるくらいなら僕は蜘蛛にでもなったほうがいい、例え君がいくら僕を嫌おうとも……」

 サクラは無意識に、腰に下げた軍刀に指をかけた。なに、別に切り捨てようというわけじゃない。見た目は立派だが、その実護身用のなまくら刀、できて峰打ちが関の山。

 だとしても決して振るおうとしているわけではない。振るうべきではないし、その必要もない。剣に意識が向くのは戦士としての本能。この本能をうまく理性に応用してこそ、紳士淑女、騎士足るものの規範となれるのだ。

 しかし、どう相手の怒りを鎮めたものか……

 サクラが考えを巡らせていた、そのとき。

 近くの茂みが、バリバリと踏み倒される音が聞こえてきた。

 まるで子供のような、品のかけらもないどたどたという足音。それとともに木の枝が引きずられ、砂塵が舞い上がり、何か鎖から解き放たれた獣のような力強い存在がこの場に闖入してこようとしているのを感じた。

「うおらーっ! ゲロッパー!」

 女だった。

 砂金を流したかのように日の光をきらびやかに乱反射させる髪。けれど、それに負けないなにか得意げで、なによりとても大きな瞳が印象的だった。そうだ、サクラが幼い頃に絵本で読んだティル・オイレンシュピーゲルに似ていた。あれは男の子で、しかもマティスかピカソが書いたようにきついデフォルメが効いた姿だったのだが、なぜかそう思った。

 彼女は丈の長いローブの下で精一杯足を広げて、短距離選手顔負けのストライドで高く、高く飛び上がる。突然の奇襲に驚愕し、のけぞる哀れなストーカー。その額に向かって。

 彼女の膝がウィリアム・テルの放った矢のように、精確に射抜いてみせた。

「お?」

 ゴールテープを切ったように、空中できれいなY字のポーズを取って見せた後、彼女はローブを着ているとは思えないほどきれいにくるりと空中でムーンサルトを決め、アポロ11号のようにふわりと軟着陸して見せた。

 唖然とするサクラの目の前で、彼女は服に付いた砂埃を払った後、穴から顔を出したマーモセットのようにイノセントな瞳で周囲を見渡して見せた。

「なんだろ、なんか足に堅いものが当たった気が……って、うわぁ! 大丈夫かお前!」

 額から血を吹き出して倒れる彼をぐらんぐらんと揺さぶってみせるが、あまりに激しく揺さぶるので血が四方に飛び散ってむしろ確実に逆効果に見える。

「あー、心配しなくても、ここは……」

 そうサクラがいいかけたとき、遠くから控えめなサイレンの音が近づいてきた。この町で常時働いている救急搬送用の無人車だ。近づきざまにやつはバンパーからアンカーを射出すると、職人のような手つきで彼を引き上げて、大きな口を開くとそのまま収納、流星のごとく最寄りの病院に向けて搬送していった。

「あー、ここに入るときにナノマシンを注射されたでしょ。ここでは住民のすべての体調とかの情報が本部に送られてるんだ。だから万一のことがあってもすぐに駆けつけてくれて、その……」

 そこでサクラは言葉に詰まってしまった。搬送車が去ったあとの道を彼女がぽかんと口を開けて見つめていたからでもあるが、それ以上に、その顔つきが……単純に「美しい」という言葉で片づけていいか迷うくらい、独特で人間離れしたもののように思えてきたからだ。

 すると、突然彼女が「すごいな!」と目から流星をこぼしながら叫んだ。そこで、サクラは自分もぽかんと彼女のことを見つめてしまっていたことに気づいた。

「この町に来てから、新しいこと、不思議なこと――なにより、『うきうき』することばかりだ! あぁ、私の新しい世界は、ここから始まるんだな……」

「世界の、始まり……?」

 サクラの頭の中に、ルネが言った「世界の終わり」という言葉がエコーする。けれど、何の含みもない彼女の笑顔にそれはすぐにかき消されてしまった。

 サクラは自然に口を動かしていた。

「君は……?」

 問いになるかならないかの小さく曖昧な言葉に、彼女は最大のジェスチャーで報いた。彼女は腰に両手を当てて、ローブの下で威風堂々と地を踏みしめ、世界中に響きわたるように高らかに名乗りをあげてみせる。

「私は、シルヴェット・アルブレイツベルジェル――今日この学苑に舞い降りた運命の《調停者》にして世界の《解決者》……すなわち、救世主ってやつだ!」

 サクラは呆けたように彼女の視線を受け止めた。なぜだろう……寒気とともに、自分の身体のどこかで、遺伝子がぞわりと震えた気がした。陳腐な言葉だが、『運命』という言葉が浮かんだ。身体のどこかにアカシックレコードとつながっている部分があって、おもわず「やった!」と快哉をあげたような。そんな……

 これがシルヴェット・アルブレイツベルジェルと、その騎士たるサクラ・シラハセの宿命的な出会いだったのだ。

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