第34話 オレンジとメール

 コーヒーの味だけですべてが解決するはずがないが、河野のコーヒーが行政を動かす一つの力になったのは間違いないようだった。母との約束を果たすために奔走する河野の姿を想像した。東京と仙台を往復し、自分のお店と被災地と、その両方を相手に走り回る日々がどれだけ大変だっただろう。それもすべて、母との絆がそうさせていたのだ。河野だけじゃない、堀越も父も、それだけ母のことが好きだったのだろう。

「最初は、それでも大変でしたね。移動喫茶を始めようにも、そもそも車がなかったり」木村が当時のことを振り返るように言った。「市からの補助金だけじゃ足りなくて、県や学校からも予算を分けてもらって、なんとか形になったんですけどね」


 清水が苦笑いをした。

「まあ、復興予算の審査が厳しいのが正直なところです。復興庁も予算の分配に苦慮しているようで」

「でも、県庁に掛け合ってくれたの清水さんだったんですよね。私たちは途中からでしたけど、マリコさんよく言ってましたよ。あの人に相談して良かったって」

 芹沢の言葉に、清水は頭を掻いた。

「河野さんには敵いませんよ。今では、他県からも出店の要請があるほどです。来年度も予算化されましたし、しかも今年度より十パーセントの増額が認められましたから、市としても、この事業の継続をサポートします」


 行政をも動かす河野の力、コーヒーを使った復興など、河野でないと思い付かないだろう。それを一緒に実行した木村たちと支援をする清水たち、何人もの人の力で、移動喫茶は実現しているのだ。

 芹沢と清水が次の出店について打ち合わせをしている間、サナエは壁に掛かっている写真を眺めた。木村たちに混じってマリコの映った写真もあった。店で見せる笑顔がそこにはあった。日付は去年の八月十一日だった。河野の後ろに釜石市役所の文字が見えた。その時には既に宮城県を飛び越えて活動の幅を広げていたのだ。

 五時を回った頃、サナエたちは市役所を出た。夕焼け空があたりをオレンジ色に染めていた。そろそろ、移動する時間だった。

「みなさん、今日はありがとうございました。私、そろそろ帰らなくちゃ」

「もう暗くなってきましたよね、すいません。遅くなってしまって。東京にお帰りですか?」

「いえ、今日は実家に」

「ご実家ですか? どちらなんですか?」

「松本です。仙台からだと、四時間くらいかかるのかな」


「そうなんですか。じゃあ、私駅まで送っていきます」木村は言った。

「じゃあ、私たちは大学に戻ります」芹沢は名残惜しそうに言った。「飯塚さん。また来てください。今度は、私たちが仙台の街を案内しますね。それと、東京に行った時マリコさんのお店に行ってもいいですか?」

「はい。もちろんです。サービスしますよ」

「飯塚さん、じゃあ行きましょうか」

 木村に促され、サナエは歩き出した。芹沢と御影はサナエが見えなくなるまでずっと手を振っていた。




 仙台駅に着いた時には、五時半を過ぎていた。今からだと、実家に着く頃には十時を回ってしまう。

「今日はありがとうございました。急だったのに、皆さんと一緒に活動に参加できて楽しかったです」サナエは改札近くで木村に向き直った。

「こちらこそ。マリコさんにもよろしくお伝えください」

「はい。それじゃあ、また連絡します。木村さんも東京に来る機会があったら、ぜひカフェに立ち寄ってください」


 サナエは荷物を肩に掛け直し、木村に深くお辞儀をした。今日ここに来たことは、恐らく一生忘れないだろう。母の死と向かい合うことができたのかは分からない。でも、それを乗り越えようとした人の姿を、この街で直に見ることができた。写真に映った河野の笑顔は、母のことを想い、そして母の願いを叶えることができた喜びに溢れていたように見えた。きっと河野は、ノートでも移動喫茶でもなく、あの写真を見せたかったのではないだろうか。あれが、母の死を乗り越えて、自分の進むべき道を進んだ顔なのだ。

