第11話 クローバーとプレパラート

 実験室は八号館の四階にある。北側のフロアすべてが培養実験などを行う通常の実験室で、廊下を挟んで反対側には電子顕微鏡などの機器が入った機器分析室がある。

 実験室は生物学科の共同スペースということもあり、全部で八つある研究室の間では常にスペースの奪い合いが起こっている。つまるところ早い者勝ちなのだ。卒業間際の時期ともなれば、実験室は戦場となる。薬品が足りない、シャーレが足りない、電源が足りない、作業台が足りない。足りないものだらけで、学生も大学職員も右往左往するのが恒例となっている。


 さすがに春休みの実験室は空いていた。いるのは修士の学生と博士課程の学生が一人ずつだ。サナエはいつも使っている作業台の前で、実験の準備を始めた。実験といっても、薬品を使うわけではく、使うのは細い針とピンセットだけだ。クローバーの芽にある、葉が形成される部分に針を刺して傷をつける実験だ。正確には頂端分裂組織といって、植物の芽が成長する場所だ。成長点ともいう。葉を三枚つけるクローバーに四葉が稀に現れるのは、成長点に傷がついたからだ、という説もある。

 サナエは、四葉のクローバーの発生が遺伝子の突然変異によるのか、それとも成長点の損傷による奇形なのか、またはその両方が関わっているのか、それを明らかにしようとしていた。今回は、成長点を損傷させると組織の中で何が起こるのかを確かめる実験の第一段階だ。用意しているクローバーの芽は千個体。すぐに成長してしまうので、この作業は時間との闘いだった。


 左手にピンセットでつまんだ芽を、右手には細い針を持って、分裂組織をめがけて軽く突く。あまり強く突くと貫通してしまったり分裂組織以外の部分にも傷がついたりして枯れてしまう。傷をつけた部分にはマーカーで印をつけて、次の芽の処理に移る。集中力と繊細さが求められる気の遠くなるような作業を繰り返す。

 不意にコウタのことが頭に浮かんだ。心配そうにサナエを見下ろす目、納得がいかないと左の眉毛が下がる癖。出会った時は、まさか同棲をするなんて考えもしなかった。

 毎日顔を合わせているのに、どこか空気みたいにフワフワとしてとらえどころのないところが、微笑ましくも疎ましくも感じてしまう。

「あ、いけない。失敗」

 針を強く刺しすぎた。芽の部分は細くて柔らかく、力加減を誤るとすぐに針が貫通してしまう。失敗した芽はピンセットで培地から抜き取り、別の培地に移す。ぼんやりしているとすぐ失敗してしまう。集中、集中だ。


「飯塚」カズヤが白衣姿で近づいてきた。サナエは顔を上げた。「新嶋が理研で単離してきたタンパク質の試料どこにあるか知ってる? あいつに四階に置いてあると言われたものの、どこにあるのか分からなくて」

「こないだの試料? どこだろ」サナエはいったん手を止めて立ち上がり、あたりを見渡す。カオルが実験試料やカオル専用の器具をしまっている場所ならば、実験室の右奥にあるドラフト脇の棚だった。

「あそこの棚じゃなくて?」サナエが指を差す。

「ああ、そこは見たよ。あと、恒温恒湿器も見たけど、それっぽいものは置いてないんだよな」


「ていうか、そのタンパク質をどうするって」

「いや、タンパク質の試料と一緒にこのプレパラートを保管しときたいらしい」カズヤは両手でプラスチック製のケースを持っていた。中にはプレパラートがびっしりと入っていた。

「そっか」どこにしまったのだろう。サナエはしばらく考えて、ある場所の光景が頭に浮かんだ。「あっちじゃない? 機器分析室の方」サナエが廊下の向こう側を指差した。

「おお、あっちか。行ってみるか」カズヤが実験室を出ていこうとする。

「あ、待って。私も行く」


 二人で機器分析室に向かう。廊下の反対側だが、フロアの端にあるため少し離れている。

「熱心だね、今日なんかほとんど自分の研究してないでしょ?」意地悪く言った。白衣のポケットに入れた掌をギュッと強く握る。どこかに力を入れていないと、またにやけそうになる。一昨日くらいから、カズヤはカオルのサポートに回ることが多くなっていた。カズヤはカズヤなりのやり方でカオルを助けようと必死なのだろう。

「お前がそれを言うか」カズヤは心外だという顔を向けてきたが、すぐに手に抱えているプレパラートに視線を移した。「あいつ、これ全部見たのかな。どんだけ追い込まれてんだよ」


