第9話 代謝と朝食
カズヤは今頃何をしているのだろう。きっと、飼い主を待っている柴犬のまま、実験室と研究室を行き来しているのだろう。サナエは、カオルの顔を見ながらそんなことを考えていた。
「どうしたのサナエ。ぼうっとしちゃって」
「ううん、何でもない。そろそろ出よう。実験室、早くしないと場所がなくなっちゃう」
「そうだね。私はまた顕微鏡とにらめっこか」カオルは腕を上に伸ばして、またくうっと声を漏らしている。
二人でカフェを出ると、一段と暖かくなったような気がした。コートのボタンを留めようとして、やめた。春はすぐそこまで来ているのだ。季節の移ろいを感じ、少しの変化にも敏感なのは、サナエが内陸の街で育ったからだろうか。信州の春の訪れは遅く、そしてすぐに暑い夏がやってくる。季節の変化が急だから、まるで夏と冬しかないようだった。夏の青と冬の白。表と裏の二色だけの世界で育ったサナエは、春らしい春が待ち遠しかった。
研究室に戻ると、カズヤと中島が何やら作業をしていた。
「何やってるの、二人とも」
「あ、ああ、飯塚と新嶋。早かったな」カズヤが振り返り、言った。
「相田の荷物ですよ。あいつ私物残したまま、もうこっちを引き払って実家に帰ったみたいで、机の上のガラクタをまとめて実家に送ってくれってさっき連絡があったものですから」
「そっか。そういえば、得体のしれないぬいぐるみとか、なぞのピンバッチとか、色々あったよね」サナエは、研究以外のグッズであふれていた相田の机を思い出した。決して汚いわけではなく、むしろ整理整頓されていたのだが、それがなおさら異物を浮き出させていた。
「相田君ってもう来ないつもりなのかな」カオルが言った。
「ええ、たぶん。卒論のデータは一通り僕が預かりました。テーマも近いですから」
相田は植物細胞内の代謝に関わるタンパク質の解析といくつかの反応機構を研究していた。卒業研究はともすればOBやOGの卒業研究の焼き直しが多いのだが、相田はそれをベースにしつつ、一つの反応によって生成される酵素が次の反応を促すというように、酵素反応が主体と思われていた反応系が、実はある遺伝子の発現によって、関連する遺伝子の発現を促進するタンパク質が生成されるというように、遺伝子主体であったことを示したのだ。堀越さえ予想していなかった結果に、研究室が沸き立ったのを覚えている。堀越が朝早くから来ているのも、相田に代わって論文にまとめる作業をしているためだ。中島は光合成の研究をする傍ら、堀越と共に相田の成果を論文にまとめる作業もしている。
「中島君も大変だね。先生と青木さんと、二人の相手を別々にしているんだもんね」サナエは中島の献身的な姿勢にもはや感動さえ覚えている。中島は相田と仲が良かったが、まさか研究を引き継ぐことになるとは思わなかったに違いない。
「いえ、楽しいですよ。なんというか、師弟なのにまったくタイプが違いますから。話していると分かります。あの二人、結構お互いを意識してますし。色々と勉強になります」
「ゼミの時にいつの間にかあの二人が学生をほったらかして議論していることもしょっちゅうだし。仲が良いんだか悪いんだか」サナエは以前自分のゼミで、サナエの考察の方向性や精度について堀越と青木が議論を始めたことを思い出していた。
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「飯塚さんは、遺伝子の発現制御について、もう少し詳細に分析する必要があるんじゃないのかい」サナエが実験結果を一通り説明したあとの質疑の時間に、青木が発言した。遺伝子は、基本的にはある特定のタンパク質を生成する設計図だが、より大きな、組織や器官の形成にも深く関わっている。たとえば、花を咲かせる植物では、遺伝子Aが単独で発現するとガクを、遺伝子Aと遺伝子Bの両方では花弁を、遺伝子Bと遺伝子Cではおしべを、遺伝子Cが単独で発現するとめしべを、それぞれ形成する。花の発生を三つの遺伝子の相互作用によって説明するもので、これをABCモデルという。この場合、遺伝子はいわば一連の器官の発生を制御する指揮者のような役割を担っている。これらの遺伝子のバランスが崩れると、花弁ができるはずの場所におしべが形成されるなどの突然変異を引き起こすことになる。
サナエの研究は直接花の形成に関わっているわけではないが、遺伝子の連鎖的な発現について明確にする必要があるという、青木の指摘だった。本来ならばそこまで分析をしなければ先の議論に進むことができないのだが、手が回らなかった。遺伝子の相互作用には触れずに強行突破するつもりでいた。痛いところを突かれたと思った。堀越には事前に話をしていて、今回はそれでいこうと言われていたが、分析に至らなかったことを素直に認めようと口を開こうとした。その時、なぜか堀越が青木に反撃をした。
「もちろんABCモデルと類似する遺伝子制御機構は重要だが、この場合は、むしろ組織を修復するプロセスの方が重要だと思う。その過程で働く酵素の挙動をより詳細に述べなければ、考察としては難しいかもしれない」
堀越は遺伝子の働きだけなく、タンパク質の働きについても考える必要があるという。その指摘については、堀越に研究の相談をした時に既に指摘されていた事柄であり、次に話す内容に含まれていた。明らかに、堀越は青木の指摘を退ける発言をした。
「先生、葉の形成プロセスにもホメオボックス遺伝子と似た制御機構が働いているのだから、そこを議論するのは当然のことですよ」
ホメオボックス遺伝子は、動物の発生段階における各器官の発現を制御する遺伝子群の名称で、例えば昆虫の脚がどこから生えてくるのかをコントロールする、言わば司令塔だ。機能的にはABCモデルに近い。
「青木君の指摘はもちろん重要だ。ただ、私が言いたいのは、ABCモデルによる制御だけでは説明のつかない現象を飯塚さんが見つけようとしているということだ」
「だから、その遺伝子制御の部分を十分に掘り下げないと、その先の議論が」
それから、二人の議論は三十分以上続いた。サナエは話し始めるタイミングを完全に失い、次第に白熱する二人のやり取りをぼんやりと聞いていた。どちらの言っていることも間違っていない。サナエの研究にとって、どちらの側面も欠くことのできない、いわば議論の両輪だ。
置いてきぼりをくらい、サナエの頭の中では、昔好きだった歌が流れ始めた。中学の時、ずっと聞いていた二人組のロック歌手の曲だ。バラードだった。導入部分のギターがゆったりとメロディーを奏で、キーボードの旋律がそれに続く。歌い出しからサビの部分まで、徐々に階段を上がるように、頂点を目指して昇りつめていく。好きな曲だった。しかし、もうずっと聴いていなかった。
黒くどろどろとした液体が記憶の海の底から胸の中に入り込んできた。それはだんだんと固まって母の影に重なった。油断をしていた。昼間にその姿を想うのは、夜よりもつらい。母の影がサナエに話しかけてくる。試験のこと、春からの高校生活のこと。これはあの日の朝の記憶だ。母に続いて浮かんだのは、当時実家で飼っていたアメリカン・ショートヘアのミイ。毎朝、ダイニングに向かうサナエのあとを追いかけて朝食をねだってくる。テーブルについて朝食を食べる場面が鮮明に蘇り、心臓が早く脈打つのを感じた。サナエは声を上げそうになった。
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