創世の園へ
第1話
その部屋は宇宙のもっとも片隅にあるような部屋だった。せっかくの大きな窓も分厚いカーテンに覆われて部屋の中は目張りしたように暗い。
それでもわずかに開いた隙間からピンホールカメラの穴のように細い光が射して、室内の壁をほんのり照らしている。
さて、その五畳ほどの空間の真ん中に、トーマスおじさんお気に入りのオールド・クロウは結座する禅僧のようにじっとたたずんでいるのだが、その部屋の床にあるものといったら脱ぎ捨てられた服と酒瓶とドミグラスソースの焦げ付いた鍋底のようにぐちゃぐちゃと黒く固まった毛布しかない。
しかし、雑然としつつも物の少ない床とは違い、壁はまるでコンビーフ缶のようにぎっしり物が詰まっていた。白い壁紙が露出している部分はほとんどない。そこにあるのは額、額、額だ。美術館もなかった時代に趣味人の王侯貴族が自分の目利きを披露した驚異の部屋、そのグロテスクでカオスなありさまを思わせる。
ただ、異なっているのはその額が絵画のものよりかは幾分細く簡素なこと、そしてその中に描かれているのが限りなく精密な女性の裸体ばかりであるということだった。しかし、その筆致の驚異的な精細さによく目をこらすと、まるで蛸の吸盤のように、ぐにゃぐにゃした線状のくぼみが覆っている。
そんなモザイクの女性たちの視線を一身に受けながら彼は――バティスト・メセンスは、最果ての部屋のまたさらに隅っこで新たな創作活動にいそしんでいた。
まるでチェスの駒を置くように。いやむしろ東洋の囲碁に比するのがふさわしいか。ぱちん、ぱちんと静謐を一定のリズムで乱しながら。黒い肌をさらに闇の中に融かし込みながら。一心不乱に手元のピースをはめ込み、平面に肉感を落とし込んでいく。
まるでこのとてつもなく暗く狭い部屋ですら、彼には広すぎるようだった。無我夢中に、自分を凝縮させるように、曲がった背中をさらに丸めて、彼は描き出そうとする。
すると突然、光が射した。何かぐぎぎぎと重い足を引きずりながら、扉が開かれる。
「やぁ、バティスト、おはよう」
ドアの重さに少し押し殺した声に、バティスト・メセンスはゆっくりと振り返る。
ほとんどもぐらのような生活をしている彼には、突然の日光はまぶしすぎる。だから扉の向こうには何も見えない。
ただまばゆい光だけ。
けれども、わざわざこのだだっぴろい屋敷の辺境までえっちらおっちらと遠征してまでもぐらの寝床にちょっかいをかけようなんて数奇者は彼女しかいない。そして彼女はいつも光とともに現れ、言い換えればバティストにとって彼女はいつも光そのものといっても過言ではなかった。
「……シルヴィー」
シルヴェット・アルブレイツベエルジェル。
蜜色の髪をした、彼の主人であり唯一の家族。
なぜだかわからないが、バティストはいつも彼女と一日最初の言葉を交わすたびに、何か甘いような苦いような不思議な味が奥歯からにじみ出てくるのを感じるのだった。それを少ない唾液でのどの奥に押し込んでから、バティストはやっと返事ができる。
「……おはよう」
「ああ、おはよう」
目玉の奥の筋肉がきゅるきゅる音を立てて必死に彼女にピントを合わせようとする。やがて輪郭の滲みがひとつの陰に吸収されていって、少し不機嫌そうな顔でのぞき込む彼女の姿が現れる。
「ひどいじゃないか。薄情なやつだよ、お前は」
そう言ってシルヴェットがノブをつかみながらドアにしだれかかると、ドアの枠に切り取られた四角い光がぐわりと部屋の中に押し寄せる。ジグソーパズルのコーティングが光を浴び、裸体の白い肌がてらてらと反響した。
「世界に二人とないお前のご主人様が今日こうやって新しい門出の日を迎えたというのに、お前さんときたらあいも変わらず卑猥なパズルにご執心ときた」
ふぅ、とおおげさに息をついてみせる。
彼の周囲にはたくさんの円筒が転がっていた。どれもみな、『プレイボーイ』の懸賞で当たるヌードモデルのジグソーパズルだ。
「主人として寂しいよ。いくら見た目はおっぱい大きくても結局は平面だ。その上で自動車だって走れる、キャベツだって切れる。それに引き替え、私には立体だし、現実だし、胸もあるし何よりご主人様なんだぞ。どうだ。さっさとひかえおろう」
