第19話 すれ違いと血だまり
出会いはすべての始まりだ。そうして始まった二人の関係に想いを馳せていたサナエは、不意に我に返った。食器を戸棚に戻し、ダイスケの作業を手伝った。
「そういえば、五十嵐君は元気?」ダイスケが言った。ダイスケはいつも飄々としているのに、時々鋭く勘を働かせることがある。ちょうどコウタのことを考えていたサナエの心臓は大きく跳ねた。
「……元気ですよ、たぶん。最近はなんていうか、彼も私も忙しくて、あんまり一緒にいる時間がないんですけど」サナエは正直に話した。母の不在に関わる部分を避けながら、今の状況を簡単に説明した。「私自身、最近寝付きが悪いし、多分心配してくれているんでしょうけど、素直になれないっていうか、なんというか……」
「歯切れが悪いね、サナエちゃんらしくもない」
「まあ、色々ありまして」サナエは言葉を濁した。
「さっき、カズヤも同じ台詞を言っていたな」ダイスケがふふ、と笑った。「顔つきまでそっくりだよ」
「ダイスケさんって、時々怖いですね」
「よく言われるよ」
「なんだか倦怠期って感じなんですよね」サナエは小さく溜め息をついた。「どうすればいいんだろうってずっと考えているんですけど」
「まあ、男なんて、何にも考えていないからな。あまり深刻に考えすぎないことだよ。牽制し合っているだけかもしれないし。しばらくすれば落ち着くさ。五十嵐君の就活も、もうそろそろ終わりだろ?」
「そうですね、あと二ヶ月はかからないと思いますけど」サナエには、二ヶ月という時間は途方もなく長い気がした。ぎくしゃくとした二人の間に横たわる溝は、今はまだ小さいけれど、二ヶ月の間にその溝は越えられないほどに大きく、そして深くなっているのではないか。五月の下旬ともなれば、恐らく就職先は決まっているだろう。コウタはマイペースな性格の割に、抜け目なく活動するところがあった。大学に真面目に通っているわけではないのに、三年までに必要な単位はすべて取得しているようで、来年度は授業を二つとゼミと卒論で終わりだと言っていた。就活に対してもそうだ。本当はサナエもエントリーシートや説明会など就活らしいことをやらないといけない時期なのだが、博士後期課程に進むことも考えているため、あまり身が入っていない。それに比べれば、コウタの就職活動は順調そうだった。既に面接に進んでいるところもあると言っていたし、四月になればそれこそ毎日のようにどこかの会社に向かうようになるのだろう。
コウタが就職を決めても、その頃はサナエが学会発表の準備で忙しくなる。すれ違いはこの先もずっと続くような気がしていた。カオルが佐々木と別れたように、いつか自分もコウタと別れる日が来るのかと思うと、こうして悩んでいることも結局は無駄になってしまう。後ろ向きな考えであることは分かっている。堀越が以前言っていたような、感情をコントロールするということが、やはり今のサナエには難しいと思った。
「さっきのコーヒーを、明日五十嵐君にも飲ませてごらん。何かのきっかけになるかも知れない」ダイスケはいつにもまして静かだった。いつもならイベントの直前は忙しそうに飛び回りながらもそれを楽しんでいるような雰囲気があり、一種の躁状態になっていることの方が多いのだが。準備があまり順調ではないのだろうか、とサナエは思った。
カフェを出ると、寒さが増していた。吐く息が白くなった。昼は春でも、夜になれば冬に逆戻りだ。
**
その日の夜、サナエは夢を見た。母と二人で、どこかの公園を散策している。手を引かれ、緩やかな斜面を登っていく。丘にはケヤキやヒノキが間隔を空けて植えられていて、その足下には一面クローバーが小さな葉を広げていた。木漏れ日がクローバーにあたり、朝露がきらきらと光っていた。母はふと足を止め、クローバーの葉を一つ摘み取った。
空はどこまでも青く、穏やかな風が頬を撫でた。サナエはうきうきとした気分になっていた。母の真っ白なワンピースがゆらゆらと揺れていた。髪を片手で押さえる仕草が羨ましいと感じた。早く、お母さんみたいに大きくなりたい。そう思った。
「サナエ、これ見て」母は摘み取ったクローバーの葉をサナエに見せた。サナエは母のもとに駆け寄った。
「あ、葉っぱが四つある。私知ってるよ。見つけた人は幸せになるってご本で読んだことあるもん」サナエは得意げに言った。
「そうよ。この葉っぱにはね、一つずつ特別な意味があるの。願うこと、信じること、愛すること、そして幸せ」母はサナエの掌に四葉のクローバーをそっと置き、手を重ねた。
「サナエがこれから大きくなっても、きっとこのクローバーがサナエを守ってくれるわ」母の体温がサナエに伝わる。クローバーの意味よりも、母のぬくもりをずっと感じていたい。サナエはそう思った。
「ママの手、温かい」
「よしよし。もう少し探してみよう」母は立ち上がり、丘の向こう側へ向かう。ぱっと手が離れてしまう。
「あ、ママ待って」サナエは慌てて母の姿を追った。朝露で濡れたクローバーは滑りやすく、サナエは何度も足を取られそうになった。堪らずにサナエは手をついた。ちょうどその時、四葉のクローバーが視界に入った。四枚の葉がまるでサナエを呼んでいたように、サナエは感じた。サナエは嬉しさのあまり飛び上がる。これを見せればきっと母も喜んでくれるに違いない。
「ママ、見て見て。私も見つけたよ」クローバーの葉を掴み、丘の向こう側へ走る。
「ママ、ねえってば」丘を超えても、母の姿はなかった。遊具で遊ぶ子供たちや公園の池に集まる野鳥が目に留まったが、肝心の母はどこへ行ったのだろう。サナエは慌てて辺りを見渡す。
「ママ、ママ。どこ行っちゃったの」手をぎゅっと握りしめる。今にも泣きそうになるのを堪えた。するすると斜面を滑るようにしていくと、いつの間にか公園から街に出ていた。道路添いの植え込みに、自転車が倒れていた。前輪が大きくひしゃげ、前のかごが押しつぶされている。まるで何かにぶつかったようだ。急激な場面の転換にサナエは動揺した。お母さんはどこに行ったの。その時、心の中で声が聞こえた。それ以上行ってはいけない。目を開けてはいけない。
サナエは、その声の意味が分からなかった。視線をふと自転車の先に向けた。
母が横たわっていた。顔は見えなかった。髪が乱れ、ぬるりとした赤黒い液体がその周りに広がっていた。不自然に曲がった腕の先に、レンタルショップの袋が落ちていた。心の中で悲鳴が聞こえる。見ては駄目。私は、私は悪くない。私は、私は——。
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