第8話 カズヤと心配
店の正面はガラス張りになっていて店内が見通せる。大学同様、午前中のカフェは空いていた。
二人はそろってカフェオレを注文した。
「やっぱりここは落ち着くなあ」サナエが店内を見渡しながら言った。カフェはあまり広くはなかった。四人掛けのテーブル席が一つとソファー席が二つ、そしてカウンター席が四つであるから、十人も入れば満員だ。二人はソファー席がお気に入りだった。ソファーに合わせ、テーブルも低い。ゆったりと時間を過ごすにはちょうどいい場所だった。店内には洋楽の耳触りのいいメロディーが流れていた。あまり洋楽を聞かないサナエでも知っているくらい有名な、イギリスのロックバンドの歌だった。
「サナエ、『メアリー』のイベントって今度の土曜日だっけ?」
「うん。あと少しなんだよね。いよいよ、ダイスケさんも切羽詰ってる感じで。今回はあんまり準備手伝ってないんだけどね。さすがに研究で忙しいし」サナエがアルバイトをしている「メアリーズ・カフェ」では毎月一回イベントが催されていた。ジャズの演奏会や絵画の個展など催しは様々だったが、サナエがアルバイトを始めてから、一度も途切れることなく続いていた。イベントを取り仕切るダイスケは閉店後も遅くまで店に残り、いつも準備に余念がなかった。
「そっか。今回はピアノの弾き語りだよね。私も行こうかな、このままだと顕微鏡と目がくっつきそう」両手で輪を作り、レンズを覗く真似をした。
「そうしなって。私もその日はバイト入ってるから、サービスするよ」
「お、ありがたや」両手を摺合せ、拝むようにカオルは言った。イベントはSNSを通じて毎回告知がなされ、当日は立ち見が出るほどの賑わいになる。回を重ねるごとに規模が大きくなっているような気がする。前回は比較的有名なロックバンドのコンサートで、間に芸能事務所が入り、チケットの販売まですることになった。コウタがそのバンドのファンだったので、その日は二人でチケットを買って、客として参加した。
今回はどういう内容になるのか、サナエは楽しみ半分、不安半分といったところだった。
「カフェオレお二つお持ちしました」店員がテーブルにカップを置いた。このお店はカフェオレ専用の容器を使っている。調理で使うボールを少し小さくしたサイズで、カップというよりも形状はどんぶりに近い。なみなみと注がれたカフェオレのふわりとした香りが漂う。二人はカップを両手で抱えるように持って、ゆっくりと飲んだ。
「そうだ、コウタ君とはうまくいってる?」
「うん、順調よ、順調」サナエは笑顔を作った。しかし、頭の中では昨日の夜のことを考えていた。コウタには母のことを知られたくなかったが、その一方で、隠していることに罪悪感を覚えていた。このままでいいのかと、葛藤をしている自分がいる。
「なんだ、つまらない」カオルは唇を突き出したかと思えば相好を崩し、芝居がかった仕草で肩をすくめた。カオルは現在交際相手がいなかった。学部を卒業する前に別れたと聞いていたから、一年近くになる。
「つまらないって。すいませんね、幸せなもので」意趣返しである。
「だってさー、年下の男捕まえておいて、お姉さん気取りなわけでしょ?」
「捕まえてだなんて、人聞きの悪い」
「まあそれは冗談だけどさ、充実してる感じが」物欲しそうな目でサナエを見る。
サナエは笑った。「カオルはいないの、好きな人とか」話を逸らした。今、コウタのことを詮索されるのは正直つらかった。
「いないよ。っていうか、今のこの状況で出会いなんかないって。合コンとかさ、そういうのじゃないと新しい出会いなんてなかなか」
「それはそっか」確かに、研究室に入ってからというもの、新しく知り合う人は他大学の学生だったり研究所の人だったり、どちらかというと仕事上の付き合いのような感覚で、プライベートで一緒に行動を共にするような人と出会うことはなかなかないのかもしれない。「案外、身近にいい人いるかもしれないし。それか、うちのカフェで声かけてみるとか」
「身近に? いないいない」顔の前で手を振りながら言う。「声をかけるのも無理。どこかの誰かさんと違って、私はシャイなのよ」サナエとコウタとの出会いを知るカオルは皮肉交じりに言った。「まあ、とりあえず今は実験と学会発表に集中するとして、一息ついたら飲み会セッティングしてよね」
言い終わると、カオルはカフェオレを一口飲んだ。サナエもつられてカップを手に取る。大きいカップの重さが腕に伝わる。少し冷めたカフェオレを飲みながら、サナエはカズヤのことを考えていた。
**
カズヤから相談を持ちかけられたのは数日前のことだった。
