第35話 強がりと墓前

 新幹線の振動が体を小刻みに揺らしている。いつもなら電車に乗るとすぐに睡魔に襲われるのだが、今日は違った。早起きをして一日活動していたのに、目は冴えていた。サナエの頭の中を身近な人の顔が代わる代わる現れては消えていった。コウタ、カオル、カズヤ、河野、堀越、父、そして母。水族館の大きな水槽を回遊しながら通り過ぎていく魚の群れのように、記憶は大きな塊を作り、水中をくるくると転がっていく。

 記憶の渦の中で、サナエはこの数日間で起こったことを思い出していた。母の記憶に惑わされ、カオルの研究の心配をし、カズヤをからかい、コウタと喧嘩をして、堀越や河野の秘密を知った。母が死んでからずっと閉ざしていた扉が、少しずつ開いていくのを感じた。




 長野駅で信越本線に乗り換えた。長野から松本までは一時間半くらいかかる。移動の時間はどうしようもないが、何もすることがないのは退屈だった。こういう時、コウタなら本を読むのだろう。前に、二人でちょっとした旅行に行った時のことを思い出していた。

 紅葉を見にいこうということになり、二人で日光に出かける途中だった。かたかたと揺れる車内ではリュックサックを背負った中高年のグループがわいわいと旅行談義に花を咲かせていた。サナエとコウタはそのグループの数列後ろに座った。最初のうちは二人でぽつぽつと話をしていたが、振動に体を預けているうちに、サナエはうとうとし始めた。


 数十分くらい寝ていただろうか。電車が減速した拍子にぱっと意識が戻った。コウタの方をふと見ると、コウタは文庫本を開き、文章を目で追っていた。真剣な眼差しだった。初めて知り合った時に見せていた表情が頭に浮かんだ。

「今日は何読んでるの?」

「武者小路実篤の『友情』だよ。昔の本が読んでみたくなって」

「ふーん」またずいぶんと難しい作家の名前の本を読んでいるものだと思った。名前は聞いたことがあったが、もちろん読んだことはない。コウタは流行の作家の新刊を読んでいると思えば、その時のようにだいぶ昔の本を読むこともあり、とにかく色々なものを読み漁っているようだった。本を読むのがあまり得意ではないと言っていたわりには、熱心に読書に耽っていた。


「昨日も遅かったのに悪かったな。電車の時間、変えれば良かったかな。サナエだいぶ眠そうだ」コウタはサナエの顔を覗き込んだ。

「ううん。私も楽しみにしてたし、朝早い方が空いてるでしょ、きっと」サナエは、正直眠たかった。欠伸が出そうになるのを我慢する。

「そうだろうけど。着くまでまだ時間あるから、ゆっくり寝てなよ。涙目になってるぞ。無理するなって」コウタは笑った。欠伸をかみ殺しているのがばれたらしい。

「大丈夫」サナエは強がった。しかし、それからすぐにサナエはまた意識が途切れた。


 今から思えば、その時すでにサナエはコウタに強がりを言って見栄を張っていた。

 自分は昔から何も変わっていないのだ。そのくせ、未だに返事のないコウタにやきもきしている。さっき送ったメッセージはまだ読まれていなかった。

 実家に帰るのは去年のお盆以来だ。街の空気はサナエが幼かった時から少しも変わっていない。高校生まで過ごした場所、そして父と母と三人で暮らした街だ。実家は松本駅から歩いて十五分くらいのところにある。サナエは久しぶりの帰省に少しだけ心が温かくなった。母の声が聞こえる気がした。お帰りと、あの日聞くことのできなかった言葉をすぐ近くで感じた。




 翌朝、サナエは朝食を食べるとすぐに家を出た。母の墓は実家から北に十キロくらい離れたところにある。迷ったあげく、父の車を拝借することにした。心の中で父に謝った。勝手に借ります。ごめんなさい。

 土曜日の朝は車の量も少なく、滑らかにタイヤの滑る音だけが聞こえた。松本城の近くを通り、サナエはカーナビを頼りに北上する。途中で花屋に寄り、お墓に供える花を買った。高速道路添いの小高い丘の上が、母が八年間眠っている場所だ。

 母の墓参りに一人で行くのはこれが初めてだった。この道を通る時はいつも、サナエの座る場所には父がいて、自分は助手席でシートベルトばかりいじっていた。

 ハンドルを握りながら、母に何を言うべきか、サナエは考えていた。謝るにしても、何からどうやって話せばいいのだろう。


 広かった道路は次第に細くなり、カーブが多くなった。杉の木の間をしばらく走ると、急に視界が開けた。扉が開く錯覚を覚えた。一瞬視界が真っ白になる。ハンドルに力が入るが、すぐに目は明るさに慣れた。墓地の駐車場は丘の頂上にあり、そこから南向きの斜面に間隔を開けて墓石が静かに時を刻んでいる。入り口近くの空いているところに車を止めた。朝早く出てきたはずだったが、他にも何台か車が停まっていた。そう言えば、ちょうどお彼岸だったのを思い出した。母と向かい合う日としては、相応しい気がした。

 駐車場の周りには梅の木が植えられていた。満開だった。濃いピンク色の花弁が寒風に耐えて、寄り添うように咲いていた。

 空は雲一つない快晴だった。三月にしては珍しく、霞もかかっていない。風は冷たかった。信州の春はまだ遠い。桶に水を汲んで、柄杓を手に取った。

 母の墓は丘の中腹だ。この墓地を選んだのは父だった。丘の上からは、松本市が一望できる。一周忌の時と同じように、松本城の天守閣が陽光を反射していた。

 サナエは母の墓の前に立った。ここに来るのは去年の命日以来だった。墓石に水をかけ、花を新しいものと交換する。墓石の周りに散らばる落ち葉を一枚ずつ拾った。


「お母さん、久しぶり」サナエは墓前に腰を下ろし、呟いた。これまでずっと謝らずにいたこと、そして母からずっと逃げていたこと。河野に告白したことを、母にすべて話した。

 ただの自己満足であることは分かっていた。あの日にサナエがしたことで、母が亡くなったことも、そして母のことからずっと目を背けていたことも、今ここで墓前に報告したところで、何も変わらない。

 しかし、それでも少しずつ、心の中の澱が溶けていくのを感じていた。ずっと言えなかったことを、母に伝えることができた。許してくれなくても構わないと思った。母と向き合うことから逃げていた自分に責任があるのだから。

 サナエはずっと手を合わせていた。手が温かくなったのを感じた。目を開けても、そこには何もなかった。母の手がそこにあるように感じたのは、やはり自己満足がもたらした、都合のいい錯覚なのかもしれない。サナエは、ふうっと息を吐いた。


 気持ちは少しだけ軽くなった。これですべてが解決するわけではない。でも、これからは、できる限りここで手を合わせよう。今までずっと逃げてきた母にこれからは正面から向き合っていかないといけない。母の死を乗り越えることができるかはわからないけれど、この場所から、少しずつ始めればいい、そう思った。

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