第17話 バンドと拍手

「サナエちゃん、そろそろセッティングする時間だから、ダイスケの様子を見てきてちょうだい」河野がサナエの肩に手をそっと置いた。頷き、バンドの人の控え室になっている物置部屋に向かった。

 部屋に入ると、バンドのメンバー全員で円陣を組んでいた。全部で五人いた。バンドの人は四人だったはずなのに、と思う前に、その輪の中に見知った顔があったから驚いた。ダイスケだった。号令をかけているのがダイスケだったものだから、サナエは開いた口が塞がらなかった。何をやっているのだこの人は。

「おお、サナエちゃん。折角だからサナエちゃんも入って入って」ダイスケが顔を上げて手招きをする。円陣を組むバンドの人たちもなぜか頷いている。すっかり意気投合をしたようだ。なんと単純なことか。


「いや、それはさすがに」さすがに恥ずかしいです。「それより、もうすぐ時間ですよ。スタンバイをお願いします」

 ダイスケはバンドのメンバー全員と握手をかわして、送り出した。油断をすればステージに上がってしまいそうで、サナエは思わずダイスケのシャツの裾を掴んだ。

 ステージでの準備を手伝い、いよいよイベントの開始が近づく。

 フロアは更に混んできた。今回招待したジャズバンドは、毎年横浜で開かれるジャズフェスティバルでもステージパフォーマンスをする有名なバンドだと聞いていたが、ダイスケの話も眉唾ではなかったのかもしれない。


「サナエちゃん、お客さんよ」

 マイクの設営をしていたところで河野に呼ばれた。カウンターの方まで来てみると、昼間にビラを渡した青年が来ていた。

「来てくれたんですね、ありがとうございます」

 安易な期待はしないと思ったのだが、期待をしてもしていなくても、来てくれたことが素直に嬉しかった。今思えば、その青年との関係について、予感めいたものを感じていたのかもしれない。


 青年は五十嵐コウタと名乗った。店に来たことが何度かあるようだった。

「ご注文お伺いします」

「それじゃあ、ブレンドをお願いします」

「お砂糖とミルクはお使いになりますか」

「はい」コウタは静かだった。雰囲気は真面目というよりはむしろ遊びなれしている印象なのだが、言動は丁寧で穏やかだった。サナエはチャラチャラとした男はあまり得意ではなかったが、この青年には好感を持てた。Tシャツにジーパン、サンダル姿であるのに、自然に見えるから不思議だった。コウタはカウンター席に座り、鞄から文庫本を取り出した。


 ステージでは楽器のチューニングが行われていた。トランペット奏者とサックス奏者が音を出し合い、音程を調整していた。スタンドマイクの前に立っていた男性が後ろのトランペットとサックスを伺う。管楽器の二人が楽器をおろし、小さく頷いた。ピアノ奏者が静かに演奏を始めた。トランペットとサックスがピアノの旋律に重なる。軽妙なリズムでそれぞれが高い音を出し、イベントの開催を宣言するファンファーレを奏でる。

 演奏が終わると、大きな拍手が起こった。コウタも体を反転させてステージを見つめている。カフェは海底から光の届く水面近くに浮上していた。明るい音楽がクジラの中に満ちあふれるイメージをサナエは想像した。ゆったりとした速さで水面を漂い、気まぐれに浮上と降下を繰り返す。


 ボーカルが来場者に感謝の言葉を伝え、自己紹介を始めた。

 サナエはフロア内を見回し、客の様子を確認する。皆ステージに注目していた。飲み物はまだ大丈夫そうだ。

 音楽とコーヒーは化学反応を起こす。それは、このカフェで音楽イベントをする度にサナエが感じることだった。旋律の重なりとコーヒーの香りは頭の中で複雑に混ざり合い、脳の深いところで一つになる。青色と黄色を混ぜると緑色になるように、別のものに変わる。聴覚、味覚、嗅覚を超えて、新しい感覚を観客に与える。そして時間の概念から解放された人々は自由になる。河野の言うコーヒーの力が音楽の力で一回り大きくなるように、サナエは感じていた。

 自己紹介が終わると、再び曲が始まる。今度はゆったりとしたテンポでサックスがメロディーを朗々と唄い、ボーカルの声が重なる。カフェにいることを忘れてしまいそうなくらい、観客は音楽に引き込まれていく。


 演奏の合間に注文を聞き、演奏中にコーヒーを入れるのが常なのだが、その日はイベントの最中にほとんど注文が入らなかった。河野とダイスケはカウンターの奥で座って演奏に耳を傾けていた。サナエは、気づくとコウタの隣に腰掛けていた。心地よいリズムが耳をくすぐる。そして、コウタの隣にいると、会話も何もしていないのに、心が安らぐ自分がいることに驚いていた。会場の雰囲気にのまれていたのかもしれないし、吊り橋効果のように同じ体験を共有していると感じたのかもしれないが、そのような経験はサナエにとっても初めてのことだった。既にコウタのことを意識していた。

 ジャズの演奏は、その後小休止を挟みながら一時間半ほど続いた。最後の曲が終わった時、会場からは割れんばかりの拍手が沸き起こった。立ち上がって拍手をする客もいて、最終的には盛大なスタンディングオベーションとなった。バンドのメンバーは何度も礼をして拍手に応えていた。コウタとサナエも立ち上がって拍手をした。


 アンコールは、トランペットとピアノの軽快な掛け合いだった。水面を漂っていたクジラが大きく潮を吹き、そして、演奏の終わりとともにまた深海にその姿を沈めていく。その姿が想像できるほど、アンコールの最後はゆったりと、静かな余韻を残した。

「ありがとうございました。すばらしい演奏に皆さんもう一度盛大な拍手を」ダイスケがいつの間にかステージ脇に立っていた。客の大きな拍手がカフェを包むように広がる。台風のことなど、覚えている人はもういないだろう。


 客の多くは口々に感想を述べ合いながら帰る準備を始める。開閉を繰り返す店の扉からちらちらと外の様子を伺ったが、どうやら雨は上がったようだ。

 ステージの片付けをダイスケに任せ、河野とサナエは会計と食器洗いをこなした。数人の客が店内に残っていた。余韻に浸っている客たちから追加の注文をとるなど、イベントの終了時も開始と同様忙しなく時が過ぎていく。

 片付けが終わると、店内にはいつの間にか琥珀色の空気が戻っていた。カウンターにコウタの姿を見つけた。コウタは文庫本を読んでいた。コーヒーはまだ半分くらい残っていた。

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