第22話 喫茶店とカナ
衣が弾ける音がやけに大きく響いた。堀越はもくもくとアジフライを食べている。無理矢理言葉を飲み込んでいるようだった。堀越の様子はいつもと明らかに違った。せっかちな父とは違って、どちらかといえば穏やかでマイペースな堀越が、一心不乱にアジフライとご飯を搔き込んでいた。サナエはますます食事どころではなくなった。研究のことで何かあったのだろうか。競争の激しい世界だから、サナエと同じ研究をしている研究者が、一足先に成果を出した、ということも考えられる。二番煎じは研究者としてやりたくないことの一つだ。どうしてもプラスアルファを求められるし、大きな軌道修正を強いられることになる。今のサナエには、堀越が言いにくいことといえばそのくらいしか思いつかない。
サナエは堀越を横目に、少しずつ鯖に箸を伸ばし、食べた。鯖は美味しかった。ご飯も美味しかった。それでも、沈黙では息が詰まる。箸はなかなか進まず、堀越が食べ終わってもサナエの皿にはまだ半分くらい鯖が残っていた。
結局残してしまった。ごめんなさい、と心の中で人の良さそうな店主に頭を下げた。
「先生。すいません。ごちそうさまでした」
「ああ」堀越は生返事をして店の外に出ると、大学とは反対の方向に歩き出した。「喫茶店に寄っていこう」
堀越は、早稲田通りを挟んで反対側にある喫茶店を指して言った。ケーキが美味しいと評判の店だった。アジフライを食べたあとにコーヒーとは、なかなかの組み合わせだと思った。
「喫茶店ですか? いいですよ」堀越が行くと言うのなら、それに従うしかない。
タイミングよく信号が青に変わり、横断歩道を渡る。目指す喫茶店は外に階段のある建物の二階にある。ドアを開けて、店内を伺う。入口近くのテーブルが開いていた。
「コーヒーでいいかな?」堀越は席に着くとサナエに聞いた。サナエが返事をすると、「ブレンドを二つ」と堀越は店員に注文した。
コーヒーはすぐに運ばれてきた。二人揃ってコーヒーを飲む。この店のコーヒーは河野の淹れるコーヒーとは違い、味がまろやかだ。多分、ベースにしている豆が違うのだとサナエは考えていた。カフェでバイトをしていると、ほかの店がどういうレシピでブレントをしているのかをついつい考えてしまう。
「今朝のコーヒーは、いつも以上に美味しかった。あれは、和田君が?」
「ええ、今日は自分が淹れるって聞かなくて」本当はサナエが淹れたのだが、少しくらいカズヤに花を持たせてもいいだろう。
「そうか。豆がいつもと違うようだったね。色も香りも、何もかも違った」堀越は今朝のことを思い出しているようだったが、目は遠くを向いていた。
「そうなんです。カフェで特別に分けてもらったんです。和田君がコーヒーに目覚めたから、きっとその記念に」
「世界が広がったのなら、それはいいことだ」堀越はそこで、ふっと言葉を区切った。「飯塚さん、今からする話は、指導教官ではなく君の父さんの友人として、君にぜひ知っていておいてもらいたいものだ。少し長くなるが、聞いてくれるね」堀越は真剣な目をサナエに向けた。その目には、これまで見たことのない決意が見て取れた。サナエの瞳の奥を射るような視線だった。サナエは捕食者に射すくめられたウサギのように、視線を逸らすことができなかった。
「まず、君のお母さん、カナさんの話からしよう」堀越の口から思わぬ言葉が出てきたことに、サナエは驚いた。もちろん、父の友人であれば母の不在は承知しているはずだった。そして、父と学生時代からの友人であれば、母のことも知っている。同じ大学に通っていたという堀越と父、そして母。三人の人生がサナエの知らないずっと昔から繋がっていたことを改めて実感する。
「飯塚さんが、お母さんのことで何かしら悩んでいることは、君のお父さんから聞いていたよ。お父さんも、詳しいことは分からないそうだ。私は君の心の中を詮索する気はないし、その原因を知りたいとは思わない。ただ、君のお父さんは、飯塚さんのことをいつも心配していたよ。二人で食事をしていても、話題はいつも君のことだった。さすがに、君があのマコトの娘さんだとは、最初は信じられなかったが、たしかに、目元はお母さんにそっくりだ」
「それは、父にもよく言われます」サナエは無理に視線を外した。母の面影を重ねられるのはあまりいい気持ちがしなかった。
「カナさんが亡くなったのは、君が確か中学三年生の時だった。私もお葬式には参列したよ。君がずっと下を向いて、体を固くしていたのを覚えている。結局、あの時君と目を合わせることはなかった。
君のお父さんとお母さんに知り合ったのは、大学の時だ。お父さんが医学部で、お母さんが教育学部、私が理学部だった。三人の接点はサークルだったよ。コーヒー同好会という名前だが、君のお父さんのようにブレンド熱を持っていたのは少数派だったな。あと一人、仲のいい女の子がいて、四人でこうした喫茶店に入り浸っては、他愛のない話ばかりしていた。あの時も、そういう感じだったよ」堀越はそこで再び言葉を区切った。堀越はいつの間にか、遠く三十年前のその場所にいるように、サナエから視線を外し、そして語り始めた。
**
「ねえ、私たちの誰かがもし死んでしまったら、その時はどうしようか?」
カナは唐突に言った。それまでの会話の流れをすべて無視して、しかも物騒な話をし始めたものだから、その場にいた全員が呆気にとられた。
「どうしたんだよ急に」タカシが斜め読みをしていた文庫本から顔を上げて言った。
「もしもの話よ」カナは笑った。この二十五年後にカナ自身が亡くなることを、当時の彼らはもちろん知らない。そうなったらどうする、という話だった。
「そうだなあ。私はきっと泣くと思う」マリコは言った。「号泣よ号泣」
「俺はそうだな、医者を辞めるかもな」医学部のマコトはタカシの吐き出したたばこの煙を手で振り払いながら言った。
「医者になる前からそんなこと言っちゃって」カナは笑った。
この時彼らは大学三年生で、春休みの真っ只中であった。そろそろ、自分たちの人生を真剣に考え始める時期でもあった。将来の夢を話しているなかで、カナの投げかけた問いはそれぞれの胸の中にするりと滑り込んでいた。社会に出て、そして必ず最後に訪れる旅立ちの日。残される立場になった時に、人は何を思うのか、当時の彼らにとってそれは、しかし捕らえどころのない問いかけだった。
「タカシはどうなの?」カナは言った。「もし、私が死んじゃったら」
「カナが死んだら? お葬式に行くよ」
「適当だな、お前」マコトは笑った。
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