The Song of the Ark ~ハコブネノウタ~

山田劉生

プロローグ Black Bird

 この宇宙が始まる前。ビック・バンとやらで宝石箱がぶちまけられる前に、世界は存在したのだろうか? もし、存在したのなら、それはどんな姿をしているだろう?

 そんな漠然とした問いにも即座に答えてみせるのがシルヴェット・アルブレイツベルジェルという人物なのだ。

「そりゃぁあれだ、バーの形をしてるんだよ。こぢんまりした――人が1ダースでも入ればぎゅうぎゅうになってしまう、うんと狭いショット・バー……なんたって、あそこにはこの世のすべてがあるからな。まったくあのエタノールとかいう液体はエーテルみたいにすべてを溶かし込んで――野望、改悛、茫洋、悲痛、それに歯痛……あぁ、煙には目を、酒には歯を……」

 そんな彼女の至言に従って、サナダ虫のようにとりとめのないこの一遍、バーのカウンターという小宇宙から始めることにしよう。


 カウンターにはギネスやらキルケニーやらのサーバーが客を待つ従順な子犬のように座り込んでいる。頭数は五匹ほど、本場から見れば少ないくらいだが、こぢんまりとした店内ではむしろ威圧感さえある。彼らを守るようにバックバーにたたずむのは、肩を怒らせて鎮座する四角いブッシュミルズ、その隣には貴婦人のようになで肩でエメラルドの光沢を放つジェムソン、ウイスキーの帝国の皇帝と女皇のように佇んでいる。そこだけ見るとアイリッシュバーの体だが、並んでいる酒はスコッチが半分、あとはラム、テキーラ、焼酎、何でもござれ。上気頭をさらに沸騰させるのにもってこいのケルティシュ・ミュージックは鳴りを潜め、濃縮された空間と戸棚に満ちた酒瓶の圧が、無言で「飲め、さぁ黙って飲め」と語りかけてくるような……一つ一つが持ち場を守り、アナログがデジタルと化して一つの抽象的な画布を作り出している。煩雑さを通り越して深い精神性さえ感じさせる、そんな場所だ。

 もし沈黙が嫌いで、どうしてもBGMが欲しい御方なら、ほんの少し開いた窓の向こうに耳を澄ませるといいだろう。ごつ、ごつんと壊れかけの太鼓が変拍子を刻み、そのたび合唱隊(コロス)がわぁと斉唱し、恋に狂える騎士たちの二重唱がときおり合間を縫って風に運ばれる。

 もっとも、どちらがオルランドでどちらがアストルフォかは聞き分けようがないが。

「バカ言うな、オルランド以外いねぇよ……」

 トーマスじいさんは丸い腹を抱えるようにして、カウンターの上にかがみ込んだ。いまこの店に客は彼しかいない。常連で一番年上の彼をじいさん(オールド・グランダッド)と呼んで慕うほかの客も、今は皆ケンカの野次馬で出払ってしまっていた。もっとも、白髪交じり眉間に深いしわを寄せてグラスの中にどっぷりと沈む彼はまだ四十過ぎでしかないのだが。

「どうしました?」

「この町にはオルランドしかいねぇって言ったんだ」

「しかし、狂っているとはいえオルランドは騎士。彼らには騎士といえるほどの高潔さはありますか?」

「騎士だよ」

 トーマスじいさんは顎を机にのけたまま顔だけ上げてショットグラスの底に張り付いたウイスキーをちゅうちゅう吸い込んだ。

「高潔さはないかもしれないが、守るべきものはある。このしみったれた町を侵略から守る最後の残兵があいつらだ。畜生め、だがあいつらさえいなくなったら、この町はもう俺一人だ。俺一人なんだ」

「はい、はい。後生だから、飲み過ぎだけはお気をつけてくださいね」

 そういって赤くなったじいさんの首筋を濡れたタオルで拭くマスターのなりは、この町には失礼だが、全く似つかわしくないほどにきちんと整っていた。ほんの十数年前までは世界の大衆車のほとんどを生産していると言われ、世界の歯車だなんて言われたこの街も、今や海の向こうから押し寄せてきた質も良ければ値段もそこそこの大衆車にすっかり破壊され尽くしてしまった。今や決して叶えられない欲望とはけ口にもならない暴力が横行するこの町のなかで、このバーの主人は宇宙人といってもいいくらいの存在感を放っている。そのせいかこの店内でケンカ沙汰は一度もおきたことはなかった。

