第12話 思慮と試料
カズヤに連れてこられて機器分析室に入ってきたカオルは、しばし呆然としていた。そして、立ち尽くすサナエを見て、ああとため息をついた。棚の近くまでやってくると、その場に座り込んで床に散らばったガラス片をつまんでは放す動作を繰り返した。
「これはまた派手にやってくれちゃって。木端微塵だ」ガラス片に混ざったタンパク質の結晶を探しているのかもしれなかった。しかし、密閉容器から出てしまっては、空気中の水分を吸収するばかりではなく、大気や床面に存在する様々な有機物が混ざってしまって、もう試料としての価値はなくなる。
「さすがに、これじゃあもう使えないか」指先に着いた結晶をじっと見つめている。落胆した表情をしている。カズヤはそんなカオルの顔から眼を逸らし、床のガラス片をじっと見ていた。
「ごめん、俺の不注意で、大切なサンプルを」
「また抽出すれば大丈夫だよ」カオルはラベルの貼られた破片をつまみ上げて、サンプルの番号を確認した。「それに、この三つは、多分はずれだから」明るい声でカオルは言った。
「さ、早く掃除しよ。和田君は、罰としてほうきとちりとり持ってきて」
サナエに言われるがまま、カズヤは機器分析室を出た。
「木端微塵って、人生で初めて言った」カオルは座り込んだまま、顔を伏せている。「こいつはなかなか厳しい」
「カオル、大丈夫?」
「うーん、大丈夫とは言えないかも。でも、和田君を責めないであげて。私が和田君に甘えてたのがいけないんだから」
「私もごめん、一緒にいたのに、何にもできなかった」
「これ、本当は本命なんだ」カオルは割れたガラス容器に貼ってあったラベルを指でつまみ上げた。
「え、マジ?」
「うん。このタンパク質を正常な細胞に導入したら、突然変異と同じになったから」
「そっか」
「うん。だから、どうせもっと合成しなきゃいけないから、いいんだけどね」
それでもカオルは泣きそうな声をしている。「どうしたんだろ、なんでこんなに悲しいんだろ」
「カオル、カオル」サナエはカオルの名前を呼ぶことくらいしか思いつかなかった。
「もっとしゃんとしなきゃなあ」
カオルはカズヤを責めなかった。カズヤがほうきとちりとりを持ってくると、カオルは割れたガラス瓶をほうきで掃き始めた。カチカチとガラス片同士がぶつかる音がした。カオルの分身のような分析試料を自ら片付けるのは、いったいどういう気持ちだろうかとサナエは思った。タンパク質の合成は理化学研究所へ行かないとできないし、ある程度の量を合成するにはそれなりの時間がかかる。一朝一夕というわけにはいかない。学会を間近に控えた今、試料の喪失は研究活動の致命的な停滞に繋がる。それでもなお、ガラス容器を割ったカズヤを責めないばかりか、カズヤの前では試料の喪失を問題にしていないような素振りをしている。
「新嶋、俺がやるよ」カズヤが手を伸ばす。
「じゃあ、和田君はちりとりをお願い」カオルはそう言って笑った。
二人で散らばったガラスや試料を片付ける様子を横目に見ながら、サナエは落ちたプラスチックに入ったままのガラス容器にひびが入っていないか確かめていた。タンパク質の結晶は半透明で、蛍光灯の光を反射している。
「ケースの中のやつは無事みたいだよ」サナエも努めて明るい声を出した。カオルの気持ちを大切にしてあげたいと思った。カズヤのことを責めることもできず、それでも前に進もうとしているカオルのひたむきさに応えてあげたいと思った。
「よかった。下の棚にしまっておこう」カオルが答えた。
「うん」
ガラス片を取り除き、雑巾で水拭きをして、ようやく事態は落ち着いた。最後にガラス容器の入ったプラスチックを棚にしまった。
「よし、終わった。サナエありがとね。手伝ってくれて。和田君も」
「いや、落としたの俺だし。本当にごめん」
「しょうがないって。ちゃんと言いに来てくれてありがとう。さて、研究室に戻りますか」
カオルの号令で、三人は機器分析室を出た。
「あ、俺と飯塚は実験室に行くよ」カズヤが言った。「悪かったな」
「うん。もう大丈夫だって。じゃあ、またあとでね」
カオルは一人エレベーターに向かった。カズヤとサナエは、その後ろ姿を黙って見送るしかなかった。
「和田君、なんでカオルと研究室戻らなかったのよ」カオルがエレベーターに乗りこんだのを確認して、サナエは隣のカズヤの脇を小突いた。
「気まずくて一緒になんかいれないよ」
「だからって、私をダシにすることないでしょう」
「いや、ごめん」真剣に謝るカズヤに、それ以上かける言葉をサナエは知らない。サナエはふうっとため息をついた。
「ごめん、そういうつもりじゃなかったの」
「いいんだ。悪かった。実験中に巻き込んでごめんな」
「和田君、あんまり自分を責めないでね。カオル、確かにつらそうだったけど、でも、カオルはきっと、今も前しか向いてないし」
「ありがとうな。飯塚はすごいな」
「ちょっと、もうやめよう。ここでうじうじしててもしょうがないし」
サナエはカズヤの背中を勢いよくばんばんと叩いた。
「シャキッとしないと、カオルに置いてかれるよ」
カズヤの表情は冴えないままだった。サナエには、これ以上どうすればいいのか分からなかった。カオルがカズヤを責めなかった分、カズヤは自分自身を責めていた。自分の過ちと正面から向き合うつらさをサナエは想像した。自分には、それがずっとできていない気がした。
「今日、お店おいでよ。マリコさんには私から言っとくからさ」カズヤの腕を思わず掴んだ。カズヤは小さく頷く。
「じゃあね、またあとで」サナエはそう言うと、実験室に戻った。結局、自分もカズヤから逃げているだけだ。友人をどうにかしたいと思っても、自分だけの力ではどうすることもできない。こんな時、母なら何と声をかけてくれるだろうか。しかし、こういう時に限って、サナエは母の姿を見つけることができなかった。
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