第37話 博士と紐
「家でいい? それとも病院に戻る?」
「家に帰ろう。仕事はもう終わった。明日も休みだし、今日はのんびりとしているよ。サナエは、今日は泊まっていくのか?」
「ううん。夜に東京で用事があって、お昼くらいには帰る」サナエはカーナビを起動して実家を目的地に設定した。サイドブレーキを下ろし、車を発進させる。「あのさ、お父さん、私、大学院の博士課程に進もうと思うんだ」
「博士って、研究者になるのか」父は少し驚いた風だった。「そうか。就職活動は、もうやっていないのか」
「うん。どうしようか迷ってたんだけど、やっぱり私、今の研究をずっと続けていきたいんだ。お母さんと一緒に探したシロツメクサのこと、もっともっと調べたいの。植物の分化する仕組みだったり、遺伝子の発現様式だったり、色々分からないことが多いから」
「分かった。研究者か、タカシのところで研究を続けるんだな」
「そう。先生にはこの間話したんだ。先生は、きっと大丈夫だろうって」
「そうか。やってみなさい。研究者の世界は厳しいが、それはタカシが一番分かっているから、色々と聞いてみることだ。研究だけじゃ、大学教授にはなれないしな」
「お父さんったら、大学の先生になんかなりたくたってなれないよ」
「いや、あのタカシにできたんだ。サナエにできないわけないだろう」父はムキになっているようだ。よほど堀越が大学教授に収まったことが信じられないのだろうか。人生は分からないと、父は以前言っていた。確かにその通りだ。人生は何があるか分からない。何がきっかけで自分の将来が決まるのか、それは誰にも分からないのだ。成功した人は皆、努力を積み重ね、そして限られたチャンスをものにした人なのだろう。自分にそれができるのか、不安はあったが、挑戦する価値はある。
「だから、来年もまだまだ学生だけど、大丈夫?」博士課程になれば、大学からの仕事を依頼されることもあるし、金銭的な負担は今より幾分少なくなるが、それでもアルバイトをする時間はあまりとれないし、大部分は父の仕送りで賄うほかない。
「お金のことなら心配することはない。ちゃんと蓄えもあるしな。そのかわり、研究に集中することだ。そして、三年で学位を取得すること。約束だぞ」博士の学位は、最低三年の研究と、論文を二編発表すること、そして博士論文の審査、その条件をクリアする必要があった。今度の学会発表が終わったら、その内容を含んだ論文を書くつもりだった。サナエにとって、それが最初の論文になる。問題なのは、三年で博士論文に相応しい研究成果が得られるかどうか、それだけだった。
「うん。分かった」三年というのは、なかなかハードルが高い気がしたが、やってできないことはないだろう。そのぐらいの気持ちでなければ、博士になど進んではいけないとも思っていた。「頑張ります。ありがとう。お父さん」
「ああ、気にするな。そういえば、今日の予定って何だ? マリコの店の、例のイベントか?」
「うん。そうだよ。今日はジャズピアノの演奏会なの。今回は私なんにも準備に関わってなかったんだけど、一昨日になっていきなり司会をやってくれって頼まれて」話しながら、思い出した。そうだ、司会をしなければいけないのだった。はあ、と溜め息を吐く。
「そうか、それは災難だな。まあ、何事も経験だ。学会発表だと思えばいい」
「発表の方がまだ気が楽だよ。自分のしたことを話すだけなんだから。まだ最後に演奏する曲ができてないみたいで、まともなリハーサルもできてないし、超不安」
父はそれを聞いて笑った。「行ってやりたいが、まあ遠慮しておくよ」
車は大通りを順調に進んでいた。サナエの通っていた高校の脇を通り過ぎ、松本城が左手に見えてきた。
「あ、いかん。忘れてた」父がシートから体を起こした。「サナエ、悪いけど、あのコーヒー屋に寄ってくれ」
「あのコーヒー屋って?」
「忘れたのか? 昔よく母さんと三人でコーヒー豆を買ってた店だよ。城の近くの」
「ああ、あのお店ね。いいけど、どうして?」
「まあ、それは着いてからのお楽しみだ」
「なにそれ?」サナエはわけも分からず、それでも父の言う通り車を走らせ、細い通りに車を進めた。一方通行で、両脇には昔ながらの料亭や呉服店が立ち並ぶ通りだった。その一角に、そのコーヒー屋はある。向かいの駐車場に車を止めた。