 もっとも、彼も近くの路地で行われる私闘まで関知していない。

 これすなわち、このバーは町の住民にとって格好の避難所となるはずの場所。そのはずなのに現状じいさん一人しかいないということが、この街の大衆の悪い意味での好奇心の強さを表していた。

 じいさんはグラスを頭上に掲げたままカブトムシの幼虫のように背中を丸め、今にもすとんと眠りに落ちようとしているように見えた。そんな彼を揺り起こす代わりに、マスターは少し高めの声で話しかけた。

「おや、騒ぎが止んだようです。珍しいですね、こんなに早く終わるなど」

「そんなわけあるかい」

 じいさんはバカにしたように真っ赤な鼻をひくつかせた。

 この町ではケンカと言えばサッカーボードの駒のようなもので、一人手を出したら十人は右に倣えで飛びかかるというのが常だ。相手もしかり。リングロープに守られたボクサーとは訳が違う。一度始まればそれは小さな戦争だ。

 しかし、マスターの言うとおり、いくら耳を利かせても人の声一つ聞こえない。

(飲み過ぎて鼓膜がバカになったか……?)

そう思いつつ、身を起こす気力もなくうずくまるじいさんの耳に響いてきたのは、バーの扉がゆっくり開くからんからんという音だった。

 不思議な話だが、毎日聞き慣れたその音が、このときだけは幾分高く、澄んだ音に聞こえた。

 さらに妙なことを言うと、本当に妙な話なのだが、じいさんにはそれが何かの《福音》のように聞こえたのだ。

 酒のせいでほとんど盲目になった自分に光をもたらしてくれる、そんな救世主のような存在。


 実際、そうだったのかもしれないと、じいさんは今でも信じている。


「こんばんは(ボン・ソワール)マスター、まだ営業中かい?」

 そう言いながら店に入ってきたのは驚いたことに、小学生(エレメンタリー・スクール)に通っていてもおかしくないような、ずいぶんと小柄な女性だった。表情を見れば背丈以上に大人びた雰囲気があることには気づいたが、それでも全体の印象の瑞々しさは、今やじいさんの穴蔵と化したこの場所にはひどくまぶしく見える。

 鼻の周りに赤くそばかすが広がっている。つり目に装飾された碧眼は意志の強さを感じさせるが、ピスクドールのように少し膨らんだ頬が強気な印象を緩和している。特段の美少女というわけではないが、かなり人好きのする風貌であえることは確かだ。身に纏うは、17世紀の絵物語から飛び出してきたかのような、モノクロームのパターンが丁寧に刺繍された袖と丈の長いローブ。

 それよりも特に印象的だったのはその黄金と白銀の輝きを兼ね備えたような髪だ。少しの乱れもない直毛であるにもかかわらず、何かねっとりとしたふくよかさを感じさせる質感で、そこから蜜酒(ミード)のような甘い香りが放たれているのが遠くからでも嗅ぎ取れた。

 そんな目を奪う姿をしているものだから、

「大丈夫だ。あそこでくたばってるのがキッチンドランカーじゃなきゃ、この店はまだ営業中のはずだ」

 そんなしゃがれた声が聞こえるまで、じいさんは彼女の隣にいる存在に気がつかなかった。それは何かの夜会に行った帰りのような古めかしい燕尾服を着た黒人だった。しかし目を凝らすとそれは古めかしいのではなくて実際に古く、所々シミやほつれが目立つ到底夜会には着ていけないような代物。おまけに本人のひどい猫背とやぶにらみも相まってひどく不格好に見える。あの光輝くブロンドの少女の傍らとなると、まさに正反対の……美女と野獣というよりか、むしろ天使と悪魔とでも呼べるくらいのペアだ。

 二人はつかつかとカウンターに近づくと、じいさんのすぐ横に腰掛けた。隣が薄汚いなりをした黒人、そのさらに隣りに女。黒い方はまぁまぁ背が高く、じいさんの真似をするように同じカブトムシの幼虫のポーズを取るので、じいさんからは彼女の姿はほとんど見えない。しかし、彼女が腰を落ち着かせるのもそこそこに、

「インチマリンの一〇年(テン)。ニートだ」

 そう端的に注文したのには驚いた。インチマリンなどという際物が彼女の口から発せられたのも驚きだが、何よりそれはアメリカの数え方ならアルコール強度(プルーフ)八〇はあるウイスキーだ。それをそのまま(ニート)で子供に飲ますなど虐待以外のなにものでもない。

