第20話 夢と悪戦苦闘
「おい、サナエ、しっかりしろ。サナエ」
サナエは目を開けた。眠っていた。夢を見ていた。
「ごめん、私、もしかしてうなされてた?」サナエは首を擡げ、コウタに顔を向ける。夢の内容は、残念ながらはっきりと覚えていた。
「ああ、私は悪くない、とかなんとか。なんか、怖い夢でも見てたか?」コウタが心配そうな顔をしている。
「うーん、きっと。でも大丈夫だよ。何の夢だかよく分かんないけど」サナエは嘘を付いた。
「本当に大丈夫か」
「大丈夫だって。ごめんね、明日朝から就活でしょ」本当は、すぐにでも泣きたいくらい、胸が締め付けられていた。すべてをコウタに打ち明けて、楽になりたかった。
「ああ、そうだけど。何かあるなら、ちゃんと言えよ。最近ちょっと変だぞ」
「大丈夫だって言ってるでしょ」つい、大きな声を出してしまう。コウタには、絶対に知られたくない。母のことも、そしてあの日のことも、コウタには知られたくなかった。
「怒ることないだろ。なんだよ、こっちは心配してるっていうのに」コウタが語気を強める。ごめん、と言えばよかった。しかしそれを言ってしまっては、自分を止めている堰がすべて決壊してしまいそうだった。
「だから、それが余計なお世話だってどうして気づかないわけ?」どうして、こういう言い方になってしまうんだろう。きっと、堤防に亀裂が走り、その痛みをコウタにぶつけているのだ。サナエには止める手だてが思いつかなかった。
「勝手にしろ」コウタは背を向けた。
コウタの背中に手を伸ばそうとして、やめた。手は届きそうにない。言葉も気持ちも何もかも、コウタには届きそうにない。今更ごめんと言っても、もう遅いのかもしれない。
結局眠れないまま朝になった。コウタは朝早く出ていった。コウタはずっと無言だった。サナエも意地になっていた。悪いのは自分だと分かっていたのに。
コウタがいなくなると、部屋の温度が急に低くなった気がした。震えが止まらなくなった。コウタを失ってしまったらどうしよう。その恐怖がサナエの心を覆い尽くしていた。身勝手なのは分かっていた。コウタは何も悪くない。コウタを責める道理はない。涙が溢れてきた。母を失い、そしてコウタを失おうとしている。喪失感に押しつぶされそうになった。
今朝の夢、前半の丘の風景は実際の記憶だった。幼稚園の時、母に連れられて近所にあるあがたの森公園に行ったことがあった。四葉のクローバーを探すのに夢中になっていた頃だ。今サナエがクローバーの研究をしているのも、四葉のクローバーがどうしてできるのだろうという疑問があったからだ。クローバーを研究しながら、サナエはその中に母の姿を重ねていた。研究を始めた頃から、意識するまいと思っていたことだった。
どうするべきなのか、とうの昔に結論は出ていたのだ。サナエはただ、それを先延ばしにしていた。昨日の夜、カフェでカズヤと話をしていた時から、先延ばしにしていることを自覚した時から、きっと、答えは目の前にあったのだ。
そういえば、昨日ダイスケからもらったコーヒーをコウタに飲んでもらうこともできなかった。ダイスケが何を意図していたのか、それを確かめることもできなかった。
研究室に着くと、カズヤがコンロでお湯を沸かしているところだった。
「飯塚、ちょうど良かった」カズヤが手招きをする。「先生、今来たところなんだ」
「はいはい」サナエは自分の机にバッグを置いた。昨日ダイスケにもらったコーヒーを取り出す。「これ、ダイスケさんから。コーヒーを特別に貰ったから、今日はこれね」
「おお、あの店で出してるやつ? すごいじゃん。美味しいんだろ、これ」
「そうだけど、淹れ方が重要なんだって。とりあえず私がやるとこちゃんと見ててよ」
「了解」カズヤは敬礼をした。どうやら、今日は機嫌がいいらしい。昨日の今日で、これだけ回復できるのは、なんというか羨ましくて疎ましい。サナエは昨日から今朝のこと、コウタのことを意識の外に置くことに集中する。
サナエは手順を実演しながらカズヤに教えた。お湯の温度から始まり、フィルターのセットのしかた、お湯を注ぐタイミングと分量。一杯のコーヒーを淹れるだけでも、行程はいくつもある。カズヤはその一つずつを確認していた。時折メモを取っていたし、質問もしてきた。
「なあ、どうしてお湯を一気に入れないんだ?」
「これは、粉を蒸らしているの。ちゃんと抽出できるようにする準備」
「昨日も感じたけど、まるで実験しているみたいだな」
「似てるよね。いろんな条件があって、例えば温度とか、お湯の量とか。そういうのが少し違うだけで、同じコーヒーなのに味が微妙に違ってしまうから」
「きっと、何かが律速しているんだろうけど、難しそうだな」
「真剣に研究している人がいるかどうか分からないけど、化学なんだと思うよ、コーヒーって」
五分ほどで一杯分のコーヒーができた。カップに注ぐ。いつも以上に芳醇な香りがする。カフェで淹れているコーヒーとも違った雰囲気があった。
「先生のとこに持っていって」
「ああ、了解」
カズヤはカップをソーサーに乗せて、堀越の部屋に入っていった。サナエは次のコーヒーの準備をする。そろそろカオルが来るころだ。
カズヤが堀越の部屋から出てきた。
「先生も驚いてたよ。いつもと違って美味しいってさ」カズヤはなぜか得意そうだった。
「当然でしょ。次は和田君の番。もうじきカオル来るじゃない?」
「そうだけど、どうしてそうなるんだよ」
「隠したって無駄よ。本当はそれが目的のくせに」
「バレバレですか」カズヤは頭を掻いた。
「バレバレです」
「その前にさ、研究室のやつで練習させてくれよ」カズヤは楽しそうだった。開き直ったのだろう。ダイスケの言葉を思い出す。
カズヤがやりたいようにさせてやろう、それがカズヤにとってもカオルにとっても相応しいあり方だと思った。
「いいよ。お湯はもう一度沸かした方がいいいと思うけど」
カズヤはヤカンを火にかけるところから一連の作業をやった。お湯を注ぐ動作はさすがにぎこちなかった。一定の量を注ぐのはやはり難しいのだ。
悪戦苦闘してカズヤが淹れたコーヒーを飲んでみた。研究室に置いてあるコーヒーはそもそも豆の質もいまいちだが、そのコーヒーはただただ苦く、味に深みはない。
「まだまだね」そう言って、カズヤにカップを渡した。
「そうか。まだまだか」
「それにしても、ちょっと淹れ過ぎだよ。一杯分しか豆使ってないのに」サーバーにはもう一杯分コーヒーが残っていた。
「だって、まだまだいけそうなのに、もったいないじゃないか」
「日本茶じゃないんだから、出涸らしを使うなんてことしないよ」
「そういうもんか」カズヤがぶつぶつ言いながらコーヒーを飲む。
そんなやり取りをしているところに、カオルがやって来た。
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