第29話 CDと涙

「ごちそうさま」サナエは食器をキッチンに運んだ。

「準備はできた? 受験票とか、鉛筆とか、忘れ物はない?」

「うん、大丈夫。昨日のうちに受験の手引き見ながら一つずつ入れたから、完璧だよ」

 サナエはいったん自分の部屋に戻った。勉強机の脇に置いてあるバッグを持つ。筆記用具と参考書を入れたら、通学用のバッグはパンパンになってしまった。お弁当は、仕方がないから別の袋に入れていこう。


 サナエは部屋をぐるっと見回した。見慣れた景色だ。しかし、目に映る姿は変わらなくても、自分はもうじき高校生になるのだと思うと、中学生として過ごしたこの部屋ともお別れのような気がした。

 視線を彷徨わせていると、ベッド脇にぽつんと置かれた青い布製の小さな袋が目に留まった。それは、レンタルショップの袋で、中には下校途中に借りたCDが入っていた。袋を拾い、中の伝票を確認した。


「あ、いけない」伝票に書かれた返却期限は前日だった。そのレンタルショップでは、返却期限の翌日でも開店前なら期限内の返却と認められていた。店の出入り口近くの返却用ポストに入れれば、閉店時でも返却が可能だ。開店前に返さなければ、延滞料金が発生することになる。

 サナエはバッグを肩に掛け、ダイニングに向かった。

「お母さん、大変!」

「どうしたの? おなかでも痛いの?」

「ううん。CDの返却昨日までだった」

「なあんだ。ってこんな時にCD借りてたの?」

「だって、発売日に聞きたかったし」サナエの好きな歌手の、半年ぶりのシングルCDだった。二泊三日で借りて、すぐにパソコンに取り込んで何度も聞いたが、肝心の返却を忘れていた。


「もう、しょうがないわね。お母さんがあとで返しておくわ」

「うん。よろしくお願いします」サナエは大げさに頭を下げた。「十一時に開店しちゃうから、それまでにお願い」

「分かったわ。洗濯物干したら行ってくる。いつものお店でいいの?」レンタルショップは川を渡った向こう側にあった。高校とは全然方向が違う。

「うん、ありがとう。それじゃあ、そろそろ行くね。ちょっと早いけど、お城の周りぐるっと回って行こうかな」サナエは、市の中心部にある松本城が好きだった。お堀の向こう側に見える天守閣も風格があるし、この時期はなぜか堀に白鳥がいて、その愛らしい姿を見ると心が安らぐ気がした。

 サナエは玄関に向かう。母が後ろをついてくるのが分かった。

「行ってきます」

「はい。行ってらっしゃい」母は小さく手を振った。


 これが、サナエが聞いた母の最後の言葉だった。その数時間後、母は信号無視をして交差点に侵入した乗用車とぶつかり、三メートルくらい宙を舞い、冷たいアスファルトに叩き付けられた。




 サナエは、ずっと後悔していた。どうしてあの時CDなど借りたのか。どうしてあの時、前もってCDを返しに行かなかったのか。どうして、どうして——。そればかりをずっと考えていた。父が母の遺体に対面した時も、母の葬儀の時も、一周忌の時も、ずっとずっと、そればかり考えていた。考えても仕方のないことだった。

 自分の所為で母は死んだのだ。父にどう説明すればいいのか分からなかった。自分の所為で母が死んだなどと言えるはずがなかった。


 サナエは堰を切ったようにその日のことを河野に話し始めた。河野の顔は見られなかった。河野にとって大切な友人の命を奪うきっかけを作った自分を、サナエはこれまでずっと偽っていた。心の中に澱のように固まっていた物を、少しずつ吐き出すようにサナエは話した。話しながら、泣いていた。悲しいのではない。悔しかった。母の命を奪った自分が憎かったし、周りの人を悲しませたことがなによりつらかった。涙はぽろぽろとサナエの頬や、握りしめられた手の甲に溢れた。頭に母の笑顔が浮かんでいた。どうして、こんな時に笑っていられるの。母を殺したのは自分なのに。サナエは声をあげて泣いた。母の笑顔が怖かった。八年も経っているのに、母の笑顔はあの日の朝の笑顔のままだった。


「サナエちゃん。いいのよ、もういいの。あなたのお母さんは幸せだった。あなたみたいな娘を持って、それだけでお母さんは幸せだったのよ」河野がサナエの肩にそっと手を置いた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」サナエは、本当は母に謝りたかった。ごめんなさいという言葉をかけたかった。でもそれができなかった。謝ったところで母は帰ってこないし、許してくれるとも思えなかった。サナエは泣きながら、それに気づいた。自分がずっと母の影に怯えていたのは、謝っていないからなのだ、と。自己満足かもしれない。今更謝っても、もちろん母が生き返ることはない。それでも、そうすることで母の死を乗り越えることができるかもしれない。父と堀越、河野の三人が約束を果たすことで母の死を乗り越え、サナエに母の面影を重ねていたように、サナエ自身も父たちのように、何かを果たす必要があるように思えた。

 謝らなければと思った。許してくれるかどうかは分からないけれど、母に謝らなければいけない。サナエは、涙で濡れた頬を掌で拭った。嗚咽を鎮めるように、静かに浅い呼吸を繰り返した。


「サナエちゃん、お母さんが死んでしまったのはあなたの所為じゃないわ、もちろん。ただ、サナエちゃんがお母さんに謝りたいっていうのは、きっとあなたにとって、お母さんを乗り越えるためには必要なことなのかもしれないわね」

「明日、母のところに行ってもいいですか? ここで行かないと私、駄目な気がするんです」

「ええ、もちろんよ。イベントの準備は私たちに任せて。ねえ、サナエちゃん。その前に、仙台に行ってみない?」

「仙台、ですか?」河野の意外な言葉に、サナエは思わず聞き返した。しかし、すぐに河野の言いたいことは分かった。仙台と言えば、父と母が出会い、そして四人が学生時代を共に過ごした場所だ。


「そう。私たちが在籍してたサークルは今でもあって、私は時々講師みたいなことをやっているの」それはサナエも知っていた。ただ、大学名は聞いていなかったし、母校に出向いていたとは思いもしなかったが。「いい学生さんたちよ。勉強熱心で。この間行った時は被災地を巡って、移動喫茶店っていうのをやってみたの。被災者の方ってどうしてもストレスを抱えているから、少しでもそれを和らげてあげたいって。優しいのね、最近の学生さんは」

「マリコさん、どうしてそんなことまでやってるんですか?」カフェを一つ経営するたけでも大変なのに、そのモチベーションがどこから来ているのか、サナエは不思議だった。

「堀越君も、そこまでは話さなかったから、そうよね。サナエちゃん、ちょっと待っててね」河野はそう言うと、控え室に入っていった。

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