「飯塚、あとでちょっと、いいか」カズヤがそう言った時、サナエはなんとなく彼の言おうとしていることが分かった。実験結果を整理しているところだったが、それもすぐに終わりそうだった。
「うん。いいよ」
「じゃあ、三時に『セブンス・カフェ』で」
「オッケー」サナエは軽い言い方をするように努めた。カズヤがカオルのことを想っていることはなんとなく分かっていた。こういうものは外野にいれば見えてくるものだ。ピッチャーであるカズヤがどのようなボールを投げようとしているのか、サナエは興味があった。にやけそうになる頬を、内側から噛んで堪えた。
カフェに行くと、カズヤは既に席についていた。店の一番奥、カオルといつも座っている席だった。カオルは終日外部の研究施設に行くということで不在だ。鉢合せをすることもない。
「悪い。急に呼び出したりして」サナエに気づくと、カズヤは片手を上げ、そして座るように促した。
「あ、コーヒーでいいか?」
「うん。ありがと」
飲み物が来るまでの間、カズヤは当たり障りのない話題を振ってきた。まだ寒いな、であるとか、今朝大学に来る途中の電車の中で、変な人を見たとか、サナエはそんな話を聞きながら、正確には聞くふりをして、ずっと頬を内側から噛んでいた。
何を話すつもりなのだろうか。カオルに彼氏がいる、いないであるとか、恐らくそんなことを聞きたいのだろう。どうしようかと、サナエは考えた。人の恋路を邪魔するとか、逆に応援をするとか、そういうことをするつもりは毛頭ないけれども、カズヤの口から本人の気持ちを聞いてしまって、次にカオルと会う時にこれまでの自分でいられるだろうか。自分の母の死を知らないコウタがこれまで通り接してくれるのか、それをずっと考えているサナエは、逆の立場に立たされていることに気づいた。普段通りと意識すればするほど普通ではなくなり、カオルに猜疑心を抱かれることにはならないだろうか。
コーヒーが運ばれると、カズヤは砂糖とミルクを入れて、せわしなくスプーンでかき混ぜた。サナエはそのままブラックで一口飲んだ。熱さが喉を刺激する。すぐに喉の渇きを覚えた。どうやらサナエにまで緊張が伝わっているようだった。
「あのさ、新嶋は」カズヤがいよいよ口を開いた。「研究は順調なのか? あと一ヶ月で学会発表なのに、毎日遅くまで実験してて、かなりテンパってるから、俺心配でさ」
「う、うん。最近は、ちゃんと結果でてるし、考察もまとまってきてるって言ってたから、たぶん大丈夫じゃない? ていうか和田君、そんなこと聞くためにわざわざ私を呼び出したの?」サナエは安心したような、がっかりしたような気持ちになった。いずれにしても肩透かしをくらってしまった。これではサナエの独り相撲ではないか。肩透かしでサナエの負けだ。
「そんなことって、飯塚は心配じゃないのかよ」カズヤは大きな声を出して抗議をした。
「心配してるよ、もちろん」カズヤの勢いに圧倒される。いったいどうしたのだろう。それでもカズヤがカオルのことを真剣に心配していることははっきりと分かった。カオルを心配する気持ちはサナエも負けていないつもりだが、カズヤにはどのように思われているのだろう。「そうじゃなくてさ、様子くらい本人に聞けばいいじゃない」学部の頃から仲良くしていたのだから、何を遠慮することがあるのだろう。
「聞けないよ。仲がいいからこそ聞けないこともあるんだよ」カズヤは顔を伏せ、小さい声で言った。「でも、なんか俺にできることないかって、ずっと考えて、でもどうすればいいのか、分からなくて」
「支えになってあげなよ。私じゃあ、研究テーマも若干かぶってるし。実験の手伝いでもサンプルの整理でもなんでもいいと思うけど、少しでも声をかけてあげたら、カオルもきっと喜ぶと思うよ。和田君もそうすれば自然とカオルの様子分かるだろうし」
「迷惑、じゃないのか。お節介だとか、思われたら気まずいじゃんか」
「大丈夫だって。カオルは、ほら単純なところあるでしょ。素直に受け取ってくれるよ。そうすれば」カオルもきっと、その気持ちに気づいてくれると思った。カオルを心配する気持ち、助けてあげたいと願う思いは、必ずカオルの心に届くはずだ。しかし、それをカズヤに言うことはない。「カオルの研究もうまくいくって」
「だと、いいんだけどな。今日だって、理化学研究所に籠って分析してんだろ。あんなハイペースでやってて、やっぱり心配だ」
「仲良しだよね、ふたりは」
「なんだよ、それ」カズヤは鼻の下を掻いた。そんな仕草が子供っぽくて、サナエはまた頬の内側を噛んだ。
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