第14話 若さとストレート

 八階建てのビルの二階がカフェだ。細い階段の先にあるドアを開けると、コーヒーの芳醇な香りが鼻をくすぐる。カフェの空気は深く優しく来訪者を包み込む。この店は、河野そのものだとサナエは感じていた。カウンターにいる河野やダイスケ、そして常連客に挨拶をしながら、奥の控え室に向かう。店内をぐるっと見渡したが、やはりカズヤの姿はない。

 今日はもう、カズヤのことを考えるのはやめよう。そっとしておく時期なのかもしれない。大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。肺の中の空気をすべて吐き出すと、少し気持ちが楽になった。着替えて、店に戻る。


「サナエちゃん、早速で悪いんだけど、これ、三番にお願い」河野が渡してきたのはチョコレートケーキのプレートだった。客のところに運ぶ。

 店はテーブル席が十、エル字に曲がったカウンター席が十。今日はまだテーブルに空席が目立つ。平日の夕方は、いつもならもう少し客がいるのだが、人の流れは読みにくい。急に混み始めることもあるし、一日中閑古鳥が鳴くこともある。「メアリーズ・カフェ」は夜になると酒も提供するから、昼と夜とでは客層もがらりと変わる。今日はどうなるのか、予定調和でない接客の仕事が、サナエには好ましく思えた。それは研究とは違った趣向をサナエに与えている。


 しばらくの間は、ちらほらと入店してくる客に注文を聞き、飲み物やデザートを運んだ。会計を頼まれればレジに立ち、食器を片付けるというように、忙しなく体を動かす。そうすることで、コウタのことや研究室のことを忘れようとしていた。今の自分にできることをするだけだ、とサナエは自分に言い聞かせた。

 ドアの開く音がして、振り向くとカズヤが立っていた。サナエと目が合うと、軽く手を上げた。サナエはカズヤに歩み寄った。

「電話くらい出なさいよ」そう言いながら、サナエはカウンター席に案内した。

「悪い、ちょっと、立て込んででな」カズヤはばつの悪そうな顔をした。

「なんだなんだ、暗い顔して」カウンターでコーヒーを淹れていたダイスケが言った。


「ダイスケさん。そんな顔してます? 大丈夫ですよ」

「若いっていいよな」ダイスケは意味有りげに頷いている。

「ダイスケさん、いつもそれですよね。意味が広すぎっていうか、もはや何を意図しているのか分かりませんよ」

「そうか? 若いのは事実なんだからいいじゃないか」

 ダイスケはコーヒーの抽出に戻った。

「ブレンドにする?」

「ああ。あのさ、ブレンドじゃなくてさ、一つの種類のやつがいいんだ」

「へえ。珍しいね、ストレート飲むなんて」


「この間雑誌に載ってたんだ。ブラジルとか、モカとか、あれってそもそも豆の種類だったんだな」

「そうだよ。なんだと思ってたわけ? ブレンドの種類とか?」

「そうそう。カクテルみたいにさ、そういう名前のブレンドしたやつかと」

「和田君、それはちょっとヤバいよ」サナエは少し驚いた。しかし、コーヒーを日常的に飲む習慣がなければ、豆やブレンドのことを詳しく知らないのも当然かもしれない。

「ああ、ヤバいよ、そりゃ。いくら若くても、そのくらい」ダイスケは若いという言葉を必要以上に強調して言う。「ああ、俺の教育が足りなかったか」そう言って頭を抱えている。


「いやいや、若いとか関係ないじゃないですか。それで、何が美味しいですか。ストレートで飲むなら」

「そうだな」ダイスケは少しの間考えて、「マンデリンはどうだろう?」と提案した。

「雑誌に載ってたやつだ。じゃあ、それでお願いします」

「了解」ダイスケが少し笑って言う。「じゃあ、サナエちゃん、豆とカップをよろしく」

「はい」サナエはコーヒー豆の入っている瓶から、マンデリンを一杯分計りとった。

「お、飯塚が淹れてくれるのか?」

「しないわよ。コーヒーは、ダイスケさんの担当」

「そうだよ、カズヤ君。俺じゃあ不服かい」ダイスケはカズヤのことがお気に入りなのだろう。カズヤとの会話を聞いていると背中のあたりがむずむずするのを感じる。常連客と比較的フランクに話をするダイスケだが、カズヤの存在はその中でも特別なのかもしれない。世話焼きの兄と、そんな兄の存在を煩わしくも嬉しく感じる弟のようだ。


「い、いえ。すいません」カズヤはどんな反応をしたらいいのか分からないのか顔を伏せた。「お願いします」ダイスケに頭を下げた。

「いいね、若いって」サナエはからかい口調で言った。

「飯塚は同い年だろ」

 サナエはふふと笑い、カップやソーサーの準備を始めた。カップにお湯を注ぎ、あらかじめ温めておく。マンデリンをミルに投入して挽く。挽きたての豆を使うことで、コーヒーはさらに美味しくなるのだ。



  **



 サナエがアルバイトを始めた当初、客の注文を聞いてから一杯ずつ豆を挽くと聞いて驚いたのを覚えている。家で飲むならともかく、豆を挽くにも時間がかかるし、提供時間がその分長くなってしまう。効率が悪いし、クレームになりかねないのではないだろうか。サナエはその疑問を河野にぶつけたことがあった。

「そうね。たまに一見のお客さんにも言われるのよ。でもね、一口飲むと納得するのよ。味にはみんな正直なのね」

 河野はそう言って笑った。「早く安くっていうのも大切なんだろうけど、時間の感覚を狂わせるくらい美味しいコーヒーがあってもいいと思うの」

「時間の感覚、ですか」

「そう。このお店、わざと時計を置いていないの。このお店にいる間は、時間のことは忘れて、一杯のコーヒーに向き合ってほしいってね」


 味に対する自信も然ることながら、コーヒーの魅力を最大限味わって欲しいという願いが、その言葉には含まれている気がした。そこまで一杯のコーヒーにこだわる理由を、その時のサナエはまだ知らない。

「まあ、ブレンドは開店前に挽いて準備しておくけどね。さすがに回転が早いし、一杯ずつ挽くと味がぶれちゃうから。だから、まだまだ完璧じゃないのよ」

 コーヒー一杯に情熱を傾けることのできる人だと、サナエは思った。時間を忘れてブレンドの研究をする父も、時間を超越した存在だったのだろうか。父があそこまでコーヒーにこだわるのも、きっと河野のような人と出会ったからに違いない。

「私、頑張ります。頑張って、美味しいコーヒーが淹れられるようになりたいです」

「うん。サナエちゃんならすぐできるようになるわ」


 サナエは河野のその言葉を励みに、仕事に向き合っていた。仕事が終わってから、ダイスケの暇を見つけて色々と教えを乞うた。ミルの扱い方をとっても、刃の回転速度を少し間違うだけでも豆が摩擦熱で痛んでしまったり、きめが整わずコーヒーの味が落ちてしまったり、奥が深かった。知れば知るほど、サナエはコーヒーの虜になっていた。

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