「それって、今朝実験室から持ってきたやつなの?」朝サナエと入れ違いに研究室を出て行ったカズヤを思い出した。

「ああ。全部じゃないけどな。昨日の夜からずっと見てるみたいだけど、すごい集中力だよ」

「それは確かにすごいかも。五百枚くらいあるでしょ、それ」カズヤの抱えるケースを差す。カズヤが抱えるケースは五つで、中にはそれぞれ百枚のプレパラートが入るようになっていた。生物学科の学生はだいだい同じ試料ケースを使っているから、おおよその見当がつく。カオルが言っていたペースですべてを観察しても、八時間以上かかる計算だ。確かに、カオルは猛烈な速度でデータを積み上げている。

「さっき、休憩に行ってたんだろ? なんか言ってたか?」

「ううん。顕微鏡が目にくっつきそうだけど、学会発表まで頑張るってさ」

「そうか。……前向きなんだな」

「うん、カオルはいつだって前しか向いてない」まじめで不器用な、大切な友人だ。


 機器分析室の重い扉を開け、中に入った。部屋は少し肌寒い。精密機械は気温の変化と湿度に弱く、そして分析結果にも影響を与えてしまう可能性もあるので、温度と湿度は年中一定に保たれていた。

「確か、カオルの荷物は」サナエは言いながら、視線を動かし、記憶の中の景色を呼び起こす。電子顕微鏡の左側にある棚に目が留まった。「あそこだよ、たぶんだけど」

「SEMの横? あんなところに保管してるのか」

「うん、ここなら温度変化がないからって、大事な試料はここに置かせてもらってるってカオル言ってた」実験室の恒温恒湿器は他の学生の試料と一緒に保管することになり、試料に異物が混入することをカオルは気にしていた。プレパラートならそのような心配はいらないはずだから、恐らく自分の試料を一カ所にまとめておきたいだけなのだろう。

「俺もここに置かせてもらおうかな」

「あれ、和田君ってそもそもそんな試料持ってたっけ?」

「これからだよ、これから。そう簡単にあれは見つけられないんだよ」


 カズヤは植物の花形成を制御する謎の物質「フロリゲン」を研究していた。数年前に堀越と京都の大学との共同研究によって世界で初めて遺伝子が特定され、フロリゲン自体の存在は証明されていた。FT遺伝子と呼ばれる遺伝子から生成されるFTタンパク質がフロリゲンの正体であると考えられていた。

「あれは先生とか他の大学の人との共同研究でしょ? どんな感じなの?」

「今は、FTタンパク質の構造解析と花形成のメカニズムを調べてるところ。でも、どうやらFTタンパク質単独だと働かないみたいで」

「あれで決まりだって、このあいだ先生言ってたのに」カズヤのゼミで、堀越がそういっていたのを思い出した。自分が二十世紀最大の謎を解明したと得意げに語っていた。

「よくよく調べたらな、どうもそうらしい。今は遺伝子の絞り込みをやっているところだよ。俺はタンパク質の構造解析担当だからな、物質が特定できないことには、先にはなかなか進めないよ」

「ふーん。じゃあ今は暇なわけ?」

「暇って言うなよ、週に二日は京都に行って遺伝子分離したり、色々やってんだよ。知ってるだろ」

 かりかりしたり、落ち込んだり、心配したり、カズヤの感情の変化は目まぐるしい。

「はいはい。知ってるから、早くそれを棚に戻しておいでよ」

 カズヤはまだ何か言いたげだったが、素直にプレパラートを抱えたまま棚に向かった。

「開けるの手伝ってくれよ」カズヤの両手はケースで塞がっているのを忘れていた。

「ああ、ごめんごめん」サナエも棚に近づく。人の背丈ほどある棚だ。上下に横開きの扉がついている。ガラスの向こう側を覗く。上の段にそれらしいガラスの容器が見えた。

「多分あれ」サナエが扉を開ける。ガラス容器が十個プラスチックのケースに収まっている。見覚えのある文字が容器に書いてあった。間違いない、カオルのサンプルだ。

「この辺に置いておけばいいか」容器の左側に空いたスペースがあった。カズヤはプレパラートのケースを空いたスペースに置いた。手を戻す時、カズヤの手がガラス容器の入ったケースに当たった。

「あ」サナエが声を上げるよりも早く、タンパク質の入ったガラス容器が落ちる。ケースからガラス容器が幾つかこぼれ、床にぶつかる。パリッと乾いた音が響いた。

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