第24話 繋がりと喧嘩
「君のお母さんが亡くなった時、私たちは痛感したんだ。人生っていうのは本当に分からない。だから、私たちは皆、できる範囲でその時の約束を果たそうということになったんだ」
堀越の言葉はそこで一旦途切れた。サナエは、確かめなければいけない項目が多すぎると思った。三十年以上前の出来事であるはずなのに、堀越の言葉は繊細なイメージをサナエに与えた。だからこそ、疑問がいくつもある。
「先生、マリコって、あのマリコさんですか。私がバイトしているカフェの」
「そうだよ。あのマリコだ。今やすっかりかわいいおばちゃんだがな」堀越が短く息を吐いた。「最初に東京に出てきたのは彼女だ。大学卒業と同時に体一つで上京して、喫茶店で働き、ついに独立してあの店を作った」
「偶然、ですか?」サナエは聞いた。「同じ街で仕事をするようになるなんて」
「ああ。私が今のポストに就いたのは講座の教授の推薦だった。多少驚いたよ。ほとんど同じタイミングで私もマリコもこの街に来たんだが、大学から彼女の店までは歩いて行ける距離だからな。最近は行っていないが、昔はよく通っていた」
「全然知りませんでした。マリコさんと私の両親が知り合いだったなんて」河野は、サナエが旧友の娘であることを知っているのだろうか。いや、知っているに決まっている。よくよく考えれば、サナエが河野の店で働くきっかけは父と二人であの店に行ったからなのだ。
入学式に出席した帰り道だった。上京した父と二人で早稲田通りを歩いている時、父が休憩しようと言って入った店が「メアリーズ・カフェ」だった。「東京っていうのは喫茶店もこんなに洒落ているんだな」と父が言っていたのを思い出した。本当は、マリコの店だと知っていたはずだ。
「マリコが独立したのは君のお母さんが亡くなったあとだったよ。結局、君のお母さんがあの店に来ることはできなかった」
「マリコさんも先生も約束を果たしたんですね」堀越が昔たばこを吸っていたとは意外だった。マリコも堀越も、学生時代のことなのに律儀にそれを守ったことになる。さすがに父は医者を辞めるわけにはいかなかっただろうが、そのことに父は忸怩たる想いを感じているのかもしれない。
「ああ。昔はヘビースモーカーだったのにな。頑張ればやってやれないことはないな」
堀越の話を聞きながら、サナエは母のことを思った。死後にその存在を忘れないようにしたいという母の気持ちは、裏返せば、もしかしたら自分の存在が風化してしまうのではないかという恐怖に繋がっているのだ。
「君のお母さんが考えていたことは、さっきも言ったが大切なものを守ることだ。残された私たちは、彼女の想いを引き継ぐことにしたんだ」
「お母さんが大切にしていたものって何ですか?」サナエは尋ねながら、その答えを知っている気がした。その命が尽き、母の想いを宿すものといえば、思えば簡単なことだ。
「もちろん、それは君のことだ」堀越は言った。「私たちは自分たちの約束以上に、娘である君のことを心配していた。もちろん、一番大変だったのは君のお父さんだがな」
**
父と二人で生活していた高校時代。父とはよく喧嘩をしていた。父は、思春期後期の娘とどう接すればいいか分からなかったようだし、サナエは心と体のリズムが不安定な時期が続いていつもイライラしていた。成績のことや交友関係のことで父とは何度もぶつかったし、そして一人で泣いていた。父が腫れ物に触るように接してくることにも腹が立っていたし、特に生理の時は酷かったと今は反省もしている。父は何も悪くないのに、母を失った悲しみは父も同じなのに、ごぼごぼと湧き上がってくる名もない憤懣を父にぶつけてばかりいた。
転機になったのは、母の一周忌の時だ。寺でお経をあげてもらい、父と二人で母の墓前に立った。そこで蘇ったのは、最後に母と過ごした日の記憶だった。自分のことを責め、耐えきれずに父に当たってばかりの日々。自分のことが嫌いで嫌いで仕方がなかった。