 手を振って、サナエは木村と別れた。改札の向こうに、自分の進むべき道が見えた気がした。




 新幹線は定刻通り仙台駅を出発した。次の停車駅は大宮だ。そこで長野新幹線に乗り換えて、長野でさらに普通列車に乗り換える。こんな経路で実家に帰ることになるとは思わなかった。いつもなら新宿から特急で松本に行くから、よく考えてみれば、新幹線で帰るのは初めてだった。

 父にメールをした。父に帰ることを言っていなかったことを思い出したのだ。父はどこまで知っているのだろうか。堀越や河野から彼らの学生時代の話を聞いていることを知っているのだろうか。そして、父はサナエと母の間にある記憶の溝のことにどこまで気づいているのだろう。


 サナエはキャリアメールとは別のアプリケーションを起動した。コウタとやり取りをしている、短文を投稿できるスマートフォン用のアプリだ。サナエが今朝送ったメッセージは既読になっていた。今のところ、コウタからの返事はない。サナエは少し考えて、明日は松本に帰るという内容を送った。もしかしたら、これにも返事がないかもしれない。まだ怒っているのだろうか。

 素直でないと、自分でも思う。本当はもっと甘えて、泣き言も言いたい。ちっぽけなプライドがそれを邪魔している。年上という足かせを感じることがある。年下の恋人は向いていないのかもしれない。結局、コウタのことを、サナエは何一つ分かっていなかった。出会った時から感じていた空気みたいな存在。それはカオルの言う理想の関係なのかもしれない。空気はなければ苦しいが、あってもそのありがたみを感じることはできない。でも本当は、失って初めて気づくよりも、失う前から尊い存在だと実感したい。


 サナエは、大宮に着くまで、ずっとスマートフォンの画面を見つめていた。時折調べ物をしながら、しかし、無意識のうちに目は通知ランプが光る場所を見つめている。発光ダイオードの光がここまで人の心を焦らし、落ち着かない気分にさせるのだ。数ミリの光源に、人の感情は左右される。

 父からメールが返ってきたのは、長野新幹線に乗り換えて、大宮駅を出発した時だった。父は「宿直。よしなに」とだけ返事を寄越してきた。本当に医者は忙しいのだと、改めて思う。どうしてそれが呼び水になったのか分からないが、母のことを思い出した。

「彼氏はできた?」「医者だけはやめなさい」サナエがまだ中学生だった頃、母はいつもそんなことばかり言っていた。どちらも、当時の彼女にはまだ縁がなくぴんと来なかったけれど、異性との関係について、諭すように話していた。医者だけは、というのはサナエの父を念頭に置いたものだろうが、それではどうして母は父と結婚したのか、中学生のサナエは首をかしげるばかりだった。


 父と母は学生時代に知り合い、そして二人が三十歳になる年に結婚した。父と母は仲が良かった、と思う。父の勤務が不規則ながら、休みの時には二人だけで出かけたりしていたし、父は母やサナエのことを愛していたと思う。思春期の頃はともかく、今ではゆっくりと話す時間を持つこともできるし、割と何でも話ができる、付き合いやすい父だ。母が亡くなって、そしてサナエが東京へ出て、父は実家に一人残っている。そんな父を、最近では少し心配していた。

 それでも、自分の将来のことに妥協はしたくなかった。そうだ、本当は今夜博士課程に進むことを話すつもりでいたのに。宿直のまま、明日も仕事だろうか。

 早速父にメールをした。返事はすぐに返ってきた。一言、「朝帰る」とあった。そうか、帰ってくるのか。夜勤明けの父は昼過ぎまで寝ていることが多い。父の起き抜けに博士課程の話をすることになるが、それはそれでいいだろう。この話は、素面の状態で聞いてほしい、そう思った。

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