「サナエはここで待ってなさい。すぐに済ませるから」父は言うが早いか、ばたばたと車を降りて、反対側の店に入っていた。入り口付近のカウンターで店主と二言三言言葉を交わしたあと、店主は店の奥に姿を消した。戻ってくると、何か紙袋のような物を父に渡した。父はお辞儀をして店を出てきた。
コーヒー屋で受け取る物といったらコーヒー豆だろうが、まだ家には十分な量の豆があったはずだった。今朝コーヒーを飲んだ時、父一人なのにどうしてこんなに買い込んだのだろうと思ったから、それは間違いない。
道路を渡る父を目で追う。紙袋を大事そうに抱える父は満足そうだった。
「すまんな。待たせた」父はいったん後部座席のドアから紙袋を丁寧に座席に置いて、助手席に乗り込んできた。
「なあに、それ。コーヒー?」
「ああ。帰ったらマリコに渡してくれ」
「お土産?」カフェの店主であるマリコにコーヒー豆のお土産とは、芸があるのかどうか怪しい。飲んでみろ、ということだろうか。
「土産といえばそうだが、まあ、渡せば分かるさ」
「なにそれ?」結局わけが分からないまま、駐車場を出た。
家に着くと、サナエは母の仏壇に線香を供えた。手を合わせ、目を閉じた。もう、そこに母の影はなかった。それでも、心の中が温かい。母のぬくもりだ、とサナエは思った。母はいつでもサナエのそばにいた。今ではそれがとても心強く、そして穏やかな気持ちにさせてくれる。
しばらくは自分の部屋でごろごろとして時間をつぶした。コウタからのメッセージは相変わらずない。今日は土曜日だから、就活もないだろうし、バイトは夜からだろうから、時間はあるはずなのに。もう駄目なのかもしれない。それならそれで、仕方がないと思った。一度拗れた紐がなかなか元通りにならないように、人と人との関係も、一本の紐のようにいつまでも真っすぐではいられないし、それこそ一筋縄ではいかない、ということなのだろう。
イベントが終わったら、きちんと話をしないといけない。これからの二人のことを、真剣に考えなければいけない時期がやって来たのだ。
家を出る時間が近づき、サナエは準備を始めた。東京に着いたらカフェに直行するつもりだった。松本からは特急で新宿まで一本だ。新宿から高田馬場まで山手線で移動しても、十分とかからない。インターネットで予約している時間を確認した。十五分後に家を出て、カフェに着くのが四時過ぎといったところだろう。イベントの開始が七時半からだから、十分間に合う。
「お父さん。帰るね」父の寝室のまえで、サナエは小さく言った。きっとまだ寝ているだろう。メールをしておこう。
今回は結局父に救われた。ずっと離れていたのに、やはり父は父らしく、サナエのことを見守っていてくれたのだと思うと嬉しかった。
外に出ると、相変わらず寒い風が吹いていた。それでも、サナエの体は温かかった。母の気配の残るこの松本で、ようやく母に再会できた気がした。
特急列車を待つ間に、父から返信が来た。『帰ってくる度にサナエが少しずつ離れていってしまうように感じるけど、それでもこの場所はサナエの家だから、いつでも帰ってきなさい。マリコや先生によろしくな』
不器用な父の、これが精一杯の励ましなのだろう。父のためにも、一日でも早く独り立ちをして、安心させてあげたいと思った。
『はい。でも、なるべくなら研究者になって帰ってきたいから、それまでもう少し待っててね。お父さんのお土産はちゃんとマリコさんに渡します。じゃあ、またお盆には帰ります。あんまりお酒飲みすぎないようにね』
サナエは手に持っている紙袋を見た。外からでは中身までは分からない。一体、このコーヒー豆はなんだというのだろう。河野に渡せば、それも分かるのだろうか。
ホームに特急電車がやって来た。中の清掃やら座席の準備やらをしたあと、ドアが開いた。サナエは自分のシートの前でコートを脱いで、シートに腰を下ろした。
サナエの乗ったスーパーあずさは松本駅を出て、徐々にスピードを増していった。左右に揺れる列車の振動が心地よく、サナエは気づかないうちに眠っていた。もう、母の顔は出てこなかった。
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