第4話 研究室とコーヒー

 デートの翌日から、サナエはタンブラーを毎日のように持ち歩き、カフェでコーヒーを入れてもらうのが習慣になっていた。コーヒーの温もりが容器を通して掌に伝わる。サナエはタンブラーを片手に、明治通りを歩いた。

 明治通りから早稲田通りへ入り、しばらく歩くと大学の門が見えてきた。

 三月のキャンパスは閑散としていた。正門前の桜並木は枝ばかりが目立ち、イチョウの木々も新緑にはほど遠く、春の訪れを感じることはできない。春休みの只中であるし、こうした時期に大学にいるのは、近所の住民か、勉強の虫か、研究者くらいだ。


 授業期間中、特にゴールデンウィーク前は大学のどの場所も学生でごった返している。しかし、気温の上昇とともにだんだんとキャンパス内の人口密度は減っていき、夏休みが過ぎる頃にはずいぶんと落ち着く。毎年学生は少しずつ入れ替わっているはずなのだが、人の流れはいつも変わらない。

 学部時代のサナエは、どちらかといえば真面目に大学に通う方だった。父から「学生の本分は」と古くさいことを言われたこともあるが、純粋に科学の話が好きだったし、その合間にある一般教養の授業も高校までの国語や社会の授業とは異なり、話を聞いているだけで面白かった。高校の授業もこれくらい面白ければ、もっと勉強を頑張ったのにと思っていた。

 キャンパスは現在立て替えラッシュで、次々と古い建物が取り壊され、代わりにガラス張りの近代的なビルがそびえ立つようになった。サナエの所属する「植物生理学研究室」もそんなビル、8号館の8階にある。

 東を向いた正面玄関から入るとそこは2階部分まで吹き抜けになっている。開放的なエントランスのすぐ奥にエスカレーターがある。何故かエスカレーターは昇りしかない。そんなはずはないと、学部生の時に友達と隅々まで見て回ったこともあった。しかしついに降りのエスカレーターを見つけることはできなかった。


 サナエはエスカレーターの前を通り過ぎ、エレベーターへと向かう。エレベーターは正面から入った場合一番奥に位置していた。横に並んだ二台のうち、ちょうど手前の方が一階で停止していた。授業期間中の朝や昼休み前後はエレベーターがなかなかやって来ず、高層階の研究室を使用している学生や教官は長く待たされることになるのだが、さすがは春休みである。

 階数ボタンを押すと、扉がゆっくりと閉じた。扉の脇にある液晶画面に表示される階数は流れるようにその数を増していった。途中どの階にも停まることなく八階に到着した。

 エレベーターを降りると目の前が教授である堀越の部屋となっており、学生はその左側の部屋で研究を行っている。ドアの脇には小さなホワイトボードがあり、そこには小さな磁石にそれぞれ所属する学生の名前が書いてある。サナエは自分の磁石を「在室」と書かれた場所に動かした。既に磁石が二つ並んでいる。同学年のカオルとカズヤだった。


「和田君、実験室の棚から私のプレパラート持ってきて。二ケース」

 ドアを開けるやいなや、カオルの少し低く鼻にかかる声がした。部屋の奥で、顕微鏡とにらめっこをしているのがカオルだ。そして、そのカオルのそばで、腰に手を当てて反抗しているのがカズヤだ。

「えぇ? 自分で持ってこいよ、俺だって忙しいんだからさ」

「陸上部だったんでしょ、実験室ならすぐだって。私今手離せないんだから、お願い」

「いつの話してんだよ。分かったよ、取ってくるから、コーヒー奢れよ」

 カズヤと入れ替わるようにサナエは研究室に入った。研究室の扉のすぐ右側には研究室と堀越の部屋とを繋ぐ扉がある。その扉から部屋の奥に向かって、壁に向かい合うように机が五脚並ぶ。その列の奥から二番目がカオルの席だった。反対側の壁にも同じように机が六脚並んでいて、学生は背中合わせで研究をしている。


「おはよう」

「あ、サナエおはよう」

「朝からずいぶん騒がしいね」

「しょうがないでしょ、学会発表まであと一ヶ月なのに、まだデータがまとまってなくて、かなりヤバいんだから」

 カオルは顕微鏡を覗きながら、じっと目を凝らしている。カオルは西洋タンポポの生育に環境がどのように、どの程度影響を及ぼすかを研究している。

 一心不乱にプレパラートと格闘するカオルの後ろを通って自分の席にバッグを下ろし、タンブラーを置いた。サナエの席は左側の一番奥だ。前の棚には専門書や論文のコピーの入った文書箱がびっしりと並んでいる。


 ノートパソコンの電源を入れて、画面が立ち上がるまでの間に席の後ろ側に備え付けてあるコンロでお湯を沸かす。

「あ、コーヒー淹れるの? 私の分もよろしく」顕微鏡のレンズを覗き込みながらカオルが言った。

「いいよ。お砂糖とミルクはよろしいですか?」サナエは芝居がかった言い方をした。

「ミルクだけお願い」カオルはそう言って自分のカップを差し出してくる。

 サナエはドリッパーに二杯分の粉を入れ、お湯をゆっくりと回し入れる。コーヒーの温かい香りが漂ってくる。粉が膨らんで静かにコーヒーが抽出されていく。「の」の字を描くように、ゆっくりと一定の速さでお湯を注ぐ。こうして研究室でコーヒーを淹れるのがすっかり日課になってしまった。サナエは昔からコーヒーを好んで飲んでいたが、それは多分に両親の影響が大きかった。