「あぁ、そうそう、表が少し散らかっていたから、ちょっくら片づけておいたぞ」

 そう彼女が続けざまに言うと、マスターは深々とお辞儀をした。

「それはそれは、大活躍でしたね」

「何だぇ。この町はおまえの管轄だろう。いままでどれだけたくさんの《アーク》が来たのか知らないが、道中の管理ぐらいちゃんとしろ。あと場所がわかりづらい。ここにくるまでに何度も同じ道を行ったりきたりして、そのたびザコに襲われて、ボードゲームかっての! そもそもこの場所にたどり着くまで――いいや、言いたいことは山ほどあるが」

 彼女の目の前に水とともにすっと置かれたショットグラスを彼女は目の前に掲げてみせる。

「この一杯(ドラム)に免じて今日はこれくらいにしてやる。乾杯」

 そう言って趣味も品格もない、という風に中身をぐいっと一気に飲み干した。男のほうはというと出された水を飲むだけでいっこうに頼む気配がない。彼も彼でバーには似合わないたぐいの人間だ。

「それは大変申し訳ありませんアルブレイツベルジェルさま。しかし、このバーを求めてくるアークにとって、あんなチンピラは下級のゴブリンのようなものでしょう?」

「ゴブリン以下だ」

 シルヴェットは吐き捨てるように言った。

「ゴブリンは自分の欲のために奪うが、あいつらは奪うために奪う。それでも満足できないから永遠に戦うしかない。だからちょっとしたお仕置きは必要だろう。これでこの町ももう少しましなダンジョンになるかもしれん。まぁ、あんたにとってはもうどうでもいいことかもしれないが……」

 マスターは深くうなずいた。

「そうですね、シルヴェット・アルブレイツベルジェル様。最後のアークたる貴方がご来店された以上、私がこの店に――この町にいる理由はありませんから」

 その言葉を耳にして、トーマスじいさんはゆっくりと頭をもたげた後、「お、おいおいおい、お前なんて……」と凍りかけの蛇口のようにたどたどしく言葉をこぼした。

「この町を出てくって……冗談だよな? 何だってぇそんな、藪から棒に……」

 マスターはそれには答えずに、じいさんの前にひとつウイスキーと四角い氷の入ったグラスを置いた。

「まことに突然で申し訳ありませんが、これが最後の一杯(ラスト・オーダー)となります……ひとつだけ感傷的なことを申し上げますと、トーマスさん、貴方が最後のお客であることはなんとなしに予想はしておりましたし、こうしてその時を迎えてみると、貴方でこの店を畳むことができて、よかったと思います」

 トーマスおじさんは訳がわからなかった。訳が分からないなりに、彼の手は自然とグラスへと向かい、中の液体を半分ほど飲み干した。理性が働かない分、本能だけが動いている。その味は不気味なほどにいつも飲むロックと変わらず、自分がさっき聞いたことは夢だったのではないかと思ってしまうほどだ。

 ぼんやりした頭でもう半分を飲もうと手を伸ばす。するとその手は空を切った。二回、三回猫の手のように腕を繰り出すが、届かない。二人が席を立つ振動が床越しに聞こえてきてはじめて、視界が90度傾いて、自分が今バーの床に横たわっているのに気がついた。

「あぁ……あ……」

 まるでひっくり返った団子虫のようにじいさんは腕でもがく。しかしこのときばかりは団子虫のほうがマシだった。じいさんはいくら足掻いても起きあがることはできないのだから。

 そんな哀れなじいさんの飲み残したウイスキーに、となりの黒人がゆっくりと手を伸ばす。そしてあたかもドッペルゲンガーのようにじいさんと同じ仕草でくいっと飲み込んで見せた。

「……ペンキみたいな味がするな」

 そう顔を少しゆがめ、じいさんを見下ろす。

「けど、たぶんうまいんだろう」

 フランス訛りの英語でそう言い残すと、彼は隣の少女とともにカウンターを立った。

 マスターはかしこまった風にうなずくと、後の戸棚から右手にブッシュミル、左にジェムソンを取り、チン、と底をすり合わせる。


 ここからの体験はほとんどじいさんの主観で、しかもひどく酔っぱらっていたので10割ほど差し引いて考えた方がいいというのが後日彼の話を聞いたじいさん仲間の共通見解だが――確かにじいさんは見て、聞いて、感じたのだ。たとえどれだけ前後不覚になろうが、あれだけの驚異を見て酔いが醒めない人間などいるか、だから俺は酔っていなかったんだ……