そういってばっと右手を胸にあててポーズを決めてみせる。それを眺めながらバティストは格言集を朗読するようにもったいぶった口調で言った。
「ない袖は振れない。ない胸は触れない」
「だれも触れなどとは言っとらん」
シルヴェットがばしっとバティストの肩を叩いてみせると、バティストはほんの少しうつむいて、ほんのほんの少し悪びれた様子で、
「……すまない。けれど、バラバラのままなのも気分が悪くて」
「一生に一度きりの学苑(・・)の入学式に私がついてきて欲しいと頼んでいるのに、そっちのほうが大事か?」
「……」
バティストはシルヴェットの顔を見た。なんでそんな酷いことをおっしゃるのか、と言い出しかねない複雑な顔だ。表情が豊かな割に口は真一文字に閉じたままだが、それはまとまらない心を口にしても失態を晒すのは目に見えているからだ。そして、シルヴェットもまた彼の思考のパターンはよく知っている。
「……仕方ないなぁ」
そういってバティストの横にすとんと座った。
「手伝うか」
「……遅れるぞ」
鈍重な返事にシルヴェットは口をとがらせる。
「お前が素直についてくればいいだけじゃないか」
「俺は素直だ。外に出るのと、シルヴィーとパズルをするのだったら、どっちを選ぶかなんて愚かな問いだ」
「お前って……本当にだめな奴だな」
シルヴェットはそういいながらも少し微笑んでいる。
「だが、お前は従者だから選ぶ権利は私が握っている。これだけ褒美をやるんだから、お前にもたまには日の目を見てもらうぞ」
「強請りだな」
「どんな強請りだ」
そんなことを言っている間に、だんだん会話は途切れ、二人はひとつの画面に向かって集中し始める。
よくジグソーを組むのが早い人間は部分部分ごとに組み立ててそれぞれ大きなジグソーに仕立ててから全体を俯瞰すると言うが、バティストはそれをしない。加えて完成図もよく見ない。ただ通信販売で片端から購入して、一気に箱を開けてがむしゃらに組み立て始める。最初はいつもへその部分から組み立て始めるのを何かの教義のようにこだわっているが、その後は律儀に四隅を埋めた後、ランダムにひらめいたところから端っこを埋めていく。こんなもんだからパズルの腕はいっこうに頭打ちで、一枚完成させるのに2時間はかかる。まるで自分が習熟するのを嫌っているような雰囲気さえある。
それは手伝うと言ったシルヴェットも同じで、シルヴェット自身はさしてパズルに興味がない……というよりも「秩序的思考」やら「俯瞰的視野」なんて言葉なんてしゃらくせえ、と切って捨てるようなタイプなので、完全に行き当たりばったりのフィーリングで、ジグソーをつなげてはあれは違う、これは違うと言ってトライ&エラーを繰り返していく。しかしこれも、何かゆったりとしたバティストのペースにあわせているような雰囲気さえある。
まるで、子供の遊びのような風景だった。プレイガールのスナップという題材に取り組んでいるにしては、何か二人の表情は砂場に指で絵を描く幼児とさほど変わらないように見えた。
それでも、一人より二人のほうがいいもので、盤面は着実に埋まり、いよいよあと一ピースを残すのみとなった。今回のプレイガールはテクス・メクス的な雰囲気の肌のよく灼けたグラマーで、ソファに寝そべった胸元が少し露わになっているくらいの比較的穏当なものだ。
「お粗末さま」
シルヴェットが最後のピースをはめ込んだあとにそう言うと、バティストは無言でうなずいた。
「さぁ、これだけ付き合ってやったんだから、さっさと用意しろ。おまえのせいで晴れやかな入学式を……『私だけの入学式』を遅刻する羽目になってしまったんだからな」
「……だるい」
バティストは愛想がない風にゆっくりと立ち上がる。それを見てシルヴェットはにへらと笑った。
「あぁ、そうそう、お駄賃をいただかないと」
その言葉に、バティストは少し逡巡した後、目の前のすっかりできあがったパズルの一片を躊躇なくはぎ取り、シルヴェットに渡した。
「サンキュ」
シルヴェットはその一片を扉の向こうから差し込む光にかざしてみせる。バティストは完成したパズルにはもう目もくれずに、ただただまた太陽の光に包まれるシルヴェットの姿をじっと眺めていた。
