第36話 鍵と絆

「サナエ、やっぱりここにいたか」後ろで父の声がした。振り返ると、そこにはジャケット姿の父が、花を手に立っていた。足元の玉石がじゃりと音を立てた。サナエは立ち上がり、父と向かい合う。

「どうしたの? お父さん」

「家に帰ったら、車がなかったから、きっとここじゃないかって思ったんだ。入れ違いにならなくてよかった」

「お父さん。私、先生やマリコさんから色々聞いて、それで」

「ああ、分かっている。タカシから話は聞いているよ。悪かったな。今まで黙っていて」


「ううん、いいの。お母さんがあんなことになって、お父さんにも先生にもマリコさんにも、謝らなきゃいけないのは私の方なのに」父の声を聞いた途端、涙が溢れてきた。母が亡くなって、一番悲しかったのは父に決まっていた。男手一つでサナエのことを育ててくれた父には感謝をしてもしきれないはずなのに、ありがとうの一言さえ父に言ったことはなかった。

「母さんの前で泣くやつがあるか。サナエが悲しんだら、母さんも悲しむぞ」父も涙声だった。父はもしかしたら、最初から知っていたのかもしれない。警察からは事故の状況くらい説明を受けているだろうし、遺留品としてレンタルショップの袋があったことも、その中身がどう考えても娘の借りたものであろうことも、父は知っていたに違いない。

「ごめんなさい。お母さんが死んだのは、私の所為なの」

「サナエ、あれは事故だ。母さんがあの時間に外出したことに何の罪もないし、仮にサナエが外出の原因を作ったとしても、それは事故とは全く関係がないじゃないか」


「でも、私が頼まなければ、お母さんはあの時間に外出なんて」

「違うんだ。母さんはあの日、元々外出の用事があったんだ。サナエの合格祈願に神社へ。サナエ、すまなかった。サナエがそのことを気に病んでいたとは、父さんも知らなかった。大丈夫。サナエのことを、誰も恨んでいないし、お前は今でも父さんと母さん自慢の娘だ」

 母が最期の瞬間まで、サナエのことを考えていたのだと知った。さなえは結局母の愛情の中にいたのだ。一方でサナエはずっと自分のことしか考えていなかった。母の愛情や父の悲哀、そのすべてから逃れるように生きてきた。

 どうして自分はこんなにも弱く、ずるく、醜いのだろうと、ずっと自分を責め続けていた。それさえも、自分の中だけで抱え、育ててきた感情に過ぎない。母を失って、父がどのような時を過ごしてきたのか、サナエは知らない。


「お父さん。ごめんなさい」サナエは、孤独だった。それはきっと、自分で自分の心の扉に鍵をかけていたからだ。あの日、母の一周忌の時に、父を苦しめまいとしてかけた鍵だ。あの日からずっとサナエはその扉に触れることはなかった。母の記憶は、きっとそのドアの隙間から流れ込んでいたのだろう。今日、ようやくその鍵を開ける時が来たのだ。これからは、鍵をかけるのはよそう。いつでも開く扉の向こうには、確かに母がいる。それはとても心強いことのように思えた。

 父はサナエの横に立った。花を墓前に手向け、そして手を合わせた。家族なのだと思った。父と母とサナエの三人、色々なことがあったけれど、自分たちはどの家族にも負けない絆で結ばれた、家族なのだ。




「サナエ、一つだけ聞いてもいいか」車に戻る途中、父が言った。

「なあに?」サナエは涙を拭いながら言った。

「昨日仙台に行ってたんだろ。何か見なかったか」

「何かって、日誌なら見たけど。お父さんたちが三年生の時のやつ。マリコさんが見つけたって言ってたけど」

「読んだのか?」父の声が大きくなった。驚いた顔をして、サナエに掴みかかる勢いだった。

「え? もしかして、娘に見られちゃ困るようなこと書いてあったわけ?」サナエは意地悪く言った。まあ、大学生なのだから、下世話なことが書いてあっても不思議ではないだろうけれど。「大丈夫よ、ぱらぱらと見ただけで、文章に目を通したわけじゃないよ」

「そうか。いや、たいしたことを書いた記憶もないんだがな、若気の至りってやつだ。それを娘に見られたとあっては、父親の威厳ってやつが台無しだからな」


「あ、もしかしてあれ?」

「あれって、おいおい。どれだよ、あれって」

「違うかな。ごめん、やっぱり違うっぽい」サナエは可笑しくなった。父の慌てぶりは、しかし不埒なことを書いたという感じではない。どちらかと言うと、照れている様子だった。

「おい、何を読んだんだ。あれか、それとも」

 一人で狼狽する父を横目に、サナエは父と母のことを考えていた。

 仙台から帰る時、木村は最後に「本当は内緒なんですけど」と言って、紙を渡してきた。「あの日誌のコピーです。これだけは、どうしてもサナエさんに読んで欲しいって思って」


 サナエはそれを新幹線の中で読んだ。それは母の書いたものだった。冒頭を読んでいてはっとした。それは堀越から聞いた、誰かが死んだらどうするという話題に触れたものだった。

『人の死と、残された人の想い。コーヒーを飲みながら考えることじゃなかったって、少し反省。どうしてそんなことを考えたのかっていうと、自分のことと同じように相手のことを考えていたいって思ったからなんだけど、あの人にそれが伝わったのかどうか』

 名前は伏せてあるが、間違いなく父のことを言っているのだろう。母の勘は当たっている。父にそんな機微が分かるとは思えない。残念ながら、母は父のことを良くも悪くも分かっていたらしい。

『医者を辞めるって言ってたけど、それは止めてね。その手で一人でも多くの人の命を救っていってください』


 もしかしたら父が読ませたくなかったのは、これなのかも知れない。

『私が死んでも、私のことを覚えていてね。それだけでいいの。誰かを好きになっても構わないけど、私のこと、いつまでも覚えていてね』

 母は素直だ。そして、父のことが本当に好きだったのだろう。サークルの人なら皆読むことのできる日誌にこういうことを書くことができるのも、きっと母くらいだ。父はこれを読んだのだろう。もしかしたら、こういう内容の文章があのノートにはたくさん書いてあるのかもしれない。今度仙台に行ったら、じっくりと読んでやろう。

 父も同じ気持ちだったに違いない。父くらいの世代では愛情表現が苦手なのだろうが、サナエにはよく分かった。母が愛した人なのだ。母のことを愛しているから、今でも父は再婚もせず、一人でサナエのために働いてくれている。


 車に乗り込んで、エンジンをかけた。父はまだ何か言いたげだったが、おとなしく助手席に座った。

「サナエの運転する車に乗るのも久しぶりだな」父は話題を逸らそうと必死な様子だった。

「大丈夫だよ。ここまで無事に来れたんだから、帰りも楽勝よ」

「ああ、よろしくな」父はそう言って、窓を開けた。冷たい風に混じって、脇に立つ梅の花の香りが漂ってきた。

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