第10話 宅配便と顕微鏡

「飯塚さん、飯塚さん。すまん、続けていいから」

 博士課程の木村の声で、サナエの意識は現実に引き戻された。気づけば既に堀越と青木の議論は終わっていた。カオルがげんなりとした顔を向け、オーバーに肩をすくめている。その仕草を見て少し安心した。胸の中にあったわだかまりはまだ黒く渦を巻いていたが、幾分小さくなった気がした。

「あ、はい。あの、遺伝子制御のところは今回間に合わなかったので、次回までに検証しておきます」サナエはそう言って、自分の発表に戻った。

 あとから聞いた話によれば、堀越と青木は互いに一歩も引かず、議論は果てることなく続いた。しびれを切らした木村が話に割って入り、どうにかその場を収めたという。堀越がなぜ青木の発言を退けるようなことを言ったのか、誰にも分からなかったが、「なんとなく、負けるのが悔しかったのだろう」というのが皆で話していた時の結論だった。負けず嫌いのカタシが出た、と木村はぼやいていた。



 中島は携帯電話を見ながら住所を記入していた。

「相田君は静岡だったっけ。そういえば、このあいだ貰ったお茶がまだ残ってるような」

 相田の実家は静岡のお茶農家で、帰省した時の土産はいつも実家のお茶だった。堀越と研究室に一袋ずつ。しかし、サナエやカオルにはあまり日本茶を飲む習慣がなかった。研究室でお茶を積極的に飲むのは中島くらいだ。そのような状況では飲みきれるはずもなく、中島がこっそりと自宅にお茶っ葉を持ち帰っているのをサナエは知っていた。

「早く飲まないと傷んでしまいますよ。あとで、みんなで飲みましょう」

「うん。それにしてもお茶農家も大変そうだよね」

「ええ。霜は大敵だし、収穫も、機械があるとはいえだいたいは手作業みたいですし」

「それでさ、収穫してから加工するのも農家の人がやるんだよね。前に相田君が言ってたよ」サナエは、以前相田が茶摘みの時期は実家に帰って手伝いをしているのだと言っていたのを思い出していた。収穫から商品の出荷までは時間との闘いだ、とも。


「相田君もいずれはお茶農家を継ぐのかな」カオルが言った。

「どうでしょうね。普通に就職しましたけど、考えているかもしれないですね」

 相田は静岡の地方銀行に就職することが決まっていた。当初からUターン就職をするつもりだったらしく、東京にある会社はほとんど受けていなかった。

「銀行員でお茶農家」サナエが呟く。「相田君ならどっちもうまくやるんだろうな」研究室のみんながそう思っていた。相田なら、それこそこの国の農業を救うくらいのことをやってしまうのではないか、地方から農業政策に革命を起こすのではないか、と密かに期待していた。

 四年生で就職してしまうことは、本人や家庭の事情があるからもちろん止むを得ないが、研究室にとってはマイナスだ。一年程度ではどうしても成果は出にくいし、卒業研究がそのままお蔵入りしてしまうことも少なくない。相田のように、堀越に引き継ぐ形になったとはいえ、世の中に発表できる成果を出して卒業する例は稀だった。


「よし、書けた。それじゃあ僕、これ出してきますね」中島は段ボール箱を抱えた。

「コンビニ? 俺も付き合うよ」カズヤが言い、二人で研究室を出ていった。

 カオルは二人を見送ると、また顕微鏡に向き直った。カオルの観察しているプレパラートには、西洋タンポポの花が裁断された状態で封入されていた。花はあらかじめ特殊な薬品で染色されていた。ある特定のタンパク質を特定の色に染めるもので、遺伝子突然変異によってそのタンパク質が生成されていれば、一目でわかるようになっている。しかし問題は、その遺伝子突然変異の発生する頻度があまり高くはないということだ。そして、突然変異によってどのタンパク質が生成されるのかを特定するのがまた難しい。カオルがこれまでに作成したプレパラートは染色液の違うものもすべて数えると五千枚を超えているが、突然変異が認められたものはほとんどない。突然変異によってどのタンパク質が発現するのか、また、突然変異によって発現するタンパク質がどのような機能・性質をもち、タンポポの花の形態にどのような変化をもたらすのかを特定しなくては、成果とはいえないのだ。染色されたプレパラートを見つけるだけでも大変なのに、まだまだやらなくてはならないことは山積みなのである。


 カオルの背中を見ていると、サナエはカオルの研究の進捗が気になってくる。学会まで残り一ヶ月なのに、果たして間に合うのか、カズヤの話を聞いてからこれまで以上に強く意識をしてしまう。何か自分にできることはないか、そう考えてしまう。カズヤに色々と話をしたくせに、何もしていない自分がいることに、うしろめたさを感じてしまう。

「カオル、あのさ、今どんな感じ?」

「今? すごい寄り目」振り向きながら、瞳を顔の中心に寄せていた。カオルは時折冗談で変顔をする。せっかくの美人が台無しだと何度言っても聞かない。だから、サナエは顔については触れない。下手をすればこちらが火傷を負ってしまう。

「そういうんじゃなくて。ターゲットは特定できそうなの?」カオルもその扱いになれたのか、何事もなかったかのように自然な状態に戻る。カオルの暢気な態度に、感情が乱れそうだ。悠長なことを言っている場合ではないのではないのか、と。


「うん、昨日ね、理研で分析して、遺伝子とタンパク質は特定できたんだ」カオルの口から思いがけない言葉が出てきた。

「え、そうなの? やったじゃん」サナエは心からそう思った。自分のことのように嬉しかった。遺伝子とタンパク質が特定できれば、あとはどうにかなるのではないか。性急に怒らずに良かったと胸を撫で下ろした。

「うん。ようやくね。これで卒業は出来そう」カオルが笑顔を見せた。「残ってるのは発生頻度くらいだから、ひたすら観察するのみ」カオルが朝から必死に観察していたのはそれだったのだ。すでに見つけていた、その変異の痕跡を探していたのだ。


「残りはどれくらいなの?」遺伝子突然変異の発生頻度は、突然変異によって発現する形質の割合から求めることができる。カオルのように、遺伝子突然変異によって生成されるタンパク質を標的にすることで、多くの個体を速やかに選別することができる。

「二百枚くらいだよ。一つに一分かかるとして、二百分。三時間くらいかな。だから、そんなに慌てることもないんだけどね。明日までに終わればいいんだけど」

「三時間か、あと少しじゃん」五千枚が二百枚になったのだから、残りは四パーセントだ。

「うん。そろそろスライドを準備しようと思っているんだけど、相談に乗ってくんない?」

「うん。了解。私、実験室で作業あるから、そのあとでいい?」

「うん、オッケー。いってら」

 サナエは一安心した。カズヤをけしかけた手前、どうしようかと思っていた自分が恥ずかしかった。カズヤに会ったら、教えてあげよう。カオルはカオルのペースで、しっかり前に進んでいることを。

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