  **


 父も母もコーヒーが好きだった。いつもはコーヒーメーカーで淹れていたが、休日になると父は近所のコーヒー店で深入りのコーヒー豆を何種類も買ってきて、うんうんと唸りながらブレンドをしていた。

 母とサナエはそんな父を遠目に見ながら、父の買ってきた豆でコーヒーを淹れた。手動のミルで豆を挽くのはサナエの仕事だった。取っ手を回してがりがりと豆を挽く振動が皮膚をびりびりと刺激してくすぐったい。コーヒー豆はすぐに砂粒くらいの大きさに変わる。サナエの挽いた豆をドリッパーにセットするのは母の仕事だった。ミルの引き出しから粉をドリッパーに入れ、丁寧に表面を均す。沸騰したお湯を専用ポットに移して少しだけ冷まして、それからゆっくりと粉に落としていく。サナエはこの時に部屋中に広がるコーヒーの香りが好きだった。


 ポットを持つ母の脇に立ってふんわりと膨らむ粉を見ていると、「の」の字を書くように注ぐのよ、と母は優しい声で言った。

「こうすると、優しい味のコーヒーになるの」

 サナエはまだコーヒーにたっぷりの牛乳を入れないと飲めなかったので、ブラックでコーヒーを飲む両親に憧れていた。この時ばかりは、早く大人になりたいと思った。

「私も飲めるかな?」

 当時、サナエは中学二年生だった。第二次性徴の真っただ中にあって、日に日に変わっていく体と心を戸惑いながら少しずつ覗き込んでいた。大人になるというのはどういうことなのだろうとおぼろげながら考えていた。

「サナエにはまだ早いわよ。そうね、高校生になったら大丈夫かも」

「まだ二年もあるの? 待てないよ、そんなに長く」サナエは唇を尖らせた。

「人は皆平等に歳をとるものよ」

 当時流れていたテレビコマーシャルのキャッチコピーを、母はことあるごとに引用していた。そのようにして母は、寄る年波を受け流しているようだった。

「それ、全然答えになってないよ」

「そう? カフェオレ美味しいじゃない。お母さんはカフェオレも好きよ。温かく柔らかくて。本当はね、お母さんもずっとコーヒー飲めなかったのよ」

「そうなんだ。お母さんもずっと子供だったんだ」


 コーヒーが飲めるかどうかで大人であるか否かを決められるわけではないだろうが、サナエは勝ち誇ったような言い方をした。しかし、母にも子供の時代があったということにあまり実感が湧かない。

「そうそう、だから焦ることなんてないわ」

 ゆっくりと注がれるお湯と湧き立つ香り、そしてサーバーに落ちていく琥珀色のコーヒー。サナエの周りだけ時間が穏やかに流れているように感じた。

「いつ頃から飲めるようになったの? 高校? それとも大学生になってから?」

「大学生になってからよ。ちょうどお父さんと出会った頃じゃないかな」

「じゃあ、私の方が早く大人になれるんだ」サナエの言葉に、母は穏やかに笑った。コーヒーフィルターが全体的に褐色を帯びて、サーバーに二杯分のコーヒーが抽出されていた。


「さあ、できた。サナエ、カップと牛乳取ってきてくれる?」

「うん」

 カップに注がれたコーヒーを母は美味しそうに飲んだ。やっぱり、早く大人になりたいとサナエは思った。カフェオレは美味しかったが、牛乳が足りなかったのか、少し苦かった。


 父は母娘のやり取りを聞きながらも、ブレンドの研究に余念がなかった。ブラジルとモカのどちらをベースにするのか、であるとか、そのほかの種類の豆の何をどのくらいブレンドするのか、など幾種類も試していた。

 父のブレンド熱は年を追うごとに高まる一方で、いつ喫茶店を始めると言い出すのか、母とサナエは気が気ではなかった。ただ、目下のところ父のコーヒーは自身の満足いく味には達していないらしい。


 大学生になり、アルバイトを探していた時、コーヒーに関わる仕事がしたいと思ったのもサナエにとっては自然なことだった。サナエは大学一年生から高田馬場駅近くのカフェ「メアリーズ・カフェ」でアルバイトをしていた。初めてのアルバイトであったから、何をするにも初めての経験だった。客の注文を聞き間違えたり、カップを割ってしまったり、最初は失敗ばかりしていた。閉店後はいつも疲れていたし、落ち込んでいた。

「サナエちゃん、カフェオレ飲む?」カフェのカウンターでうなだれていると、店主の河野がカップを差し出してきた。アルバイトを始めて一ヶ月が過ぎた夜だった。

「マリコさん、ありがとうございます」明るい色をした大きめの丸いカップにはカフェオレが半分ほど注がれていた。カップを通して熱が掌に伝わる。一口飲んだ。喉をカフェオレが滑り落ち、腹部をじんわりと温める。ふうっと思わず息を吐いた。


「おいしいです」懐かしさが心を満たすようだった。まるで母の作ったカフェオレのようにサナエを包み込んでいた。「すいません、なんだかいつも迷惑ばかりかけてしまって」

「いいのよ、失敗なんて誰だってするじゃない。また明日もよろしくね」河野はそう言って、店の奥に戻っていく。「飲みかけでよかったら、全部飲んじゃって」最後に、そう言って手を振り、ドアの向こうに入っていった。気遣いなのか茶目っ気なのか、それでもサナエの気持ちが穏やかになったのは変わらなかった。明日も頑張ろう、と素直に思った。その日以来、サナエは前向きに仕事に取り組むようになった。不思議と失敗の数も減り、徐々にカフェの仕事に打ち込んでいった。

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