 これがじいさんの言い分。


 彼が見たのは……

 マスターの合図をきっかけに、開けゴマとばかりに背後の重厚な棚が石臼のような音を立てて開いたさま。

 その奥に続く空間が、まるで古城の地下室に通じているかのようになにかひんやりと、不気味な「質感」を与えたさま。

 けれどとにかく真っ暗で、「奈落」という言葉以外はなにも具体的な形容を与えなかったさま。

 その「奈落」へと促すようにマスターが手を向けると、少女がその「質感」を確かめるように手をかざしたさま。

 やがてその闇に歩を進める、というよりも落ちるといった風に一瞬で吸い込まれ消えてしまったさま。

 連れの黒人も同じように消える、そのまえに振り返り、床に頬ずりする自分を見下ろしながらなにか一言、二言、言葉をかけたさま。

 そしてマスターがショーの終わりのように一礼すると、その扉の奥から流れ出してきた闇が自分の視界をつぶしていくさま……

 あの黒人とちがい、マスターは自分を見てはいなかった。

 たぶんあのお辞儀は誰に対するものでもなかった。

 異界からやってきた魔神か宇宙人の類がこの世界におさらばするときの――「世話になったな」という感謝のしるしなのだ。

 そのことがなぜかとんでもなく悔しくて、悲しかった。

 じいさんはそのとき初めて気づいたのだ。いつもカウンターの一番端に座っておきながら、自分は誰よりも構ってほしかったのだ。あのマスターに。ほかのどの客よりも、誰より自分を。

 まるで母親を取り合う兄弟のように……


 翌日。

 じいさんはバーの近くの交差点のどまんなかに大の字で横たわる自分を発見した。さすがの暢気なじいさんも車が来ないかどうか周りを見渡そうとした。けれどもすぐにそれが無駄だと悟ったのだ。

 周りには水揚げ後の漁船のデッキのように無数の人間が横たわっている。ちらほら見える顔はあのフィストファイトの野次馬に行った常連たちだった。

(後から聞いた話だと、あの時あの金髪の少女と黒人の二人組が現れて、なにやらフランス語訛りで汚い言葉を二、三言ったあと、急に足下に「闇の沼」が広がり、そこから現れた爪の長い不潔な指先に引きずり込まれてしまったという。とあるキリスト教徒はダンテの見聞そのままのおぞましい地獄を間の当たりにし、また近くの自動車工場で働いているモン・チャイニーズの仏教徒は六道の巡りを体験したらしい)

 じいさんは少し顔を上げてバーのあたりを眺めたが、そこはまるで空間を根こそぎ持って行かれてしまったようにぽっかりした空間が広がり、なにかよくわからない臭くて薬効のありそうな雑草が生えているだけの空き地になっていた。

 じいさんは昨日の出来事がすべて夢だったかと思った。けれどじいさんは気づいた。奥歯のさらに奥……正確に言えば、親知らずを抜いたあとのおおきな歯ぐきのくぼみに、あの最後のウイスキーの欠片がすっぽり収まってるのに気づいたのだ。

 ああ、ありがたい……

 じいさんは太陽が上ってくるのを感じた。昨日とは違う、新しくも退屈な日々が始まるのを感じた。

 けれどじいさんは寝転がったままだった。太陽がまた沈んでしまうまでそのままでいた。そのまま少しずつ、少しずつ奥歯の奥の酒をちびちび嘗めながら一日を過ごした。

(すべて夢だったとしたら、もう少し長く……)

 じいさんは幸せだった。この幸せが長くないことを知りながら、その余韻を味わえる自分の人生の贅沢さをかみしめていた。


 さて……

 このじいさんの奥歯の奥に収まったウイスキーである。

 じいさんがあのバーでいつも頼んでいたのが《オールド・クロウ》というバーボンだった。大麦の上にカラスを乗せたようなラベルが印象的なウイスキーだったが、あの店にあったオールド・クロウは明らかにラベルを張り替えた跡があり、液色も今の市販品よりいくぶん濃かった。そしてなにより、彼がいままで飲んだどんな酒よりもべらぼうに香り高く、まろやかで、とにかく最高の酒だった。

 酒のことに関していくぶん博識なじいさんはそれが創業者ジェームス・クロウ博士が作った伝説のオリジナルボトルではないかと疑ったこともあったが、前世紀からすでに希少だったそれがさびれた町の片隅のバーに眠っているだなんてできすぎた話があるわけがない……結局そういう結論に至っていた。何度聞いてもマスターは企業秘密の一点張りだったので、結局最後までその正体はわからずじまいだったことになる。

 さてそのオールド・クロウのボトルであるが・・・・・・


 カナダ連邦はケベック州ケベック・シティー。はるばる国境を越えた先にあるホワイトハウスのように大きな屋敷の片隅。あの黒人が住む部屋の一角に、今はどういうわけか収まっているのだった。

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