第28話 その時と気配
サナエは、とりあえず普通に仕事をすることにした。イベントのことも河野が話そうとしていることも、いったん脇に置こうと思った。河野が何かを話すとしたら閉店後だろうし、その時が来るまでは、考えても仕方がない。それよりも、今カフェにいる客に最高の時間とコーヒーを提供することが重要だ、と自分に言い聞かせた。
今日は、客足が途切れなかった。テーブルは常に満席状態だったし、入れ替わり出入りする客を捌いているうちに、あっという間に閉店時間になった。
嵐のような時間が過ぎると、カフェの中は水を打ったように静かになった。いつものように、ダイスケはテーブルの上に椅子を上げている。河野とサナエは食器を洗い、フキンでカウンターやテーブルを拭き、カフェを磨く。
サナエは、河野の様子を伺う。少し手が空いていると思っても、すぐに別の作業に取りかかり、なかなか話をする雰囲気にならない。そこにいるのはいつもの河野だった。とても、三十年あまり前に両親や堀越と知り合い、そして悲しみを分かち合った仲間とは思えなかった。どうして、そのことをこれまで隠していたのか、そして、どうして今それを話そうと決めたのか。
もしかしたら、サナエから話をするのを待っているのかもしれない。河野が話を切り出さない以上、こちらから話をするほかない。
サナエは河野の元へ近づく。河野はちょうど床をモップがけしているところだった。
「マリコさん、ちょっと、いいですか?」
「なあに、サナエちゃん」河野が振り向いた。最初はきょとんとしていたが、サナエの顔を見て、何かを感じたのだろう、少し目を伏せると、モップをテーブルに立てかけるようにして置いた。「堀越君から、話を聞いたのね」
「はい。マリコさん、父と母とは知り合いだったんですよね」サナエが言う。できる限り、責めるような口調にならないように、気をつけた。きっと、サナエのことを思ってそうしていたのだから。河野が椅子を下ろして腰掛けたので、サナエもそれに倣った。
「ええ。もう三十年以上になるわね、出会ってから」
「先生から、色々聞きました」サナエは堀越から聞いた話をかいつまんで説明した。四人の約束と、残された三人が継いだ母の遺志。そして、残されたサナエを皆が見守っていてくれたこと。河野はサナエの言葉を一つずつ確かめるように、頷きながら聞いていた。
「あなたのお母さんが亡くなってから、八年になるのね。サナエちゃんが今の大学に進むって聞いて、堀越君も私も驚いたわ」
「先生があの話をしたのが、昨日ダイスケさんから貰ったコーヒーがきっかけだって聞いたんですけど、どうしてマリコさんは、今この話をしようと思ったんですか?」
「最近、サナエちゃんちょっと元気ないみたいだったから。お母さんの命日にも実家に帰らなかったし、もしかしたら、お母さんのことで何か悩んでいるのかと思ったの」
母の命日は二月四日だった。高校の入学試験の日だが、母の死がなければそんなことを覚えていることもなかっただろう。今年は、就職活動や研究が忙しいと言って、実家には帰らなかった。帰りたくなかった。ちょうど、母の顔が頭の中に影を落とすようになった頃だ。母の記憶が蘇り、母の墓前に手を合わせられるとは思えなかった。自分の顔を鏡で見るたび、そこには母の面影があり、それを振り払おうと必死だった。
「私って、そんな風に見えてました?」サナエは河野の顔を伺うようにして言った。自分が周りにどう思われているのか、特に母のことについては、うまくごまかしていたつもりでいたのに、事情を知っている人には分かるものなのだろうか。
「そうね。なんとなくだけど」
「私、怖いんです。お母さんが怒っているんじゃないかって」サナエは、これまで一度も話したことのない、サナエにとって忌まわしい八年前の記憶をゆっくりと思い出していた。
八年前の二月四日。サナエはいつもより早く起きた。さすがに、高校受験の当日は朝起きた瞬間から心拍数が高い。志望している高校は松本で一番の進学校だった。受験勉強は真面目にしてきたつもりだし、直前に受けた模試も合格ラインを突破していたし、実力を出し切れば恐らく大丈夫だろうと思っていたが、試験は結果が出るまで分からない。きっと、今日までの不安と、今日から二週間後の合格発表までの不安とを比べると、後者の方が遥かに居心地の悪い気分になるのだろうと思った。
サナエはベッドの中でゆっくりと大きく息を吸い込んで、そしてまたゆっくりと吐き出した。先日母から教わったリラックス法だ。指先に血が通うのを感じた。サナエはベッドからそろそろと抜けたし、制服に着替えた。三年間着続けた制服も、もうほとんど着る機会はない。受験が終われば、数回の登校日があるだけで、そのあとはもう卒業だ。
サナエが廊下に出ると、飼っているアメリカン・ショートヘアのミイがサナエの足下にすり寄ってきた。
「どうしたのミイ。おはよう。今日はずいぶんと早起きだね」もちろん返事はない。サナエの声が聞こえているのかいないのか、後ろ足で自分の耳を引っ掻いている。サナエがダイニングに向かう。そのあとをミイがついてくる。毎朝、変わらない光景だった。
「サナエ、おはよう。よく眠れた?」母もいつもと変わらない。焦った様子もないし、落ち着いている。母はいつでもそうだった。周りに流されずに、いつでも穏やかな空気を発している。サナエはその雰囲気が好きだった。
「うん。大丈夫。でも、あんまり食欲ないかも」サナエはお腹のあたりを摩る。足元でミイが喉を鳴らしていた。
「駄目よ、今日だけは。ちゃんと朝ご飯食べていきなさい。果物がいいと思って、フルーツヨーグルト作ったから、食べて食べて」母はサナエを手招きした。
「はあい」サナエはダイニングテーブルに腰を下ろした。ヨーグルトに白桃やバナナが入っていた。サナエは黙々とヨーグルトを口に運んだ。
「どう、美味しい?」母はサナエに聞きながら、缶詰の蓋を開け、ミイの皿に開けた。ミイは体を低くし、皿に頭を突っ込む。
「うん。美味しい。そういえば、お父さんは? もう仕事行ったの?」勤務医である父の出勤時間はまちまちだった。朝から手術を執刀することもあるし、急患がでれば夜中でも出かけ、そのまま二日帰ってこなかった時もある。よく、医者の子供が医者を目指すということがあるが、サナエは父の働く姿を見て、自分にはできないと感じていた。将来の職業を具体的に考えているわけではないが、医者だけはないだろうと思っていた。
母はサナエの話を聞いているのかいないのか、ミイの頭を撫でながら、「美味しいですか?」と声をかけていた。ミイに話しかける時はいつも敬語だ。
「そうよ。夜に雪が降ったから、今朝は事故が多いみたいで、救急救命センターから応援要請があったんだって」それでも娘の話は聞いていたらしい、とサナエは安堵する。
「ふうん。雪か、そういえば、夜中にそんな気配したなあ」夜中に目が覚めた時に感じた、窓の外のしんとした雰囲気を思い出した。
「気配なんて分かるの?」
「なんとなく、空気がピンと張りつめた感じがしたから、そうかもって」
ふうん、と母は生返事をした。母は東京出身で、雪の気配といっても実感が湧かないのかもしれなかった。
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