第23話 死と大切なもの
「いや、実際さ、昨日までそばにいた人が亡くなったら、きっと何かしようとか、そういう風に思うこともできないんじゃないかな」
「ああ、それはそうかも」マリコが頷く。「この間おじいちゃんが死んじゃった時はもちろん泣いたし、しばらくは何も手に付かなかったなあ」
「そう言われれば、きっとそうだろうな。俺が言ったやつって、きっとそういう悲しみとかつらさとかを乗り越えたあとで考えることなんだろうな」マコトも同意した。
「私ね、思うんだけど、そんな風にうまく身近な人の死を乗り越えられるものなのかな?」
カナはマリコに尋ねた。人の死について、カナは取り付かれているようだった。
「うーん、どうだろ。今でもおじいちゃんのこと考えると悲しくなるけど、まあずっと病気だったし、覚悟ができていた部分もあったかもしれないわ。だから、今はもうおじいちゃんの死は受け入れていると思うけど」
「それはつまりその人の死に対してきちんと向き合っているということになるのかな?」タカシがマリコの言葉に続いた。死と向き合うということがどういうことなのか、タカシは考え始める。死は避けられない。死と対峙する時、人は何を思うのかを想像する。現実から目を逸らすのか、それとも直視するのか。できるのか、できないのか。自分にはそれができるのだろうか。
「そうだね、そんな感じ」
「身近な人の不在は心の均衡を崩すから、人は無意識のうちに考えないようにするんだ。ただ、事故や災害で全く予期しない時に喪失すると、ショックが大きすぎてそれもうまくいかなくなることがある。そういう時に、じゃあどうするのか、そういうことなのかな、カナが言いたいのは?」
「うん。そんな感じだよ。堀越君に言われると、尚更正しい気がする」
「相変わらず、難しいことを考えるよな」マコトは半ば呆れ顔で言った。
「ねえ、こういうのはどう?」マリコが身を乗り出すようにして言った。「亡くなった人に宛てて手紙を書くの。その人に対する気持ちとか、そういうのを書いて。それでさ、同じように残った人同士でも手紙を出し合って、一人じゃ無理でも、皆で支え合えばきっと乗り越えることができるんじゃない?」
「手紙か、それも一つの方法だな」マコトは腕組みをして頷いている。
「泣いている人がいたらそっと肩を抱いて、悲しんでる人がいたら一緒に悲しんでさ、よくいうじゃない、悲しみは半分、喜びは二倍って、そういう風になれたらいいね」カナは言った。
「カナ、それは夫婦の何かじゃないのか、結婚式とかで良く聞くやつだよ」タカシがすかさず指摘をする。
「堀越君はすぐに人の揚げ足をとるんだから」カナが頬を膨らませる。カナとマコトは当時既に交際していた。カナはマコトと結婚するつもりだ、とタカシは予感めいたものを感じていた。
「堀越君に手紙を書くことになったら、その理屈っぽいところが原因だと書いてあげるよ」
マリコが皮肉を言う。
「おいおい、死因は俺ってわけか」タカシは新しいたばこに火をつけた。深く息を吸って、紫煙を吐き出す。「じゃあ、もしこの中の誰かが死んだら、俺はたばこを止めるよ」
「禁煙宣言なんて止めとけって。絶対に無理だからさ」マコトはけたけたと笑った。
「だからお願いだ、みんな俺より長生きしてくれよ」タカシは戯けて言った。その時は、本当に止めることになるとは思ってもみなかったし、実際に止めることができるとも思っていなかった。しかし、結局のところ、タカシはたばこを止めることになる。
「むちゃくちゃ言うわね。じゃあ、私は喫茶店を開くわ」マリコは言った。それはマリコの夢でもあった。いつか、自分の店を持ってみたい。そう言っては、店のイメージを口にしていた。コーヒーで客の心を包み、日常から解き放つのだ、と。
「それは自分の力でなんとかしなさいよ」カナは笑う。「絶対にお店出してよ。私そうなったら毎日通うから」
「私の成功は堀越君にかかっている」マリコは芝居がかった台詞を吐いた。
「今度は俺が死ぬ番かよ」タカシは彼女たちのやり取りに呆れた。
「じゃあ、私はどうしようかな。もし私の旦那さんが死んでしまったら」カナはちらっとマコトの方を見た。マコトはその視線に気づいたが、きょとんとした顔をしている。タカシはそんな二人を微笑ましく思った。この二人なら、たぶん大丈夫だろう。根拠は全くないけれど、そう思った。
「もしそうなったら、その人の大切なものを守ってほしいの」
「大切なもの? なあに、大切なものって」
「それはまだ分かんないわ、未来のことだもの。その時、その人が大切にしてたものを皆で守るの。きっとそこにはその人の思い出とか、記憶とか、そういうものが重なっているはずだから。そうすれば、その人が亡くなることは悲しいけど、でもきっと、ずっとその人を覚えていると思うの」
カナの気持ちはタカシもよく分かった。死というものを考えると、残された人の喪失感はもちろんだが、もし自分が亡くなって、それを誰も覚えていないのだとしたら、生きていた意味さえなくなってしまうのではと考えてしまう。
「心の中で生き続けるってやつか。おまえ、小説とかの読み過ぎだろ」マコトが揶揄するように言った。
「いいのよ。少なくとも私は、その人のことを忘れたくないの」
「それ、私は分かるよ。昔おじいちゃんに買ってもらったおもちゃを見ると、おじいちゃんのこと思い出すもの」
「そういうものかな」マコトはまだ実感が湧いていないようだった。
「まあ、その時にならないと分からないこともあるだろうけど、手紙も遺物を守るのも、死者への弔いの一つかもしれないな」
「そうそう。どこかの誰かさんと違って、堀越君は建設的だね」カナは口を尖らして言った。マコトは腑に落ちない顔をしていたが、ふうっと息を吐いた。
「わかった。じゃあ、こうしよう。この中の誰かが死んだら、カナはその人の大切にしていたものを守って、タカシはたばこを止めて、マリコは喫茶店を開いて、そして俺は医者を辞める。これでどうだ」マコトは一息に喋った。
「まとめただけじゃないか」タカシが言って、皆が笑った。ずっと、こうして笑っていられると、その時は漠然と考えていた。未来のことは分からないし、人生は分からない。カナの死は、それを嫌というほど実感させられる出来事だった。
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