第15話 琥珀と空気
コーヒーを淹れる作業は店ではほとんどやったことがなかった。何回かダイスケにコーヒーを飲ませたことがあったが、いずれもダイスケの舌を満足させる味にはならなかった。それでもサナエは、普段からダイスケの所作を観察し、ダイスケの作るコーヒーの味を目指していた。
ミルで粒状に砕かれた豆をダイスケが用意した円すい形ドリッパーに入れる。
ダイスケの注ぐお湯はまるで一筋の光のように、まっすぐにコーヒーに落ちていく。みるみるうちに豆が膨らむ。新鮮な豆ほど膨らみが大きく、この膨らみを壊さないようにするのが美味しくコーヒーを淹れるコツだとダイスケは言う。鮮やかな香りが、ドリッパーから湧き立つように店内に広がる。琥珀色の世界の中に入り込んだように、何もかもが淡いベールをまとい、ゆらゆらと揺れる。
サナエはミルの中を掃除しながらダイスケの手元を覗き見る。繊細な手の動きで一定のお湯をドリッパーに注いでいる。空気を操っているかのように思えるほど、お湯は乱れることなくドリッパーに吸い込まれ、琥珀色の液体に生まれ変わる。サーバーに静かにコーヒーが蓄えられていく。ガラスの内側が曇り、液体となった水が重力に抗うことなく下に落ちていく。香りを閉じ込めた水がコーヒーと混ざり合う。
カウンターの向かい側で、カズヤはじっとサーバーを見ていた。コーヒーの抽出は穏やかな空気を作り、見るものの心を奪っていく。コーヒーは様々な角度から人々を魅了し、その目を釘付けにする。魔力と言ってもいい力で、時間の感覚を奪い、ヒトを素直にさせる。ダイスケもまた、この場所でカフェに来る客から時間の感覚を取り払い、コーヒーと向き合う時を演出していた。
十分に時間をかけて淹れたコーヒーを温めたカップに注ぐ。ふくよかな湯気がたゆたう。
「はい、マンデリンお待たせ」カウンター越しにダイスケがカップをカズヤに渡した。「まずは、そのまま飲んでみな」ダイスケはカウンターに身を乗り出し、頬杖をついた。ダイスケの言葉には有無を言わせない響きがあった。
カズヤは頷き、カップを手に取った。そのまま一口飲んだ。
「どうだ、苦いか?」ダイスケは、普段カズヤが砂糖とミルクを欠かさないのを知っていた。わざとブラックで飲むように仕向けたのだった。味に自信があるのか、それともカズヤをからかいたいのか。その両方だとサナエは思った。
「苦いです。でも、少し酸っぱくて、飲みやすいです」カズヤは意外そうな顔をした。コーヒーはただの苦く黒い液体だと思っていた、と続けた。
「美味しいだろ。ブレンドと違って深みはあまりないけどな。味のバランスだけをみれば、マンデリンは優秀だ。うちのブレンドにも入っているし、いい引き立て役だよ」
カズヤはしばらくの間、コーヒーカップから手を離さなかった。少しずつ口に含み、マンデリンの味を確かめるようにしていた。
「ダイスケさん、どうやったら俺、新嶋のこと支えられるのかな」
「カオルちゃんのことか? やっぱり何かあったんだな」
「まあ、色々ありまして」
カオルとの距離感を掴みかねていた日々と、今日の出来事。空回りをしている自分をどうしたらいいのか、カズヤは分からずにいるようだった。サナエにとっても、この友人の悩みやつらさは痛いほど理解できる。
「すまないけど、俺には何もしてやれないよ」ダイスケが目を伏せて言った。「でもな、マンデリンを飲んだろ。何を感じた?」
「何って、美味しかったですよ」カズヤは言いながら考えている。「こいつももちろん美味しかったですけど、ストレートでこれだけ美味しいんだから、ブレンドはもっと美味しいんだろうなって」
「そうだな、きっと美味しいだろう。俺はさっき、マンデリンは引き立て役だって言ったろ。君にとって、もちろん君自身も大切だろうが、今はどうやらカオルちゃんの方が優先されてるうようだな」
カズヤは小さく頷く。
「それじゃあ、君はマンデリンだ。主役であるカオルちゃんは、うちで言えばブラジル。ブレンドのベース、中心だ。ブラジルを中心として、その周りをマンデリンである君、モカであるサナエちゃん、グアテマラである先生、皆がブラジルを支えているけど、マンデリンは特別だ。ブラジルの平坦な苦みに深みを加えて、味に奥行きを与えている。マンデリンっていうのは扱いが難しいけど、はまった時は奇跡みたいに美味しいコーヒーができるんだ」
ダイスケは穏やかな声でカズヤに語りかけている。ダイスケは始めからこの話をするためにマンデリンを勧めたのだろうか。自分がモカというのは正直微妙な気がするが、今は黙って聞いておこうとサナエは思った。
「俺が引き立て役っていうのは分かりますけど、何をすればそういう風にできるんですか?」カズヤは言った。
「何をすればいいっていうことじゃないんだ。無理に何かをしようとして、うまくいかないくらいなら、いっそ何もしなくてもいい」