徹夜の眠気も、穴蔵暮らしの倦怠も……何か報われた気分がするのは、パズルが完成したことだけでは説明できないだろう。
(本当に根性の曲がった奴だよ、俺って……)
バティストは心の中で自分に悪態をつく。
(パズルを買ったのも、あんな口聞いたのも、みんなシルヴィーのこの顔が見たかったからじゃないかって、そんな陰謀論めいたこと考えちゃって……)
「なんですか……それ」
学苑に向かう車内でシルヴェットに訊いたのは車を運転する女従者だった。本来ならバティストが運転するのだが、幾分準備に手間取るらしい。自分はあとでシルヴェットの後を追うというなんとも殿様なことを言い出したとき周囲は少し殺気立っていたようにも見えたが、バティストとシルヴェットは涼しい顔をしていたものだ。
こうして急遽運転を任されたシルヴェットより少し年の上の女従者。小さなピースを手の中でもてあそんだり、サイドミラーの反射にかざして見せたりするシルヴェットの姿はバックミラー越しでも異様に見えるらしい。
「乳首だ」
シルヴェットがこともなげに言うと、女従者は不可解そうに少し顔を歪めて見せた。
「バティストはいつもプレイガールのパズルが完成すると、私に一つピースをくれるんだ」
女従者はさらに理解できない、という風に眉をひそめる。
「どうして、また」
「中国のおとぎ話があって」
「……はぁ」
「とびっきり絵の上手い達人がいるらしくてな、何でもあまりに本物そっくりに描けるものだから、いつも目玉だけは書かないようにしていたらしい。何でも、何かひとつ欠点を作っておかないと絵が本物になって動き出してしまうらしい。それでも皇帝は無理矢理竜の絵に目を描かせて、結局空に飛んで行ってしまったらしい」
「……それと何の関係が?」
「怖いんだと」
「怖い?」
シルヴェットは少し肩をすくめてみせる。
「ピースが全部埋まってると、女が額縁から抜け出てくるんじゃないかって。バティストは」
「未開人ですか」
女従者はあきれたような声を出す。けれどシルヴェットはゆっくりと首を振った。
「ありゃ、性格だよ。それにさ……一片の曇りもなく完璧っていうのは、誰だって怖いもんだ。ちょっとバティストは用心に過ぎるが……そんな過敏さが助けになることもある。だから、私はあいつをそばに置いているんだ」
「少なくとも、私は……」
女従者は何か言葉を選ぼうとするそぶりを見せた後、少し言葉を強くした。
「あの男が学苑で生き残っていけるとはとうてい思えませんが。あなたも、あの黒人も、学苑のシステムというものを甘く見積もり過ぎているようにしか思えません」
「うーん、そうか?」
シルヴェットは頬を指の腹でぺたぺたと触りながらはぐらかす。
「ま、仮に私たちが学苑を生き残れなかったとしても、それは単にそれまでのものだった、それだけだよ」
ここで初めて、女従者が運転しながらほんの少し、ちらりと視線を後ろのシルヴェットに向けた。その視線にぶつけるように、シルヴェットは笑ってみせる。
「学苑がこんな面白い二人を受け入れられない場所だとしたら……《人類の最高学府》なんて二つ名、名前負けだと思わない?」
「……そうでしょうか」
女従者は無言で視線を前に戻した。ほとんど車の通らない広い道路の先に、19世紀から抜け出してきたようなネオ・コシック的な尖塔が見える。地平線が下がるにつれ、その下にまるで巨獣のように横たわる赤茶けた建物の群れ……いや、塊が姿を現した。
「まぁ、少なくとも、見た目は名前負けしてはいないかな。お手並み拝見。こっちの水は甘いか、辛いか? いやぁ、わくわくする。なぁバティスト?」
あれが、今日からシルヴェットとバティストの二人が入学する『学苑』。いずれ世界を変え、「世界」を創り出し、
「世界」となるべき者たちが集う、世界の中心――
「ところで、なんで乳首……」
「バティスト・メセンス氏曰く……『こいつは乳首が汚い』」
「押しつけられているだけじゃないですか……」
「にへら」
「なぜそこで笑うんです……」
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