母の墓は松本市内を一望できる高台にあった。松本城の天守が昼の陽光を鈍く反射していた。南向きの斜面の中腹に母は眠っていた。ほかに墓参りに来ている人はいなかった。時折、北風が足下をそろそろと通り過ぎていった。良く晴れた冬の日だった。
花を添え、墓石に水をかける。父はゆっくりと、何度も水をかけた。そして線香を二本取り出して火をつけ、一本をサナエに渡した。父と並んで線香をあげ、手を合わせた。母の顔が頭に浮かんだ。サナエは心の中で母に語りかけた。自分はどうすればいいのかを尋ねた。母は何も言ってはくれなかった。
目を開け、深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。受験が近づいていた時、母から教えてもらったリラックス法だった。めいっぱい息を吐き出すと、それと一緒に心配事が出ていくと言っていた。一種の暗示だろうが、サナエはしばしばそれを実践した。本当に胸の辺りがすっきりするから不思議だった。
ふと隣に立つ父を見た。その日も父とはほとんど会話をしていなかった。もう、お互いが何を考えているのか分からなくなっていた時期だった。父はまだ手を合わせ、目を瞑っていた。目尻に皺があった。母が死んでから、父はすっかり老け込んでしまった。その目の皺に涙が滲んでいた。泣いているのだ、父は。その涙を見て、サナエは自分のことがますます嫌いになった。父につらく当たることは止めようと思った。自分以上に悲しんでいる父を、これ以上悲しませるのはもう止めよう。サナエはそうして、心の扉に鍵をかけた。母のこともそして父のことも、気にするのはもう止めよう。何にもぶつけることのできない怒りや悲しみを、心の奥にしまってしまおう、そう思った。
「お父さん、ごめんね」サナエは言った。父は無言で、首を横に振るだけだった。
父とはその帰りに、この一年間の沈黙を埋め合わせるように話をした。クラスにいるひょうきんものの男子の話や、教室の後ろの黒板に書かれた面白い落書きの話、そしてサナエの進路の話。
「私、理系のクラスに入ろうと思うんだけど、どうかな」
「おお、いいんじゃないか。サナエは昔から理科が得意だったもんな」医者である父は娘が理科好きになったことに喜んでいるようだった。小さい頃から父は科学の図鑑をよく買ってきたし、博物館にも連れて行ってくれた。アルプスの峰に囲まれていたこともあり、週末はよく市内の北部にある公園に出かけて、自然とふれあう機会が多かったのも、理科好きになるきっかけになったように思う。
「大学も生物学科のあるところに行こうかな。動物とか植物の勉強がしたいの」
「理系は覚えることも多いが、理解しなければいけないことはそれ以上に多いから、大変な部分もあるけどな。今のうちからしっかりと勉強しておけよ」父は、最近サナエの成績が下降気味なことを気にしていた。地区で一番の進学校に合格したものの、入学前に母が亡くなったことで、勉強が疎かになっていた。授業についていけず、分からないことがどんどん増えていった。
「うん。勉強はもっと真面目にやるよ。遅れを取り戻さないといけないし」母の不在を忘れるため、ということもあったのかもしれない。勉強のことで頭をいっぱいにして、母のことを考えないようにしたかったのかもしれない。もちろん、母に頑張っている姿を見せたいと思ったということもある。そして、父をこれ以上心配させないために。
「そうか。困ったことがあったらすぐに言いなさい。サナエは勉強に集中すればいい」父は言った。
「分かった。でも、ご飯は私が作った方がいいみたい。それと、洗濯物は、自分のものは自分でやるよ。お母さんの仕事をお父さんが全部やることないから。私ももう十六だし、だいたいのことは大丈夫だから、心配しないで」
「ああ、頼む」父の言葉は、最後は涙に濡れていた。
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