第18話 おかわりと小説

「新しいコーヒー、お持ちしましょうか」サナエはコウタに話しかけた。コウタがゆっくりと振り向く。「サービスします。来ていただいたお礼」

 コウタは戸惑いながら、小さく頷いた。サナエはカップと取ると、カウンターの中に入った。自分で豆を挽き、ドリッパーにセットした。本当は、コーヒーを入れるのはダイスケの仕事なのだが、ダイスケは控え室に入ったきり帰ってくる気配がなかった。大方、バンドのメンバーと親睦を深めるべくワインを開けているのだろう。ダイスケはこの日のために高いワインを買っている。それは店で出しているものよりもずっと高い、フランス産のワインだった。


 サナエはダイスケの不在に構わず湯を沸かし、ドリッパーに向けて注いでいく。ゆっくりと、「の」の字を描くように手首を回転させる。お湯を置くイメージを思い浮かべる。そうするとうまくいくとダイスケに教わった。コーヒーを美味しく淹れるのは難しい。豆の焙煎の程度、粉の粒度、お湯の温度、お湯を注ぐ速さ、同じ豆を使っていても、条件によってコーヒーは美味しくもなるし不味くもなる。わずかな条件の違いがもたらす決定的な味の差。それは、生化学の実験でどの条件が酵素反応を律速しているのかを追求するのに似ていた。結局のところ、両親のコーヒー好きの延長線上に今の自分がいることになる。

 コウタはサナエの手元とサーバーと文庫本を代わる代わる見ていた。

 サーバーからカップに移し、コウタに差し出した。コウタは読んでいた本に栞を挿んで脇に置いた。


「何を読んでるんですか?」会話のきっかけを探していたサナエは、ひとまず当たり障りのない話題を選んだ。しかし、サナエはあまり本を読まなかった。特に小説は苦手だった。感情移入をする前に物語の矛盾点ばかりが気になって、ストーリーどころではなくなるのだ。これまでも何度か友人に勧められるがまま読んではみたものの、数十ページでリタイアをしてしまうのが常だった。自分は理系だからと敬遠をしているだけのような気もするが、判然としない。腰を据えて本と向き合う時間も取れないのだから、今更文学に関心を持つこともないと思っていた。

 コウタは作家の名前とタイトルを言った。作家の名前には聞き覚えがあった。「この作家、同じ大学の卒業なんですよ」コウタはタイトルの書かれたページを開いて言った。教育学部の卒業と書いてあった。ペラペラとページをめくっていく。なぜか東京駅の構内図が載っていた。東京駅を舞台にした小説だろうか。

「そうなんですか。小説って苦手で、なかなか最後まで読めないんです。でもちゃんと読んでみたいんですよね」サナエは少しだけ見栄を張った。ここで会話を止めたくなかった。

「ストーリーに集中できない感じですか?」

「細かいところが色々気になって」

「僕もそうですよ。だからなかなか先に進まないんです」コウタは自嘲気味に笑った。「でも、こういうところに来たら、折角だから読んでみようって気になるんです」

 コウタはてっきり本を読まない方かと思っていたが、コウタが無類の読書家だということを、サナエは後々知ることになる。


「ここって素敵なお店ですね」

「ええ、私も気に入ってます」話題が本から逸れて、内心ほっとした。正直、小説談義は早くも限界だった。でも、本を読む場所はきっと大切なのだろう。静かなところで文章と向き合うのは、きっと自分と向き合う時間なのだ。コウタにとって、このお店がそういう場所になればいいと思った。そうすれば——。そうすれば、いったい何だろう。

「空気がきっと違うんでしょうね。コーヒーに包まれているような、そんな感じがします」

「そうなんですよ。マリコさん、あ、このお店の店長なんですけど、マリコさんのこだわりっていうか、単にコーヒーの香りがするってだけじゃなくて、もっと近くからコーヒーの存在を感じることができるように、色々工夫しているんですよ」

 一杯のコーヒーが人を時間から解放する、河野の言うコーヒーの力をコウタも感じているのだ。同じ空間を共有すること、同じ感情を共有すること、その喜びに心臓の鼓動が速くなるのを感じた。


「無粋な言い方かもしれないですけど、魔法にかかったような、そんな感じです」コウタはコーヒーカップを両手で包むようにした。魔法という言葉は、コーヒーの力を表現するには相応しいと感じた。

「魔法、そうかも知れないですね。ここで働いていると、コーヒーの力をとても強く感じるんです」

 コウタは、サナエの話を聞きながらコーヒーを飲んだ。「飯塚さんの淹れたコーヒーにも、きっとそんな力があるんですね」

「ううん。私なんか全然ですよ。こんな風にコーヒーを淹れるのだって、マリコさんやダイスケさんには敵わないし。まだ修行中の身なんです」

「そうなんですか。でも、美味しいです」コウタの声は穏やかだった。まるで、そうまるでこのお店の雰囲気を体現しているような、そんな穏やかさだった。深い海の中を悠々と泳ぐクジラを想像した。イベントの時に思い描いたものとは違い、浮上や降下はしない。同じ深さに留まり、一定の速さで泳ぐ大きなクジラだ。


 サナエは既に仕事のことは半ば忘れていた。この時間がずっと続いてほしいと願った。コウタと話をしていると安心する。イベントの熱気がゆっくりと冷めていく一方で、コウタに対する気持ちが徐々に大きくなっていた。

 コウタとは色々な話をした。ぽつぽつと言葉を紡ぐコウタの声をサナエは静かに聞いていた。時間の流れを感じることのないまま、一体どのくらいの時が過ぎただろうか、いつの間にか、河野が近づいていた。

「サナエちゃん、そろそろ閉店よ。お客さんもそのお兄さんだけだし。お会計だけもらってちょうだい」河野は笑っていた。半ば呆れていたのだろう。サナエははっとして立ち上がった。

「マリコさん、すいません」カウンターの奥に戻って伝票を取り出した。店内を見渡すと、確かに客は一人もいなかった。ダイスケが赤ら顔でテーブルの上に椅子を上げていた。そろそろ閉店ではなく、既に閉店している。ジャズバンドの人に挨拶をすることもできなかった。それだけ、コウタの隣は心地よかったということだろうか。河野がダイスケの手伝いに向かった。カウンターには再びサナエとコウタの二人っきりになった。


「お会計よろしいですか。四百五十円です」ブレンド一杯分の値段だ。

 コウタからお金を受け取り、おつりを渡した。「また、来てくださいね」立ち上がったコウタに声をかけた。本当は、もっと話をしたかった。どこまでも広がる海の向こうまで連れて行ってほしい。夢を見ているだけなのかもしれない。初めて出会った男の人に対してこのような感情を抱くことなんて、ドラマか映画の見過ぎなのかもしれない。


「飯塚さん、もう少し、話をしません?」コウタはバッグを肩にかけながら、サナエの様子を伺うように言った。「いえ、すいません。迷惑ですよね、こういうのって」

「いえ、そんなことないです。えっと、じゃあ、ちょっと待ってて。お店の片付けが終わるまで」サナエは早口で言うと、河野のもとに駆け寄る。

「あの、河野さん」

「いい出会いになったじゃない」河野はコウタの方をちらっと伺った。ふふふと笑う。

「若者は羨ましい」ダイスケが河野に続く。既に目は据わっていたが、サナエをからかうように、にやにやとしていた。

「ダイスケさん、若者はやっぱりヤバいですよ」

 それから、コウタはしばしばカフェを訪れるようになって、徐々に二人の距離は縮まっていった。約一ヶ月が過ぎた頃、二人は付き合い始めた。

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