第16話 変化と出会い
しばらくして、カズヤは店を出た。出る間際に、明日は自分がコーヒーを淹れると言い始めた。きっとカオルに淹れてあげるのだろう。コーヒーの力を、カズヤも手に入れようとしているのかもしれない。
「あれ、カズヤ君帰ったんだ」奥の部屋で電話をしていたダイスケが戻ってきた。
「ええ。明日は研究室で自分がコーヒーを淹れるって言い出して。先生にも出すから、練習もしなきゃいけないですけど」朝に練習するだなんて、高校の部活みたいだ。
「朝練か、それはまた大変だな」ダイスケはそう呟き、カウンターの奥へ入る。戸棚を開け、何かを探している様子だ。
「さあ、サナエちゃん、今日もあと少しだから、最後までよろしくね」河野が近づいてきた。
「はい。すいません、騒がしくて」カズヤは気持ちの振れ幅が大きく、そして声も大きいから、テンションの高くなった時は手が付けられない。きっと、中学生の頃のまま大人になってしまったのだと思っていた。
「いいのよ。カズヤ君もコーヒーが好きになってくれたみたいだし」ふふふと河野は笑った。
「そうですか? いつもは砂糖とミルク入れないと苦くて飲めないのに、きっと無理して飲んでただけじゃ」
「それでも構わないわ。なんか、カズヤ君少し変わったわね」河野が嬉しそうに言う。
「サナエちゃん、これ、明日のコーヒーだよ」ダイスケがカウンター越しに紙袋を差し出した。「せっかく先生に出すんだったら、これを試してみてくれよ」
「いえ、そんな悪いですよ」
「貰ってくれ。若いってのはいいよな。だから特別だ」ダイスケは得意げに言う。
「ダイスケさん、若いってやっぱりヤバいですよ」
閉店の時間を迎えても、カフェは相変わらずコーヒーの香りが漂っている。その余韻を楽しむことができるのは、カフェで仕事をする者の特権だ。寄せては返す波のように、コーヒーの余韻はどこからか現れて、そして消えていくことを繰り返していた。
サナエはレジを閉め、木製のカウンターを拭き、カップやスプーンを一つずつ丁寧にスポンジで磨いた。単調な作業の間、サナエはまたコウタのことを考えていた。コウタと出会った日のことが、鮮明にサナエの頭に蘇った。コウタと知り合い、様々に語り合ったのも、ちょうど閉店間際のこの場所だった。
**
半年ほど前の九月だった。その日は月に一回のイベントの日で、サナエは河野とともにキャンパス内で宣伝用のビラを配っていた。
「サナエちゃんも、もっと配らんと」
「配るって、全然人通らないじゃないですか」
河野が、実験中のサナエを呼び出したのがつい十分前だ。集客なら高田馬場の方が絶対に効果的だと主張しても、河野は頑として聞かなかった。きっといい出会いがあるわよ、と言うだけであった。
「おかしいわね、大学ってもっと学生さんいるんじゃないの?」
「まだ夏休みなんですよ。もう、どうするんです? ビラがまだこんなに」足下にはこの日のために河野が用意したビラが詰まった紙袋があった。サナエは暗澹たる気持ちになった。きっと、余ったら研究室で処分しろとか、そういうことを言うに決まっているのだ。
「あ、いるじゃない」そう言って渡しているのは明らかに散歩に来ている老夫婦で、どう見ても河野より年上だ。ビラを受け取った二人は手元を見ながら会釈をするものの、戸惑っているのか、「ぜひ来てくださいね」という河野の言葉に曖昧に返事をするだけだった。
その日は三連休の真ん中の日曜日で、しかも関東地方に台風が接近していた。時折吹く風は熱帯の空気を連れてきたように湿気を帯びており、嵐の訪れを予感させた。まだ太陽が空高くからサナエたちを照らしていたが、夕方から天候が崩れると天気予報は告げていた。関東地方を直撃する恐れがあり、厳重な警戒が必要だと、気象予報士の人が危機感を煽っていた。
サナエは腹をくくることに決めた。老夫婦と入れ違いに入ってきた親子連れにビラを渡した。こうなれば誰彼構わずビラを渡して、残数を減らすことを目標にするしかない。
こんな台風の日に、果たして客が来るのだろうかとサナエは前日から心配していた。この辺りの人だって当然外出は控えるだろうし、そうなればイベントは赤字だ。ただでさえ招待するゲストの出演料が企画を重ねるたびに上がっていて利益を圧迫しているのに、河野も焦っているはずなのに、どうしてこんなに嬉々とした表情なのだろう。
一段と強い風がキャンパスを吹き抜けた。通路添いのイチョウ並木がざわざわと枝を揺らし、風に怯えて震えているようだった。その様子をぼんやりと見ていると、同じようにイチョウの木を見上げながらのんびりと歩いてくる青年の姿が目に入った。老夫婦と親子連れのあとだったので、サナエは図らずも喜びを感じた。
青年は真っすぐこちらにやってきた。サナエは意を決しビラを手渡す。青年は戸惑いながらもビラを受け取ると、ぼんやりとした表情のままではあるが、文面を確認しているようだった。
「今日イベントやるんです。良かったら、いらしてください」
サナエの声に、青年は小さく頷いた。
この青年はもしかしたら来てくれるかもしれない、と期待するのは簡単だ。来るかどうかなど、その時間にならないと分からないし、サナエは安易な期待感に何度も裏切られてきた。もちろんその反対もあった。だから、サナエは期待をしない。
青年はビラを持ったままぽてぽてと歩いて、門扉をくぐり出て行った。
「ほら、言った通りでしょ。出会いがあった」
「そんなの結果論でしょうに」サナエは笑った。その後も、時折通りかかる人、それはやはり大半が近所の住民とおぼしき中高年だったり大学職員だったりするのだが、あまり関心のなさそうな人たちにビラを渡し、宣伝をした。効果のほどはどうか分からないが、とにかくビラを減らすことはできた。
一時間程度配ってから、河野は店に戻ると言って帰っていった。案の定、残ったビラはサナエが処分することになってしまった。
アルバイトは午後六時半からだった。ちょうどその頃、溜め込んでいた雨粒が溢れてしまったみたいに、急に雨脚が強くなった。サナエは強い雨と風に翻弄されながらカフェにたどり着いた。
カフェは意外にも賑わっていた。突然の風雨に見舞われ、雨宿りついでに来ている人もいるだろうが、席は一通り埋まっていたし、立ったままの人も何人かいた。
「サナエちゃん、さっきはありがとうね。おかげでお客さんたくさん来てくれたよ」河野は嬉しそうだった。
「意外です」サナエは正直に言った。こんなに来るとは思っていませんでした。「あれ、ダイスケさんは?」
「ダイスケならバンドのリーダーの人と奥で打ち合わせ中よ。ジャズなんて久しぶりね。今日はいい会になりそう」河野は鼻歌交じりに言うと、伝票を片手にカウンターに入っていった。
控え室で着替え、ホールに出る。イベントが始まるまでにフロア内のすべての客に飲み物を提供しなければならず、実はイベント前が一番忙しいのだ。テーブルを見渡しながら、注文を確認する。いくつかのグループからオーダーを取り、河野に渡した。
イベントの前はいつもそうだが、店の中に独特の空気が広がる。それは祭りの始まる前の高揚感とも、映画の上映前の期待感とも、行列に並んでいる時の焦燥感とも違っていた。大きく店を包み込む雰囲気は、海の底に横たわる大きなクジラのように、温かく、不安定で、そしてひっそりと佇む姿に似ていた。
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