第四話 「第一の選択」

 ハイデンへは長い旅だった。

 その過程で、アッシュは同行している元花屋の娘の名がアリアであることを知った。

 アリアとの旅の途中、幾度か野宿した。その可憐な寝顔を見ながら、アッシュは己の理性を保つことに努めなければならなかった。

 俺は他の傭兵どもとは違う。その強い思いが彼の中に芽生える強い欲情を抑えつけていた。

 俺はこの女に惚れてしまったのだろうか。

 俺はソフィーが好きだった。こいつはその生き写しに過ぎない。

 眠る彼女の綺麗な髪に触れかけようとしている己に気付いた。自分の心臓が激しく脈を打っているのが分かる。これ以上は駄目だ。俺が俺でなくなってしまう。俺はこいつに手を出すために、恩を笠にするためにここまで護ってきたわけではない。

 アッシュは手を引っ込めたのだった。



 ハイデンは小さな町だった。

 アリアの生家も無事に残っていた。町民は顔見知りで、アリアの帰還を喜びつつ、アッシュへは怪訝な目を向けていた。

 仕方がない。この平和の町の中で一人だけ血生臭い格好をしているからだ。

「アッシュ様、どうぞお入りになってください」

 アリアが家に招き入れた。

 彼女は道中決して笑顔を見せなかったわけでは無いが、レーニで花屋をしていた時ほどの眩しい笑顔は見せなかった。それが今、久々に戻って来ている。

 微笑みながら、生家の中を駆け回り、これまでずっと閉め切られていた窓という窓を開けて回った。

 アッシュが玄関先で佇んでいると、アリアは表情を輝かせてアッシュの手を取った。彼女の手は少しだけ冷たかったが、それが心地よかった。アリアはアッシュを家の中に招き入れ、彼に椅子を勧めた。

 だが、アッシュは固辞した。

「俺はもう行く」

 すると彼女は激しく頭を振り言った。

「アッシュ様は命の恩人です。私の危いところを助けてくれて、そしてここまで私を誠実に護ってくださいました。そんな恩人をすぐに追い出すような真似はできません。こんなところですが、どうか少しの間でも御滞在なさってください」

 そう言われ、アッシュの心が折れた。彼が座ると、アリアは安心したように晩の買い出しに行ってしまった。

 アッシュはぼんやりと窓の向こうを流れる雲を見詰めて考えていた。

 椅子に座った時点で俺は負けたのだ。俺はあのソフィーの生き写しとあらゆる意味で親密になりたいと思っている。

 だが、俺はここで立ち止まるわけにはいかない。あの日を、これまでやってきたことをこんなことでふいにするわけにはいかない。

 何があろうが、明日、ここを出る。そしてまた戦場に蔓延る剣持つ者達を殺し尽すのだ。




 夕食と風呂を済ませると、アッシュは今晩滞在する寝室に案内された。

「すみません、ろくに掃除もできず埃っぽくて」

 アリアが謝るが、アッシュは気にしなかった。

「それでは、お休みなさいませ」

 アリアが扉を閉めて去って行く。

 アッシュは眠れなかった。アリアのことが頭から離れなかった。流れる様な栗色の髪が、優し気な瞳が、小さな口元が、華奢な身体が、俺はアリアを抱きたいと考えている。何故だ、ソフィーに似ているからか。

 そのまま悶々として時間が少し過ぎたころ、廊下をこちらに歩んでくる微かな足音が聴こえた。

 アッシュは反射的に剣に手を伸ばした。

 扉がゆっくり開かれ、アリアが姿を現した。

「アッシュ様」

 薄暗い中をアリアはゆっくりと歩んでくる。

「アッシュ様、私を抱いていただけませんか?」

 アッシュは剣をゆっくり置いて応じた。心臓が早鐘を打ち、身体中が熱くなるのを感じた。たださえ妙な気分になり始めているのにその思いがけない言葉が浮ついた心に拍車を掛けてきた。

「私はあなたのことが好きになってしまいました。でも、あなたはきっと、明日、旅立たれるのでしょう? どうかその前に今宵、不束者ですが、私を抱いてください」

 いいにおいがする。アリアが近付いてくる。

「ソフィー……」

 アッシュの脳裏に幼馴染の姿が過ぎった。

「そのお名前は、時折、眠られるアッシュ様が何度も呼んでいました。心に決められた女性のお名前ですか?」

「ソフィーはもういない。死んだ。俺は間に合わなかった……」

「御可哀想なアッシュ様……」

「寝ろ、出ていけ。お前は似てるんだソフィーに。さもなければ、お前をどうにかしてしまう」

「……アッシュ様、ならば、私をあなたの愛したソフィー様と思って抱いていただけませんか?」

 アリアが近付き、アッシュの頬に触れた。

「……そうまでして俺のことを思うのか? お前はそれで良いのか?」

「はい。未練はございません」

 アッシュはその言葉に心が熱くなった。

「……わかった」

 アッシュはアリアの手を引っ張り寝台に誘い込む。情欲が失せたわけでは無いが、彼女の健気な思いに心を打たれた。

「アッシュ様」

 アッシュは貪る様に彼女に深い口づけをした。

「アリア」

「はい」

 その日は密の濃い夜となった。



 二



 鎧を身に着け、腰に三本、背に二本の剣を背負ってアッシュはハイデンの町の入り口に来ていた。

「本当に行かれるのですね」

 アリアが寂し気に言った。

「こいつを。また花屋をやるのも何でも良い、それの足しにしてくれ」

 アッシュは惜しみの無い金の詰まった袋をアリアの胸元に預けた。

「こ、こんなに、いただけません!」

 アリアが慌てて言った。

「良い、持ってろ。……お前には笑っていて欲しい」

「アッシュ様……」

 アッシュは歩み始めようとした。

「アッシュ様、ここでお暮しになりませんか?」

 アリアが前に躍り出てきて強い表情で言った。

 ここで暮らす。この愛しいアリアと共にその生が尽きるまで……。

 心が揺らいだ。

 そんな人生も良いのかもしれない。

 だが傾きかけた思いに、いや、と、アッシュは己に言い聞かせる様に頭を振った。こんなところで終わっていいわけがない。俺は何のためにここまで血と屍を積み上げてきたのだ。俺はこれから先も傲慢なる戦士と名乗る戦士共を殺し尽すのだ。俺の味わった思いはこんなところで途絶えるほど浅くは無い!

 ソフィーの笑顔が浮かぶが、それが消え失せ、今はアリアにとって代わった。

 アッシュは狼狽した。

 アリアを置いて行って良いのか? そうだそれで良い。彼女には幸せになってもらいたい。こんな血にまみれた男では無く、まともな綺麗な男と。

「……じゃあな」

 アッシュは再び歩み始めた。

 すると背後からアリアの声が響いた。

「もう二度と無いのかもしれませんが! 私はここであなたのお帰りをお待ちしております! ずっとずっと!」

 アッシュは足を止めかけたが、結局、応じることなく歩みを進めて行った。

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