「何もしなくていいって、それじゃあ」
「それで十分な時もある。別に、マンデリンも何かをしているわけじゃない。ただその場にいるだけで、この店のコーヒーはここまで美味しくなるんだ。自分でいうのも何だが」
「意識し過ぎってことですか、今の俺って」
「ああ、きっとな。空回りしている感じだ。ならいっそ、くるくる回るのをやめてみるといい。じっとしていれば、自然と見えてくるものもあるだろう」ダイスケは指で虚空をかき回す仕草をした。
「そういうもんかな」カズヤは静かに考えている様子だった。
「まあ、言葉っていうのは無責任だからな。でも、コーヒーは違う。それを飲んで、カズヤ君がどう感じたのか、それを表現するんだ」
カズヤはカップを手に抱え、静かにマンデリンを飲んだ。
「さっきより酸っぱいですね」
「ああ、冷めるとどうしてもな。コーヒーと若者は、熱いに限るな」ダイスケは掌で首元を扇いだ。
「絶対に俺を馬鹿にしてますよね」カズヤが声を上げた。「飯塚も笑うとこじゃねえよ」
「ごめんごめん」カズヤが熱いやつだと思うと、可笑しくなった。カオルのことで真剣に悩むカズヤのことが、微笑ましい。馬鹿にしているのではなく、素直に羨ましい。真剣に悩んで、誰かに相談することができるのは、羨ましい。
「分かった。独りでうじうじするのはもう終わり」カズヤは開き直ったように言った。
「そうよ、無駄話はそのくらいにして。ほら、お客さんの注文聞いておいで」
河野がサナエに促す。店内は相変わらず空いていたが、入り口近くのテーブルに座った初老の男性がこちらに手を振っているのが見えた。
「はい。すいません」伝票を掴んで、サナエはカウンターを出た。
カオルのこと、カズヤのこと、そしてコウタのこと。うじうじと考えているのはサナエも同じだった。母のことも、それこそ母が死んだ日からずっと考えていた。ずっと考えているのは、結論を出すのを先送りにしているだけなのではないのか。入試が終わり、タクシーで病院に行く途中に感じていたあの感覚のまま、八年間という時間を過ごしているのではないのか。
今日何度目かのため息をつく。先送りをするだけの日々か、と自嘲する。気持ちを切り替えよう。カズヤの言う通り、独りでうじうじするのはもう終わりにしないといけない。
「和田君。そういえばさ、さっきはどこに行ってたの?」
「え、さっきっていつ?」カズヤはマンデリンの入ったカップから顔を上げた。
「実験室で私と別れたあと。研究室に戻らずに何やってたの?」
「別に何でもいいだろ」カズヤは言い淀んだ。
「なんだ、せっかく色々話す気になったと思ったのに」
サナエは少し気になっていた。研究室に戻っていないはずのカズヤの鞄がどうして机になかったのか。たまたま目に見えない場所に置いてあっただけだろうか。
「色々って何だよ。でも、コーヒーってこんなに美味しいんだな。前にさ、飯塚が言ってたのを思い出したよ。この店には、マリコさんやダイスケさんももちろんだけど、コーヒーの見えない力が確かにあるみたいだ」
「でしょ。ここで働いていると、もう不思議でもなんでもなくて、包まれているのが分かるっていうか、守られている気がするの」
河野が以前言っていたことを思い出した。自分はコーヒーの力を借りているだけだと言う。
「時計を置いていないのもそう、すべてはコーヒーの力を信じているからよ。信頼して、その力にすべてを委ねて、そしてお客さんを時から解放する手助けをしている」
その時はまだ、サナエには力のことはよく分からなかった。自分にはそれを感じることができるだろうかと少し不安になった。
「大丈夫よ。さっきも言ったでしょ? サナエちゃんなら大丈夫よ」不安そうな、むしろ不信がっている表情を浮かべていたのだろう。
「空気みたいなもの、なんですか?」
「空気?」
「マリコさんの話を聞いていたら、コーヒーの香りが作る空気がそう感じさせてるのかなって思って」
「うーん、そうかもしれないわね」河野はそう言って笑った。「具体的に言葉で言うのは難しいわ。力としか表現できないけど、でも、言葉は無責任だから。サナエちゃんがどんな風に感じるにしても、それを信じた方がいいんじゃないかしら」
思えば、ダイスケと同じようなことを河野も以前言っていたのだ。河野もダイスケも、言葉よりもむしろコーヒーの力を信じているのかもしれない。
「コーヒーのことを信じる、か」
「そう、それができれば、その力はきっとサナエちゃんの力になるわ」
サナエは、河野にもダイスケにも敵わないと思った。しかし、そうであったとしても、サナエはサナエ自身の信じるコーヒーの力を信じてみようと思った。
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